明史卷三百十四 列傳第二百二 雲南土司二
篇首の立伝者一覧
- 姚安
- 鶴慶
- 武定
- 尋甸
- 麗江
- 元江
- 永昌
- 新化
- 威逺
- 北勝
- 灣甸
- 鎮康
- 大候
- 瀾滄衛
- 麓川
姚安――沿革
- 姚安はもと漢の弄棟・蜻蛉の二県の地である。唐が姚州都督府を置いた。土地の民に姚姓が多かったことによる。天寳年間(742-756年)に南詔の䝉氏が改めて弄棟府とし、宋のときに段氏が姚州と改めた。元は統矢千戸所を立て、天厯年間(1328-1330年)に姚安路へ昇格させた。
- 洪武十五年(1382年)、雲南を平定して府に改めた。
姚安――土官の叛と平定
- 洪武十六年(1383年)、姚安の土官自久が乱を起こした。官兵が討伐に向かい九十九莊まで軍を進めると自久は逃げ去った。翌年また品甸を侵した。西平候沐英が奏請して土官の髙保を姚安府同知、髙惠を姚安州同知とした。保と惠は英に従って自久を撃ち、これを平らげた。
- 洪武二十年(1387年)、普定侯陳桓・靖寧侯葉昇に命じて雲南へ赴かせ諸軍を総制させ、定邊・姚安などの地に営を立てて屯田耕作させた。
- 洪武二十六年(1393年)、保が襲職にあたり弟を遣わして馬を貢し謝恩した。
- 宣徳九年(1434年)、姚安土知府の髙賢が使者を遣わして馬を貢した。
- 𢎞治年間、土官の髙棟が普安の叛賊と戦い、板橋驛で戦死した。
- 嘉靖三十年(1551年)、土官の髙鵠は元江の変にあたり、布政司の徐樾が害されたとき身を挺して救援に赴き、そこで死んだ。
- 萬厯年間、同知の髙金が緬征伐の功により四品の服を賜った。
姚安――鐡索箐の平定
- 所属の大姚県に鐡索箐という一団があった。もとは猓の種族で、山の険に拠って剽掠を生業とし、周辺の郡はