明史卷三百二十五 列傳第二百一十三 外國六
篇首の立伝者一覧
- 浡泥
- 滿剌加
- 蘇門答剌
- 須文達那
- 蘇禄
- 西洋瑣里
- 瑣里
- 覽邦
- 淡巴
- 百花
- 彭亨(割注に「一に湓亨に作り、又た彭坑に作る」とある)
- 那孤兒
- 黎伐
- 南渤利
- 阿魯
- 柔佛
- 丁機宜
- 巴喇西
- 佛郎機
- 和蘭
浡泥――洪武年間の通交
- 浡泥は宋の太宗の時にはじめて中国と通じた。洪武三年(1370年)八月、御史の張敬之と福建行省都事の沈秩に使を命じた。泉州から航海し、半年かかって闍婆に着き、さらに一月を越えてその国に至った。
- 王の馬合謨沙は傲慢で礼をしなかったが、沈秩が責めると、はじめて座を降りて拝し詔を受けた。当時その国は蘇禄に侵されて衰耗しており、王は貧しさを理由に三年後の入貢を願い出た。沈秩が大義を説くと王は承諾した。
- その国はもと闍婆に属しており、闍婆人が両者を離間したため王の意は沮んだ。沈秩は「闍婆は久しく臣を称し貢を奉じている。おまえは闍婆を畏れて天朝を畏れないのか」と論破した。
- そこで使を遣わして表と箋を奉り、鶴頂・生玳瑁・孔雀・梅花大片龍腦・米龍腦・西洋布・降真ら諸香を貢いだ。八月、張敬之らに従って入朝した。表は金、箋は銀の字で、囘鶻のものに近く、いずれも鏤めて進めた。帝は喜び、宴と賜与はきわめて厚かった。
- 洪武八年(1375年)、その国の山川を福建の山川に次いで附祀させた。
浡泥――永樂年間の来朝と王の客死
- 永樂三年(1405年)冬、王の麻那惹加那が使を遣わして入貢した。官を遣わして国王に封じ、印・誥・敕符・勘合・錦綺・綵幣を賜った。王は大いに悦び、妃および弟妹・子女・陪臣を率いて海を渡り来朝した。福建に泊まったところで守臣が報告し、中官を遣わして宴と賜与を行い、通過する州県はすべて宴を設けた。
- 六年(1408年)八月、都に入って朝見した。帝は奨め労った。王は跪いて言上した。要旨は、陛下は天の宝命を受けて万方を統一された、臣は遠く海島にあって天恩を蒙り封爵を賜った、以来国中は雨と日照りが時に順い、歳ごとに豊かに実り、民に災いや疫病がなく、山川の間に珍奇がことごとく現れ、草木鳥獣もみな繁え育った、国中の耆老はみなこれを聖天子の覆い包む徳の致すところと言う、臣は天日の御姿を仰ぎ見て少しでも誠を輸したく、険しく遠い道を憚らず、身ら家属・陪臣を率いて闕に詣り謝を献じる、というものであった。
- 帝は再三慰労し、王妃が進めた中宮への箋と方物を文華殿に陳べさせ、王が殿に詣って献上を終えた。王・妃以下すべてに冠帯と襲衣を賜い、奉天門で王を饗し、妃以下は別の場所で饗した。礼が終わると会同館に送り帰した。礼官が王が親王に見える際の儀を請うと、帝は公侯の礼に準じさせた。ついで王に儀仗・交椅・銀器・傘扇・銷金の鞍馬・金織文綺・紗羅綾絹の衣十襲を賜い、その他の賜与にも差があった。
- 十月、王が館で卒した。帝は哀悼して三日朝を輟め、官を遣わして祭を致し、繒帛を賻った。東宮・親王もみな使を遣わして祭った。有司が棺槨・明器を具え、安德門外の石子岡に葬り、神道に碑を樹て、墓の側に祠を建て、有司が春秋に少牢を以て祀った。諡は恭順。敕を賜ってその子の遐旺を慰め、国王を襲封するよう命じた。
浡泥――遐旺の嗣立と長寧鎮國之山
- 遐旺とその叔父が上言した。臣の国は歳ごとに𤓰哇に片腦四十斤を供している。𤓰哇への歳供を罷めて天朝に歳進するよう敕してほしい。臣は今帰国するので護送を命じ、一年鎮に留まって国人の望みを慰めさせてほしい。あわせて朝貢の期と傔従の人数を定めてほしい、と。
- 帝はすべて聴き入れ、三年に一貢とし、傔従は王の遣わすままとし、𤓰哇国に敕してその歳供を免じた。
- 王が辞して帰るとき、玉帶一・金百両・銀三千両および錢鈔・錦綺・紗羅・衾褥・帳幔・器物を賜い、その他の者にもみな賜与があった。中官の張謙と行人の周航に護送させた。
- 初め、先の王が「臣は恩を蒙り爵を賜り、臣の境土はことごとく職方に属した。国の後ろの山を封じて一方の鎮としてほしい」と言い、新王も重ねてこれを言った。そこで長寧鎮國之山に封じ、御製の碑文を作らせ、張謙らに碑に勒させた。
- 碑文の趣旨は次のとおりである。上天は我が国家の万世無疆の基を佑け啓き、太祖髙皇帝に命じて天下をあまねく撫させ、休養生息させて治め教えた。その仁の声と義の聞こえは照臨するかぎりに及び、四方万国が奔走して臣服し廷に集まった。朕は鴻図を嗣ぎ守り、典式に率い由い、内外を分けへだてなく一体と視てきた。いま浡泥国王は誠敬の至りで、尊崇すべきところを知り、声教を慕って謹み虔み、その眷属・陪臣を率い、数万里を遠しとせず海を浮かんで来朝し、みずからの志を述べた。曰く、遠方の臣妾は天子の恩を厚く蒙って生を養い、すでに富み且つ安らかであるから、日月の光を見たいと思い、険しく遠い道を憚らずあえて廷に至った、と。また曰く、我を覆うのは天、我を載せるのは地であるが、我に土地人民の奉り、田畑と邑井の集まり、宮室の住まい、妻妾の楽しみ、味を和らげ服に宜しく、器を備えて用を利し、その生を資けるものがあり、強き者もあえて侵さず、衆き者もあえて暴らないのは、実に天子の賜であって、天子の功徳が天地と並ぶものである、と。
- 碑文はさらに続ける。朕は、天と皇考が朕に天下を付し庶民を子として養わせたのであるから、天と皇考の徳を承けることに堪えられぬのを恐れるばかりで、汝の言うとおりではない、と答えた。王はまた拝手稽首して、天子が建元されて以来、臣の国は時が和らぎ歳が豊かで、山川の蔵は珍宝が流れ溢れ、草木で花のなかったものまで華やぎ実り、異禽は和して鳴き走獣は蹌ぎ舞い、国の黄叟はみな中国の聖人の徳化が漸く及んだからだと言う、臣の土は遠いといえども実に天子の民であるから、奮って来覲したのだ、と言った。朕はその言葉が文かで貌が恭しく、動いて則を踰えないのを見て悦び、礼教を喜び夷の習いを脱している、卓越した者でなければできぬことだと思った。載籍を稽えるに、古来遠国で天道を奉じ声教に服して身ら帝廷に至った者はあるが、妻子・兄弟・親戚・陪臣を挙げて階陛の下に臣妾を称した者は浡泥国王ただ一人である。西南諸蕃の国長で王ほど賢い者はいない。王の至誠は金石を貫き神明に達し、令名は永く伝わる。そこで特に国中の山を封じて長寧鎮國之山とし、文を賜って石に刻み、王の美を万年に昭かにする。
- 末尾には詩が繋げてある。趣旨は、炎海の墟に浡泥は処る、仁に煦められ義に漸されて順い迕らわず、賢王は化を慕い、通訳に導かれて奔り赴き、婦子・兄弟・陪臣とともに闕下に稽顙した、君を天のごとしと言い、休楽を遺されたと述べたが、朕は一視同仁であって厚薄に偏らず、この鮮い徳では称えられた言葉に当たらぬと思う、船と風とを頼りにした航海の懇勤には実に労がある、古を稽えるに遠臣が順って来ることでさえ身一つでも難しいのに、まして家室を挙げてとあってはなおさらである、王の心はまことに誠で金石のように堅い、西南の蕃長で誰が王の賢に及ぼうか、矗矗たる高山を王国の鎮とし、石に文を鑱み王徳を懋め昭かにする、王徳がよく昭かであれば王国は寧らかであり、万斯年にわたって我が大明を仰げ、というものである。
浡泥――宣德以後と大泥への改称
- 八年(1410年)九月、使を遣わして張謙らに従わせ入貢し謝恩した。翌年(1411年)、再び張謙に命じてその王に錦綺・紗羅・綵絹あわせて百二十匹を賜い、臣下にもみな賜与があった。
- 十年(1412年)九月、遐旺がその母とともに来朝した。礼官に命じて会同館で宴させ、光禄寺が朝夕に酒饌を給した。翌日、帝は奉天門で饗し、王の母にも宴があった。二日おいて再び宴し、王に冠帯・襲衣を賜い、王の母・王の叔父以下に分け賜って差があった。
- 翌年(1413年)二月、辞して帰るにあたり、金百・銀五百・鈔三千錠・錢千五百緡・錦四・綺帛紗羅八十・金織文繡文綺の衣各一・衾褥・幃幔・器物をことごとく具えて賜った。
- 十四年(1416年)から洪熙元年(1425年)までに四たび入貢した。その後、貢使は次第に稀になった。
- 嘉靖九年(1530年)、給事中の王希文が言った。暹羅・占城・琉球・𤓰哇・浡泥の五国が来貢し、みな東莞から道を取ったが、後に私かに賈客を携えたため多くその貢を絶った。正德年間に佛郎機が闌入して毒を流したので、おおむね一切を屏け絶った。まだ幾年も経たぬのににわかに復すことを議するのは、威を損なうことが甚だしい、と。章は都察院に下され、ことごとく旧制に遵い混冒を許さぬよう請うた。
- 萬歴中、その王が卒して嗣がなく、族人が立つことを争って国中の殺戮はほとんど尽き、そこでその王の女を立てて王とした。漳州の人で張姓の者が、初めその国の那督(華言で尊官の意)となっていたが、乱によって出奔した。女主が立つとこれを迎え還した。
- その女は王宮に出入りするうちに心の病を得、父に反謀があると妄言した。女主は懼れて人を遣わしその家を按問し、那督は自殺した。国人が寃を訟えたので、女主は悔いてその女を絞殺し、その子に官を授けた。
- 後に朝貢はしなくなったが、商人の往来は絶えなかった。国は十四洲を統べ、舊港の西にあり、占城から四十日で至る。初め𤓰哇に属し、後に暹羅に属し、名を大泥と改めた。華人が多くその地に流寓している。
- 嘉靖の末、閩・粤の海寇の遺孽が逃れてここに至り、積もって二千余人となった。萬厯の時、紅毛番が強いてその境で商い、土庫を築いて居した。澎湖に入って互市する者が携えていたのは大泥国の文書であった。諸々の風俗物産は宋史に詳しい。
滿剌加――永樂年間の封と鎮山の碑
- 滿剌加は占城の南にあり、順風で八日で龍牙門に至り、さらに西行二日で至る。古の頓遜、唐の哥羅富沙だとも言う。
- 永樂元年(1403年)十月、中官の尹慶を遣わしてその地に使させ、織金文綺・銷金帳幔ら諸物を賜った。その地には王がなく国とも称さず、暹羅に服属して歳ごとに金四十両を賦として輸していた。尹慶が至って威徳を宣示し招徠の意を示すと、その酋の拜里迷蘇剌は大いに喜び、使を尹慶に随わせて入朝させ方物を貢いだ。
- 三年(1405年)九月、京師に至った。帝は嘉して滿剌加国王に封じ、誥・印・綵幣・襲衣・黄葢を賜い、また尹慶に往かせた。その使者が、王は義を慕い中国の列郡と同じく歳ごとに職貢を効したい、その山を封じて一国の鎮としてほしいと言い、帝は従って碑文を作り山上に勒させた。
- 碑文の末には詩が綴られている。趣旨は、西南の巨海に中国は天を輸し地を灌ぎ、億載にわたって同じく沐す、日に浴し月に浴して光景は融け、雨は崖を、露は石を潤し草木は濃い、金花宝鈿が青と紅を生じる、ここに国があって民俗は和らぎ、王は善義を好み朝宗を思い、内郡に比して華風に依ろうと願う、出入りには導従があり張蓋を重んじ、儀文を裼襲して礼は虔み恭しい、大書して石に貢し、爾の忠を表す、爾の国の西山を永く鎮と封ずる、山君・海伯は翕く扈従し、皇考は陟り降りて彼の穹に在り、天は久しく監視していよいよ隆んである、爾の衆子孫に万福が崇からんことを、というものである。
- 尹慶らが再び至ると王はいよいよ喜び、礼待を加えた。五年(1407年)九月に使を遣わして入貢し、翌年(1408年)鄭和がその国に使し、まもなく入貢した。
滿剌加――王の来朝と歴代の入貢
- 九年(1411年)、その王が妻子・陪臣五百四十余人を率いて来朝した。近郊に至ると中官の海夀・礼部郎中の黄裳らに宴労を命じ、有司が会同館を設営した。奉天殿に入朝し、帝が親しく宴し、妃以下は別の場所で宴した。光禄が日ごとに牲牢と上尊を致した。王には金繡龍衣二襲・麒麟衣一襲・金銀器・帷幔・衾裯をことごとく具えて賜い、妃以下にもみな賜与があった。
- 帰ろうとするとき王に玉帶・儀仗・鞍馬を賜い、妃に冠服を賜った。出発に臨んで奉天門で宴を賜い、重ねて玉帶・儀仗・鞍馬・黄金百・白金五百・鈔四十万貫・錢二千六百貫・錦綺紗羅三百匹・帛千匹・渾金文綺二・金織通袖膝襴二を賜った。妃および子姪・陪臣以下にも宴と賜与に差があった。礼官が龍江駅で見送りの席を設け、龍潭駅で重ねて宴を賜った。
- 十年(1412年)夏、その姪が入って謝した。辞して帰るとき中官の甘泉を偕に往かせ、まもなくまた入貢した。
- 十二年(1414年)、王子の母幹撒于的兒沙が来朝して父の訃を告げ、ただちに襲封を命じ金幣を賜った。以後は連年あるいは隔年に入貢するのを常とした。
- 十七年(1419年)、王が妻子・陪臣を率いて来朝し謝恩した。辞して帰るとき暹羅に侵されている状を訴え、帝は敕を賜って暹羅を諭し、暹羅は詔を奉じた。
- 二十二年(1424年)、西里麻哈剌が父の没により嗣位し、妻子・陪臣を率いて来朝した。
- 宣德六年(1431年)、使者が来て言った。暹羅が本国を侵そうと謀っており、王は入朝したいが阻まれるのを懼れている。奏聞しようにも書ける者がないので、臣ら三人を蘇門答剌の貢舟に附して入って訴えさせた、と。帝は鄭和の舟に附して帰国させ、鄭和に敕を齎させて暹羅を諭し、鄰封と睦むべきこと、朝命に違うなと責めた。
- 初め三人が至ったとき貢物がなく、礼官は例として賞すべきでないと言ったが、帝は「遠人が数万里を越えて不平を訴えに来たのに、賜与がなくてよいか」と言い、貢使の例のとおり襲衣・綵幣を賜った。
- 八年(1433年)、王が妻子・陪臣を率いて来朝し南京に至ったが、すでに寒くなっていたので春の和らぐのを待って北上させ、別に人を遣わし敕を齎して王と妃を労い賜与した。入朝すると宴と賜与は礼のとおりであった。帰るときは有司が舟を仕立てた。王はさらにその弟を遣わして駝馬・方物を貢いだ。時に英宗がすでに嗣位しており、王はなお広東にいたので、敕を賜って王を奨め、守臣に送還を命じた。あわせて古里・眞臘ら十一国の使臣を同船させて偕に還らせた。
- 正統十年(1445年)、その使者が、王の息力八密息瓦兒丟八沙のために護国の敕書と蟒服・傘葢を賜って国人を鎮服させたいと請い、また王が親しく闕下に詣りたいが従人が多いので、遠渉に便な巨舟一艘を賜りたいと言った。帝はすべて聴き入れた。
- 景泰六年(1455年)、速魯檀無答佛哪沙が馬と方物を貢し、王に封ぜられることを請うた。詔して給事中の王暉を往かせた。のち再び入貢し、賜った冠帯が火事で焼けたと言うので、皮弁服・紅羅の常服および犀帶・紗帽を製して与えた。
- 天順三年(1459年)、王子の蘇丹芒速沙が使を遣わして入貢し、給事中の陳嘉猷らに封を命じた。二年を越えて礼官が言うには、陳嘉猷らは海に浮かんで二日で烏猪洋に至り颶風に遭って舟が壊れ、六日漂って清瀾守禦所に至り救われた、敕書は失わなかったが賜物はことごとく水を被ったので、重ねて給して使臣を再び往かせたい、と。従われた。
- 成化十年(1474年)、給事中の陳峻が占城王を冊封しようとしたが、安南の兵が占城を拠していて入れず、齎した物を滿剌加に至らせ、その王に入貢を諭した。その使者が至ると帝は喜び、敕を賜って嘉し奨めた。
- 十七年(1481年)九月、貢使が言った。成化五年(1469年)の貢使は還る途中で安南の境に漂着し、多くが殺され、残った者は黥されて奴とされ、幼い者は宮刑に処された。今や安南は占城の地を占拠し、さらに本国を呑もうとしている。本国はみな王の臣であるからと、あえて戦わなかった、と。折しも安南の貢使も至っていたので、滿剌加の使臣は廷での対弁を請うた。兵部は既往のことで深く較べるに足りぬと言い、帝は安南の使が還るのに因って敕でその王を責め、あわせて滿剌加には、安南がまた侵し陵ぐなら兵を整えて戦を待てと諭した。
- まもなく給事中の林榮・行人の黄乾亨を遣わして王子の馬哈木沙を王に冊封させたが、二人は溺死した。官を贈り祭を賜い廕を予えてその家を恤み、その他の者にも敕して有司に海濱で招魂の祭をさせ、やはりその家を恤んだ。改めて給事中の張晟・行人の左輔を遣わしたが、張晟は広東で卒したので、守臣に一官を択んで左輔の副とし封事を終えさせた。
滿剌加――正德の使臣殺害事件と佛郎機による滅亡
- 正德三年(1508年)、使臣の端亞智らが入貢した。その通事の亞劉はもと江西萬安の人で、蕭明舉が罪を負ってその国に逃げ入っていた者である。大通事の王永・序班の張字に賂して浡泥へ往って宝を索めることを謀り、礼部の吏の侯永らもまた賂を受けて偽の符印を作り、郵𫝊を擾した。
- 広東に還ったところで蕭明舉は端亞智らと言い争いになり、同事の彭萬春らとともにこれを劫殺し、財物をことごとく奪った。事が発覚して京に逮え、蕭明舉は凌遲、彭萬春らは斬、王永は死一等を減じて米三百石を罰し、張字・侯永とともに辺に戍らせた。尚書の白鉞以下もみな罰を議された。劉瑾はこれによって江西人を罪し、その解額を五十名減じ、仕える者は京職に任じられぬこととした。
- 後に佛郎機が強いて兵を挙げてその地を侵奪し、王の蘇端媽末は出奔して使を遣わし難を告げた。時に世宗が嗣位しており、敕して佛郎機を責め、その古土を還すよう令じ、暹羅ら諸国の王に救災恤鄰の義を諭したが、応じる者はなく、滿剌加はついに滅ぼされた。
- 時に佛郎機もまた使を遣わして朝貢し封を請うたが、広東に至ると守臣は、その国が素より王会に列していないとして、その使を羈めて報告した。詔して方物の値を予えて帰らせた。後に麻六甲と改名したという。
滿剌加――物産と風俗
- 滿剌加が貢いだ物には、瑪瑙・珍珠・玳瑁・珊瑚樹・鶴頂・金母鶴頂・瑣服・白苾布・西洋布・撒哈剌・犀角・象牙・黒熊・黒猿・白麂・火雞・鸚鵡・片腦・薔薇露・蘇合油・梔子花・烏爹泥・沈香・速香・金銀香・阿魏の類がある。
- 泉を出す山があり、流れて溪となる。土人は沙を淘って錫を取り、煎じて塊とする。これを斗錫という。田は瘠せて収穫が少なく、民はみな沙を淘い魚を捕るのを業とする。気候は朝は熱く暮には寒い。男女は椎結し、身体は黝く黒いが、間に白い者がおり、唐人の種である。
- 俗は淳厚で市の道もかなり平らかであったが、佛郎機に破られてからその風はにわかに異なった。商舶が至ることは稀になり、多くは直に蘇門答剌へ詣るが、必ずその国を通る道を取るので、おおむね邀えられて劫され、海路はほとんど断たれた。中国へ自ら販る者は直に広東の香山澳に達し、跡を接して絶えないという。
蘇門答剌――永樂の封と鄭和の三度の使
- 蘇門答剌は滿剌加の西にあり、順風で九昼夜で至る。漢の條枝、唐の波斯・犬食二国の地だとも言う。西洋の要会である。
- 成祖の初め、使を遣わして即位の詔をその国に諭した。永樂二年(1404年)、副使の聞良輔・行人の寗善を遣わし、その酋に織金文綺・絨錦・紗羅を賜って招き寄せた。中官の尹慶が𤓰哇に使したとき、道の便でまたその国に使した。
- 三年(1405年)、鄭和が西洋に下って重ねて賜与があった。鄭和が至る前に、その酋の宰奴里阿必丁はすでに尹慶に従って使を入朝させ方物を貢いでいた。詔して蘇門答剌国王に封じ、印誥・綵幣・襲衣を賜った。以後は毎年入貢し、成祖の世を通じて絶えなかった。鄭和はあわせて三たびその国に使した。
蘇門答剌――漁翁の王位と蘇幹剌の乱
- これより先、王の父が鄰国の花面王と戦って矢に中って死に、王子は年が幼かった。王の妻は衆に号して、我がために讐を報じる者があればその者を夫として国事を共にする、と言った。漁翁がこれを聞いて国人を率いて往き撃ち、その王を馘して還った。王妻はついにこれと合し、老王と称した。
- やがて王子が長ずると、密かに部領と謀って老王を殺し、その位を襲った。老王の子の蘇幹剌は山中に逃れ、連年衆を率いて侵し擾した。
- 十三年(1415年)、鄭和が再びその国に至ると、蘇幹剌は頒賜が自分に及ばぬのを怒り、数万人を統べて鄭和を邀え撃った。鄭和は歩卒と国人を勒してこれを禦ぎ、賊衆を大破し、南渤利国まで追って俘にして帰った。その王は使を遣わして入り謝した。
蘇門答剌――宣德の頒詔と貢使の絶
- 宣德元年(1426年)、使を遣わして入り賀した。五年(1430年)、帝は外蕃の貢使が多く至らないので、鄭和および王景𢎞を遣わして諸国を遍歴させ詔を頒った。
- その詔の趣旨は次のとおりである。朕は恭しく天命を膺け、太祖髙皇帝・太宗文皇帝・仁宗昭皇帝の大統を承けて万邦に君臨し、祖宗の至仁を体して庶類にあまねく寧を輯めた。すでに天下に大赦し、宣德と紀元した。汝ら諸蕃国は遠く海外にあって未だ聞き知らぬので、いま太監の鄭和・王景𢎞らを遣わし詔を齎して諭す。それぞれ天道を敬い人民を撫し、ともに太平の福を享けよ、と。あわせて二十余国を歴し、蘇門答剌もこれに与った。
- 翌年(1431年)、使を遣わして入貢すること二度。八年(1433年)に麟麟を貢いだ。九年(1434年)、王の弟の哈利之漢が来朝して京で卒した。帝は憫れんで鴻臚少卿を贈り誥を賜い、有司に喪葬を治めさせ、守塜の戸を置いた。
- 時に王景𢎞が再びその国に使し、王は弟の哈尼者罕を遣わして随わせ入朝させた。翌年(1435年)至って、王が老いて事を治められないので子に位を伝えたいと言い、その子の阿卜賽亦的を国王に封じた。これより貢使は次第に稀になった。
- 成化二十二年(1486年)、その使者が広東に至ったが、有司は印信勘合が無いことを験し、その表を庫に蔵めて使を却け返した。別に番人を遣わして貢物を京師に輸させ、やや給賜があった。以後、貢使は至らなかった。
蘇門答剌――奴の簒奪と啞齊への改称
- 萬厯年間に及んで国は二たび姓を易えた。その時に王であった者は人の奴であった。奴の主は国の大臣で兵柄を握っていた。奴は桀くさとく、主は象を牧わせ、象が肥えたので魚税を監させた。日ごとに大魚をその主に奉ったので主は大いに喜び、左右に給事させた。
- ある日、主に随って入朝し、王の尊厳が神のようで、主が身を屈めてひたすら謹むのを見た。退出して主に「主はどうしてそんなに恭しいのですか」と言うと、主は「彼は王だ。どうして抗せようか」と答えた。奴は「主がただ王になりたくないだけです。欲しさえすれば主が王です」と言った。主は驚き叱ってこれを退けた。
- 他日また進んで言った。王の左右の侍衛は少ない。主は重兵を擁して出鎮するとき必ず入って辞するはずである。奴を従えることを請い、主は機密の事があると言って左右を屏けるよう乞えば、王は必ず疑わない。奴が隙に乗じて刺殺し、主を奉じて王とするのは掌を返すようなものだ、と。
- 主は従い、奴は果たして王を殺し、大呼して「王は不道であったから吾がこれを殺した。吾が主が王である。あえて異議する者はこの刃を齒せよ」と言った。衆は懾れ服してあえて動けず、その主はついに位を簒った。奴を心腹に任じて兵柄を委ねたが、いくばくもなく奴はまた主を殺して代わった。
- そこで大いに防衛を為し、その宮を拓げて六門を建て、闌入させなかった。勲貴といえども刀を帯びて殿に上ることを得ず、出るときは象に乗り、象に亭を駕けてその外を帷い、そのようなものが百余あって、人に王の所在を測らせなかった。
- その国の俗はかなり淳く、言葉は柔らかで媚びるようである。ただ王は殺すことを好み、歳ごとに十余人を殺してその血を取り身を浴し、疾を除けると言う。
- 貢物には宝石・瑪瑙・水晶・石青・囘囘青・善馬・犀牛・龍涎香・沈香・速香・木香・丁香・降眞香・刀・弓・錫・鎖服・胡椒・蘇木・硫黄の類がある。貨舶が至って貿易するのは平らかと称される。地はもと瘠せて麦は無く禾があり、禾は一歳に二たび稔る。四方の商賈が輻輳し、華人で往く者は地が遠く価が高いので他国の倍の利を得る。気候は朝は夏のごとく暮は秋のごとくで、夏には瘴気がある。婦人は裸体で腰に一布を囲むだけ。その他の風俗は滿剌加に類する。簒弑の後、国名を啞齊と改めた。
須文達那
- 洪武十六年(1383年)、国王の殊旦麻勒兀達朌が使の俺八兒を遣わして来朝し、馬二匹・幼苾布十五匹・隔著布・入的力布各二匹・花滿直地二・番緜紬直地二・兜羅緜二斤・撒剌八二箇・幼賴革著一箇・撒哈剌一箇および薔薇水・沈香・降香・速香ら諸物を貢いだ。王に大統歴・綺羅・宝鈔を、使臣に襲衣を賜るよう命じた。
- 須文達那は蘇門答剌が洪武の時に名を改めたものだと言う者もあるが、その貢物と王の名がいずれも異なっており、考えるすべがない。
蘇禄――三王の来朝と東王の客死
- 蘇禄は地が浡泥・闍婆に近い。洪武の初め、兵を発して浡泥を侵し大いに獲たが、闍婆の援兵が至ったので還った。
- 永樂十五年(1417年)、その国の東王の巴都葛叭哈剌、西王の麻哈剌叱葛剌麻丁、峒王の妻の叭都葛巴剌卜が、そろって家属・頭目あわせて三百四十余人を率いて海を渡って朝貢し、金鏤の表文を進め、珍珠・宝石・玳瑁ら諸物を献じた。滿剌加のように礼遇し、まもなく並べて国王に封じ、印誥・襲衣・冠帯および鞍馬・儀仗・器物を賜い、その従者にも冠帯を賜って差があった。
- 二十七日居って三王が辞して帰るとき、それぞれに玉帶一・黄金百・白金二千・羅錦文綺二百・帛三百・鈔万錠・錢二千緡・金繡の蠎龍麒麟衣各一を賜った。
- 東王は德州に泊まったところで館で卒した。帝は官を遣わして祭を賜い、有司に葬を営ませ、墓道に碑を勒し、諡を恭定とした。妻妾・傔従十人を留めて墓を守らせ、三年の喪を畢えるのを俟って帰らせた。
- そこで使を遣わし敕を齎してその長子の都馬含に諭した。趣旨は、汝の父は中国を尊ぶことを知り、身ら家属・陪臣を率いて遠く海道を渉り万里来朝した、朕はその誠悃を眷み、すでに王封を錫い賜与を優加し、官を遣わして護り帰らせたが、舟が德州に泊まったところで疾に遭って歿した、朕はこれを聞いて深く哀悼し、すでに葬祭は礼のとおりにした、汝は嫡長として国人の属するところであるから、ただちに継承して藩服を綏んぜよ、今特に汝を蘇禄国東王に封ずる、汝はますます忠貞を篤くし、敬んで天道を承け、朕の眷懐に副い、汝の父の志を継げ、欽め、というものである。
- 十八年(1420年)、西王が使を遣わして入貢した。十九年(1421年)、東王の母が王の叔父の叭都加蘇里を遣わして来朝させ、大珠一つを貢いだ。重さは七両あまりであった。二十一年(1423年)、東王妃が国に還り、厚く賜って遣った。翌年(1424年)入貢したが、以後は再び至らなかった。
- 萬厯の時、佛郎機がしばしばこれを攻めたが、城は山の険に拠っており、ついに下すことができなかった。
蘇禄――地勢と物産
- その国は古に考えるところが無い。地は瘠せて粟麦に乏しく、民はおおむね魚蝦を食い、海を煮て塩とし、蔗を釀して酒とし、竹を織って布とする。気候は常に熱い。
- 珠池があり、夜に望むと光が水面に浮かぶ。土人は珠を華人と市易し、大きなものは数十倍の利がある。商舶が返ろうとするときはいつも数人を留めて質とし、再び来ることを冀う。その旁近の国を高藥といい、玳瑁を出す。
西洋瑣里
- 洪武二年(1369年)、使臣の劉叔勉に命じて即位の詔をその国に諭した。三年(1370年)、沙漠を平定して再び使臣を遣わし詔を頒った。その王の别里提が使を遣わして金葉の表を奉り、劉叔勉に従って方物を献じた。文綺・紗羅ら諸物を賜うことはなはだ厚く、あわせて大統歴を賜った。
- 成祖が即位の詔を海外諸国に頒ったとき、西洋もこれに与った。永樂元年(1403年)、副使の聞良輔・行人の甯善に命じてその国に使させ、絨錦・文綺・紗羅を賜った。のち中官の馬彬に命じて往かせ、賜与は前のとおりであった。その王はただちに使を遣わして来貢し、附載した胡椒を民と市したので、有司が徴税を請うたが、徴さぬよう命じた。
- 二十一年(1423年)、庫哩・阿爾丹ら十五国とともに来貢した。
瑣里
- 瑣里は西洋瑣里に近くやや小さい。洪武三年(1370年)、使臣の達哈特穆爾に詔を齎させてその国を撫し諭した。
- 五年(1372年)、王の卜納的が使を遣わして表を奉り朝貢し、あわせてその国の土地山川の図を献じた。帝は中書省の臣を顧みて、西洋の諸国は素より遠蕃と称され、海を渉って来るのに歳月を計り難い、その朝貢は疏か数かを論ぜず、厚く往き薄く来るでよい、と言った。そこで大統歴および金織文綺・紗羅各四匹を賜い、使者にも幣帛を賜って差があった。
覽邦
- 覽邦は西南海中にある。洪武九年(1376年)、王の昔里馬哈剌札的剌札が使を遣わして表を奉り来貢した。詔してその王に織金文綺・紗羅を賜い、使者への宴と賜与は制のとおりであった。永樂・宣德年間には鄰国に附して朝貢したことがある。
- その地は沙礫が多く、麻・麦のほかに他の作物が無い。商賈が至ることは稀である。山は平らかに連なって峯巒が無く、水もまた浅く濁っている。俗は仏を好み、賽祀に勤める。その貢は孔雀・馬・檀香・降香・胡椒・蘇木。交易には錢を用いる。
淡巴
- 淡巴もまた西南海中の国である。洪武十年(1377年)、その王の佛喝思羅が使を遣わして表を上り方物を貢いだ。賜与に差があった。
- その国は石の城に瓦の屋。王は輿に乗り、官は跨官で、中国の威儀がある。土は衍かで水は清く、草木は暢び茂る。畜産ははなはだ多く、男女は耕織に勤め、市には貿易があり、野に寇盗が無く、楽土と称されている。その貢は苾布・兜羅緜の被・沈香・速香・檀香・胡椒。
百花
- 百花は西南海中に居る。洪武十一年(1378年)、その王の剌丁剌者望沙が使を遣わして金葉の表を奉り、白鹿・紅猴・龜筒・玳瑁・孔雀・鸚鵡・哇哇倒掛鳥および胡椒・香蠟ら諸物を貢いだ。詔して王および使者に綺幣・襲衣を賜り、差があった。
- 国中の気候は常に暖かく霜雪が無い。奇花異卉が多いので百花と名づける。民は富み饒かで、釈教を尚ぶ。
彭亨――永樂の入貢と風土
- 彭亨は暹羅の西にある。洪武十一年(1378年)、その王の麻哈剌惹答饒が使に金葉の表を齎させ、番奴六人および方物を貢いだ。宴と賜与は礼のとおりであった。
- 永樂九年(1411年)、王の巴剌密瑣剌達羅息泥が使を遣わして入貢した。十年(1412年)、鄭和がその国に使した。十二年(1414年)に再び入貢し、十四年(1416年)には古里・𤓰哇ら諸国とともに貢し、また鄭和に報させた。
- その国は土田が沃え、気候は常に温かく、米粟が饒かに足りる。海を煮て塩とし、椰の漿を釀して酒とする。上下は親しみ狎れて寇賊が無い。しかし鬼神に惑い、香木を刻んで像とし、人を殺して祭り、災を禳い福を祈る。貢するものには象牙・片腦・乳香・速香・檀香・胡椒・蘇木の類がある。
彭亨――柔佛副王の侵攻と王位の簒奪
- 萬厯の時に至り、柔佛国の副王の子が彭亨王の女を娶ることになり、婚儀にあたって副王は子を彭亨まで送った。彭亨王が酒宴を設けて親戚がことごとく会したとき、婆羅国の王子(彭亨王の妹の壻である)が觴を挙げて副王に献じたが、その手の指に巨大な珠があってはなはだ美しかった。
- 副王はこれを欲しがり重い賄を約したが、王子は惜しんで与えなかった。副王は怒って国に帰り、兵を発して攻めて来た。彭亨の人は不意を突かれ、戦わずして自ら潰えた。王と婆羅の王子は金山に奔った。
- 浡泥国王は王妃の兄であり、これを聞いて衆を率いて来援した。副王はそこで大いに焚き掠めて去った。この時に当たり国中に鬼哭すること三日、人民は半ば死んだ。
- 浡泥王はその妹を迎えて帰り、彭亨王もこれに随って、その長子に国を摂らせた。のち王は復位したが、次子はもとより凶悍で、ついにその父を毒殺し、兄を弑して自立した。
那孤兒
- 那孤兒は蘇門答剌の西にあり、壌を相接する。地は狹く千余家に止まる。男子はみな墨で面を副き花や獣の状とするので、また花面国という。頭髪は猱のようにし裸体で、男女は単布で腰を囲むだけである。
- しかし俗は淳く、田には稲禾が足り、強き者は弱き者を侵さず、富める者は貧しき者に驕らず、みな自ら耕して食い、寇盗が無い。永樂中に鄭和がその国に使し、その酋長は常に方物を入貢した。
黎伐
- 黎伐は那孤兒の西南、大山の北・大海の西にあり、南渤利に接する。居民は三千家で、一人を推して主とし、蘇門答剌に隷する。声音・風俗は多くこれと同じである。永樂中にその使臣に随って入貢したことがある。
南渤利
- 南渤利は蘇門答剌の西にあり、順風で三日夜で至る。王および居民はみな囘囘人で、わずか千余家。俗は朴実である。地に穀が少なく、人は多く魚蝦を食う。
- 西北の海中にはなはだ高大な山があり、帽山という。その西にはまた大海があり那没黎洋という。西から来る洋船はみなこの山を望んで目印とする。山に近い浅い水の内に珊瑚樹が生じ、高いものは三尺ばかりである。
- 永樂十年(1412年)、その王の馬哈麻沙が使を遣わし蘇門答剌の使に附して入貢した。その使に襲衣を賜い、王に印誥・錦綺・羅紗・綵幣を賜い、鄭和を遣わしてその国を撫し諭した。成祖の時を通じて毎年入貢し、その王子の沙者罕もまた使を遣わして入貢した。宣德五年(1430年)、鄭和が諸国にあまねく賜ったとき、南渤利もこれに与った。
阿魯
- 阿魯は一名を啞魯という。滿剌加に近く、順風で三日夜で達する。風俗・気候はおおいに蘇門答剌に類する。田は瘠せて収穫が少なく、盛んに芭蕉・椰子を植えて食とする。男女はみな裸体で布を腰に囲む。
- 永樂九年(1411年)、王の速魯唐忽先が使を遣わし古里ら諸国に附して入貢した。その使に冠帯・綵幣・宝鈔を賜い、その王にも賜与があった。十年(1412年)、鄭和がその国に使した。十七年(1419年)、王子の段阿剌沙が使を遣わして入貢し、十九年(1421年)・二十一年(1423年)に再び入貢した。宣德五年(1430年)、鄭和が諸蕃に使したときも賜与があった。その後は貢使が至らなかった。
柔佛
- 柔佛は彭亨に近く、一名を烏丁礁林という。永樂中に鄭和が西洋を遍歴したが柔佛の名は無い。ある説では鄭和はかつて東西竺山を経たといい、今この山はまさにその地にあるので、東西竺ではないかと疑われている。
- 萬歴年間、その酋は兵を構えるのを好み、鄰国の丁機宜・彭亨はしばしばその患を被った。他国へ販る華人は多くここに就いて貿易し、時にはその国に招き入れられた。国中は茅を覆って屋とし、木を列ねて城とし、池を環らす。事の無いときは外に通商し、事あれば募って兵とし、強国と称された。
- 地は穀を産せず、常に鄰の地から米を易える。男子は髪を薙り、徒跣で刀を佩び、女子は髪を蓄えて椎結する。その酋は双刀を佩びる。字は茭蔁の葉に刀で刺して書く。婚姻もまた門閥を論ずる。王は金銀を食器とし、群下は磁を用いる。七筯が無い。俗は持齋を好み、星を見てはじめて食う。節序は四月を歳首とする。喪に居るとき婦人は髪を薙り、男子は重ねて薙る。死者はみな火葬にする。
- 産するものには犀・象・玳瑁・片腦・没藥・血竭・錫・蠟・嘉文簟・木棉花・檳榔・海菜・窩燕・西国米・蛬・吉柿の類がある。
- 初め、その国の吉寜仁が大庫となり、王に忠であって王の頼み信ずるところとなった。王の弟は兄が己を疏んずるとして密かにこれを殺した。のち出行して馬から堕ちて死んだが、左右の者はみな吉寜仁が祟をなすのを見た。これより家々でこれを祀るようになった。
丁機宜
- 丁機宜は𤓰哇の属国である。幅員ははなはだ狹く、わずか千余家。柔佛はさとくて雄であり、丁機宜は接壌していて時にその患を被ったが、のち厚い幣を以て婚を求め、ようやく寧処を得た。
- その国は木を以て城とし、酋の居る傍らに鐘鼓楼を列ね、出入りには象に乗る。十月を歳首とする。性は潔を好み、酋の食う物はみな自ら割き烹る。民俗は𤓰哇に類し、物産はことごとく柔佛と同じである。
- 酒の禁ははなはだ厳しく常税があるが、大家はみな飲まず、ただ細民で無籍の者が飲み、その仲間はみなこれを笑いものにする。婚は男が女の家に往ってその門戸を持つので、女を生むのが男に勝るとされる。喪には火葬を用いる。華人が往って商い交易するのははなはだ平らかであったが、柔佛に破られてからは往く者もまた稀になった。
巴喇西
- 巴喇西は中国を去ることきわめて遠い。正德六年(1511年)、使臣の沙地白を遣わして入貢し、次のように言った。その国は南海にあり、初め王命を奉じて来朝したが、舟行四年半で風に遭って西瀾海に漂い、舟が壊れて小艇一つが残るのみとなり、また八日漂流して得吉零国に至った。一年居って祕得に至り八月居り、そこで陸を遵って行き二十六日を経て暹羅に至った。事情を王に告げて日々の給与を賜り、かつ婦女四人を賜って四年居り、今年五月になってはじめて番舶に附して広東に入り、闕下に達した、と。
- 金葉の表を進め、祖母緑一・珊瑚樹・琉璃瓶・玻璃盞各四および瑪瑙珠・胡黑丹ら諸物を貢いだ。帝はその遠来を嘉し、賜与に加えるところがあった。
佛郎機――正德の入貢と滿剌加併呑をめぐる論
- 佛郎機は滿剌加に近い。正德中に滿剌加の地を拠してその王を逐った。十三年(1518年)、使臣の加必丹末らを遣わして方物を貢し封を請い、はじめてその名が知られた。詔して方物の値を給して還らせたが、その人々は久しく留まって去らず、行旅を剽劫し、小児を掠めて食うに至った。
- やがて鎮守の中官に夤縁して入京を許された。武宗が南巡したとき、その使の火者亞三は江彬の縁で帝の左右に侍り、帝は時にその言葉を学んで戯れとした。懐遠駅に留まった者はますます良民を掠め買い、室を築き寨を立てて久しく居る計をなした。
- 十五年(1520年)、御史の邱道隆が言った。滿剌加は冊封を受けた国であるのに佛郎機はあえてこれを併せ、しかも利を以て我を啗い封貢を邀求している。決して許してはならない。その使臣を却け、順逆を明示し、滿剌加の疆土を還させてはじめて朝貢を許すべきである。もし執迷して悛めないなら、必ず諸蕃に檄告して罪を声し討つべきだ、と。
- 御史の何鰲が言った。佛郎機は最も凶狡で、兵械は諸蕃の中でひとり精しい。先年は大舶を駕して広東の会城に突入し、砲声は地を殷わせた。駅に留まる者は制に違って交通し、都に入った者は桀驁で長を争った。今その往来貿易を聴せば、勢い必ず争闘して殺傷し、南方の禍はほとんど極まりが無かろう。祖宗の朝は貢に定期があり防に常制があったので来る者は多くなかった。近ごろ布政使の吳廷舉が、上供の香物が欠けるとして何年に来たかを問わず貨を取るとしたため、番舶は海の澨に絶えず、蛮人は州城に雑り集まった。禁防はすでに疏かで水道はいよいよ熟した。これが佛郎機の機に乗じて突然至った所以である。澳にある番舶および潜居する番人をことごとく駆り、私通を禁じ守備を厳しくすれば、一方は安きを得よう、と。
- 疏が礼部に下されると、邱道隆は先に順德を宰し何鰲は順德の人であるから利害を深く知っている、滿剌加の使臣が至るのを俟って佛郎機が鄰邦を侵奪し内地を擾乱した罪を廷詰し処置を奏請すべきである、その他はことごとく御史の言のとおりに、と言い、報可された。
- 亞三は帝に侍って驕りがはなはだしく、駕に従って都に入り会同館に居たが、提督主事の梁焯に見えて膝を屈しなかった。梁焯は怒って撻ち、江彬は大いに罵って「彼はかつて天子と嬉れた者だ。どうしておまえのような小官に跪こうか」と言った。翌年(1521年)武宗が崩じ、亞三は吏に下された。自ら本は華人で番人に使われたのだと言い、そこで伏法し、その朝貢を絶った。
- その年七月、また朝使に接済すると称して土物を携え市を求め、守臣は故事のとおり抽分することを請うたが、詔して再びこれを拒んだ。
佛郎機――西草灣の戦いと佛郎機砲
- その将の别都盧はすでに巨砲と利兵を以て滿剌加ら諸国を掠め、海上に横行していたが、さらにその属の疎世利らを率いて五舟を駕し、巴西国を撃ち破った。
- 嘉靖二年(1523年)、ついに新會の西草灣を寇した。指揮の柯榮・百戸の王應恩がこれを禦ぎ、転戦して稍州に至った。向化人の潘丁茍が先登し、衆が斉しく進んで、别都盧・疎世利ら四十二人を生け捕り、首を斬ること三十五級、その二舟を獲た。余賊はまた三舟を率いて接戦し、王應恩は陣没したが賊もまた敗れて遁れた。官軍はその砲を得て、これを佛郎機と名づけた。副使の汪鋐がこれを朝に進めた。
- 九年(1530年)秋、汪鋐は累官して右都御史となり上言した。今、塞上の墩臺・城堡は設けられていないわけではないが、寇が来るたびに蹂躙されるのは、墩臺はただ望み見るだけであり、城堡には遠くを制する具が無いためで、しばしば困を受ける。臣が進めた佛郎機を用いるべきである。小さいものは二十斤以下で遠く六百歩に及ぶから墩臺に用い、墩ごとに一つを置き三人で守らせる。大きいものは七十斤以上で遠く五、六里に及ぶから城堡に用い、堡ごとに三つを置き十人で守らせる。五里に一墩、十里に一堡とし、大小相依り遠近相応ずれば、寇は足を容れるところが無くなり、坐して戦わずして功を収められる、と。帝は悦んでただちに従った。火砲に佛郎機があるのはここに始まる。しかし将士はうまく用いず、ついに寇を制することができなかった。
佛郎機――互市の可否と朱紈の獄
- 初め広東の文武官の月俸は多く番貨で代えていたが、この時に至って貨の至る者が寡なくなった。佛郎機に通市を許すことを復すべしと議する者があったが、給事中の王希文が力争し、諸蕃の貢が時によらぬもの、勘合の差失したものはことごとく禁止すると定令された。これによって番舶はほとんど絶えた。
- 巡撫の林富が上言した。粤中の公私の諸費は多く商税に資っており、番舶が至らねば公私ともに窘しむ。今、佛郎機に互市を許すには四つの利がある。祖宗の時、諸蕃の常貢のほかにもとより抽分の法があり、その余りをやや取れば御用に供するに足りる。これが利の一。両粤はここ数年兵を用いて庫蔵が耗竭したから、これに籍って軍餉に充て不虞に備えられる。これが利の二。粤西は素より粤東に仰ぎ給しており、少しく徴発があっても措辦が前まぬが、番舶が流通すれば上下たがいに済う。これが利の三。小民は懋遷を生とし、一銭の貨を持てば転じて販い易え、その中に衣食する。これが利の四。国を助け民を裕かにする両つながらの頼みであって、これは民の利に因って利するのであり、利の孔を開いて民に禍の梯をかけるのではない、と。従われた。
- これより佛郎機は香山澳に入って市をなすことを得、その徒はまた境を越えて福建に商い、往来が絶えなかった。二十六年(1547年)に至り朱紈が巡撫となって通番を厳禁したため、その人々は利を獲るところが無く、衆を整えて漳・泉の月港・浯嶼を犯した。副使の柯喬らがこれを禦ぎ却けた。
- 二十八年(1549年)、また詔安を犯し、官軍が走馬溪で迎え撃ち、賊首の李光頭ら九十六人を生け捕り、余は遁げ去った。朱紈は便宜によってこれを斬った。朱紈を怨む者があり、御史の陳九德はその専擅を劾した。帝が給事中の杜汝禎を遣わして験させると、これは滿剌加の商人が歳ごとに海濱の無頼の徒を招いて往来し鬻ぎ販ったもので、僭号や流劫の事は無い、朱紈が擅に誅を行ったのは誠に御史の劾したとおりだ、と言った。朱紈はついに逮えられて自殺した。滿剌加がすなわち佛郎機であることを知らなかったのである。
- 朱紈が死んでから海禁はまた弛み、佛郎機はついに海上に縦横して忌むところが無く、香山澚の壕鏡に市する者は室を築き城を建て、海畔に雄踞して一国のようになった。将吏の不肖な者はかえってこれを外府と視た。
佛郎機――壕鏡(澳門)の占拠
- 壕鏡は香山県の南、虎跳門の外にある。これより先、暹羅・占城・𤓰哇・琉球・浡泥ら諸国の互市はいずれも広州にあり、市舶司を設けてこれを領していた。正德の時に髙州の電白県に移し、嘉靖十四年(1535年)に指揮の黄慶が賄を納れて上官に請い、これを壕鏡に移して歳ごとに二万金を課として輸させた。佛郎機はこれによって混じり入ることができ、高い棟と飛ぶ甍が櫛比して相望み、閩・粤の商人が趨ること騖せるがごとくであった。久しくしてその来る者はますます衆く、諸国の人は畏れて避け、ついにもっぱらその拠るところとなった。
- 四十四年(1565年)、偽って滿剌加と称して入貢し、のち蒲都麗家と改称した。守臣が報告し、部議は必ず佛郎機の仮託であるとしてこれを却けた。
- 萬厯中、呂宋を破滅させ、ことごとく閩・粤の海上の利を擅にし、勢いはいよいよ熾んになった。三十四年(1606年)に至り、また隔水の青州に寺を建てた。高さ六、七丈、閎く敞く奇しく閟かで、中国に無いものであった。知県の張大猷はその高い墉を毀つよう請うたが果たさなかった。翌年(1607年)、番禺の挙人の盧廷龍が会試のため都に入り、澳中の諸番をことごとく逐って浪白の外海に出て居らせ、我が壕鏡の故地を還させるよう請うたが、当事者は用いることができなかった。
- 番人はすでに城を築き、海外の雑番を聚めて広く貿易を通じ、万余人に至った。その土に吏たる者はみな畏懼してあえて詰らず、はなはだしくはその宝貨を利として佯って禁じ陰かに許す者もあった。総督の戴燿は在事十三年、その患を養成した。人はまた潜かに倭賊を匿し、官軍を敵し殺した。
- 四十二年(1563年)、総督の張鳴岡が番人に檄して倭を駆って海に出させ、上言した。粤に澳夷があるのは疽が背にあるようなもの、澳に倭賊があるのは虎に翼を附けるようなものである。今ひとたび駆り斥けて一矢も費やさなかったのは聖天子の威徳の致すところである。ただ倭は去ったが番はなお存る。剿除すべしと言う者もあり、浪白の外洋に移して船に就いて貿易させるべしと言う者もある。しかし兵は軽々しく動かし難く、壕鏡は香山の内地にあって官軍が海を環らして守り、彼らの日々の食は皆我に仰いでいるから、ひとたび異志を懐けば我はただちにその死命を制せられる。もし外洋に移せば、巨海は茫茫として奸宄をどう詰り、制禦をどう施すのか。約束を申し明らかにし、内は一人の奸も闌れ出ることを許さず、外は一人の倭も闌れ入ることを許さず、釁を啓かず防を弛めず、相安んじて患い無きに如くはない、と。部議はこれに従った。
- 三年居って中路の雍陌営に参将を設け、千人を調して戍らせ、防禦は次第に密になった。天啟元年(1621年)、守臣は彼らがついに患いとなることを慮り、監司の馮從龍らを遣わしてその築いた青州城を毀たせ、番もあえて拒まなかった。
- その時、大西洋人が中国に来て、やはりこの澳に居した。思うに番人はもと市易を求めただけで初めは不軌の謀は無かったのに、中朝がこれを疑うことがはなはだしく、ついにその朝貢を許さず、また制する力も無かったので、議者が紛然としたのである。しかし明の世を通じて、この番はついに変を為さなかった。
佛郎機――風貌と俗
- その人は身が長く鼻が高く、猫のような睛に鷹のような嘴、赤い髪と赤い鬚をもつ。経商を好み、強きを恃んで諸国を陵ぎ轢り、往かぬところが無い。後にはまた干系臘国と称した。
- 産するものは犀・象・珠・貝が多い。衣服は華やかで潔く、貴い者は冠、賤しい者は笠をかぶり、尊長に見えればすぐこれを去る。初めは仏教を奉じ、後に天主教を奉じた。
- 市易にはただ指を伸ばして数を示すだけで、累千金であっても約契を立てず、事あれば天を指して誓い、たがいに負かない。滿剌加・巴西・呂宋の三国を滅ぼしてより、海外の諸蕃であえてこれに抗する者は無かった。
和蘭――紅毛番の東来と香山澳
- 和蘭はまた紅毛番と名づける。地は佛郎機に近い。永樂・宣德の時、鄭和が七たび西洋に下って諸蕃数十国を歴したが、和蘭というものは無かった。その人は目が深く鼻が長く、髪・眉・鬚はみな赤く、足の長さは一尺二寸、頎く偉く常の倍である。
- 萬厯中、福建の商人が歳ごとに引を給されて大泥・呂宋および咬𠺕吧に往き販ったが、和蘭人は諸国に就いて転じ販り、あえて中国を窺わなかった。佛郎機が香山に市し呂宋を拠してから、和蘭は聞いてこれを慕った。
- 二十九年(1601年)、大艦を駕し巨砲を携えて直に呂宋に薄ったが、呂宋人が力めて拒んだので、転じて香山澳に薄った。澳中の人がしばしば詰問すると、貢市を通じたいので寇を為すのではないと言った。当事者は難じたが、税使の李道はただちにその酋を召して城に入れ、一月遊び処らせ、あえて朝に聞かせなかった。そこで還らせたが、澳中の人はその上陸を慮って謹んで防禦したので、ようやく引き去った。
和蘭――澎湖占拠と沈有容の説諭
- 海澄の人の李錦および奸商の潘秀・郭震は久しく大泥に居って和蘭人と親しく、その言葉および中国の事に通じていた。李錦が「もし貢市を通じたいなら漳州に如くはない。漳の南に澎湖嶼があり、海を去ること遠い。誠にこれを奪って守れば貢市は成し難くない」と言った。その酋の麻韋郎が「守臣が許さねばどうする」と言うと、「税使の髙寀は金銀をはなはだ嗜む。もし厚く賄えば彼は特に疏を上聞し、天子は必ず可と報ずる。守臣がどうして旨に抗せようか」と言い、酋は「善し」と言った。
- 李錦はそこで大泥国王に代わって書を作り、一通を髙寀に、一通を兵備副使に、一通を守将に移し、潘秀・郭震にこれを齎して来させた。守将の陶拱聖は大いに駭き、急ぎ当事者に告げて潘秀を獄に繋いだので、郭震はついにあえて入らなかった。
- 初め潘秀と酋の約では、閩に入って成議があれば舟を遣わして知らせることになっていたが、酋は気短で待てず、麻韋郎は二大艦を駕して直に澎湖に至った。時に三十二年(1604年)七月で、汛の兵はすでに撤していたので無人の墟に入るようであり、そのまま木を伐り舎を築いて久しく居る計をなした。
- 李錦もまた潜かに漳州に入って偵探し、捕えられて逃げ還ったと詭り言ったが、当事者はすでにその状を廉り知っており、あわせて獄に繋いだ。やがて二人を遣わしてその酋を諭し国に還らせ、自ら贖うことを許し、かつ郭震を拘えて偕に往かせることを議した。三人はすでに酋と約を成していたので自らその失を彰わすことを欲せず、ただ我が国はなお依違して定まらぬと言うだけであった。
- 当事者が遣わした将校の詹獻忠が檄を齎して往き諭したが、多く幣帛・食物を携えてその厚い酬いを覬い、海濱の人もまた潜かに貨物を載せて往き市したので、酋はますます観望して去ろうとしなかった。当事者はしばしば使を遣わして諭したが、酋の語を見るたびに競わず、いよいよ侮られた。
- 髙寀はすでに心腹の周之範を酋のもとに遣わし、三万金を髙寀に餽れば貢市を許すと説かせていた。酋は喜んでこれと盟い、すでに成ろうとしていた。折しも総兵の施德政が都司の沈有容に兵を将いて往き諭させた。沈有容は胆智に負み、大声で論説したので酋は心折れ、「我はかつてこのような言を聞いたことがない」と言った。その配下が刃を露にして詰ると、沈有容は懾れるところなく気を盛んにして弁じた。酋はそこで悔悟し、周之範に贈った金を還させ、ただ哆囉嗹・玻璃器および番刀・番酒を髙寀に餽って通市を代奏するよう乞うた。
- 髙寀はあえて応ぜず、撫按は奸民が海に下ることを厳禁して犯す者は必ず誅すとしたので、これによって接済の路は窮まり、番人は食を得るところが無くなり、十月の末に帆を揚げて去った。巡撫の徐學聚は潘秀・李錦らの罪を劾し、死を論じ戍に遣わすなど差があった。
和蘭――臺灣・澎湖の再拠と南居益の討伐
- しかしこの時、佛郎機が海上に横行しており、紅毛はこれと雄を争って、また舟を汎べて東来し、美洛居国を攻め破って佛郎機と地を分けて守った。後にはまた臺灣の地を侵し奪い、室を築き田を耕して久しく留まって去らなかった。海上の奸民が貨物を闌れ出させてこれと市した。
- やがてまた出て澎湖に拠り、城を築いて守を設け、次第に市を求める計をなした。守臣は禍を懼れ、城を毀って遠く徙れば互市を許すと説き、番人はこれに従った。天啟三年(1623年)、果たしてその城を毀ち舟を移して去った。巡撫の商周祚は諭に遵って遠く徙ったと上聞したが、臺灣に拠っているのはもとのままであった。
- やがて互市が成らないので番人は怨み、また澎湖に城を築き、漁舟六百余艘を掠め、華人に土石を運ばせて築城を助けさせた。まもなく厦門を犯し、官軍がこれを禦いで数十人を俘斬した。そこで詭りの詞で款を求め、再び城を毀って遠く徙ると許しながら、修築はもとのとおりであった。またさらに舟を風櫃仔に泊め、浯嶼・白坑・東椗・莆頭・古雷・洪嶼・沙洲・甲洲の間に出没して互市を要求し、海寇の李旦がまたこれを助けたので、濱海の郡邑は戒厳した。
- その年、巡撫の南居益が着任して討つことを謀り、上言した。臣が境に入ってから聞くに、番船五艘が続いて至り風櫃仔の船と合してあわせて十一艘、その勢いはいよいよ熾んである。小校の陳士瑛という者を先に咬𠺕吧に遣わしてその王に宣諭させたが、三角嶼で紅毛の船に遇い、咬𠺕吧王はすでに阿南国に往ったと言うので、陳士瑛とともに大泥に至ってその王に謁した。王の言うには、咬𠺕吧の国主はすでに大いに戦艦を集め、澎湖に往って互市を求め、もし許されなければ必ず兵を構えることになろうと議している、と。思うに阿南は紅毛番の国であり、咬𠺕吧・大泥がこれと謀を合わせているのだから、必ず理を以て諭すことはできない。今日の計は兵を用いるほかない、と。あわせて兵を調え餉を足す方略を列上し、部議はこれに従った。
- 四年(1624年)正月、将を遣わしてまず鎮海港を奪ってこれに城き、築きつつ戦うと、番人は退いて風櫃城を守った。南居益は兵を増して往き助け、攻撃すること数月に及んだが寇はなお退かない。そこで大いに兵を発して諸軍が斉しく進むと、寇の勢いは窮まり、二たび使を遣わして兵を緩め米を舟に運び入れることを容せば退き去ると求めた。諸将は窮寇は追うなかれとしてこれを許し、ついに帆を揚げて去った。ただ渠帥の髙文律ら十二人が高楼に拠って自ら守ったので、諸将はこれを破って擒え、俘を朝に献じた。澎湖の警はこれで息んだが、臺灣に拠る者はなおもとのままであった。
和蘭――崇禎年間の広州来航
- 崇禎中、鄭芝龍に破られ、数年は内地を窺わなかった。そこで香山の佛郎機と通好し、私かに外洋に貿った。十年(1637年)、四舶を駕して虎跳門より広州に薄り、市を求めると声言した。その酋は市上を招き揺がし、奸民はこれを金穴のように視た。思うに大姓でこれを主とする者があったのである。当道は壕鏡の事に鑑みて駆り斥けることを議したが、中から撓す者もあった。折しも総督の張鏡心が着任して力めて不可を持したので、そこで遁げ去った。
- やがて奸民の李葉榮に誘われ、総兵の陳謙と交通して居停を為し、出入りしたが事が露見した。李葉榮は吏に下され、陳謙は自ら調用を請うて禍を避けたが、兵科の淩義渠らに劾され、逮訊されることとなった。これより奸民は事がついに成らぬことを知ってあえて勾引しなくなったが、番人はなお臺灣に拠ってもとのままであった。
和蘭――巨舟と紅夷砲
- その本国は西洋にあって中華を去ることきわめて遠く、華人はいまだ至ったことがない。恃むところはただ巨舟と大砲だけである。舟は長さ三十丈、広さ六丈、厚さ二尺余、五桅を樹て、後ろを三層の楼とし、傍らに小窓を設けて銅砲を置き、桅の下に二丈の巨大な鉄砲を置く。これを発すれば石城を洞裂し、数十里を震わせる。世に紅夷砲と称するのはその製である。しかし舟が大きくて転じ難く、あるいは浅い沙に遇えば動けなくなり、その人はまた戦を善くしないので、往々にして挫き衂れる。
- その役使する者を烏鬼と名づける。水に入っても沈まず、海面を走ること平地のようである。その柁の後ろに照海鏡を置く。大きさは径数尺で、数百里を照らすことができる。
- その人はことごとく天主教を奉ずる。産するものには金・銀・琥珀・瑪瑙・玻璃・天鵝絨・𤨏服・哆囉嗹がある。国土はすでに富み、中国の貨物で意に当たるものに遇えば厚い資を惜しまないので、華人は喜んでこれと市をなす。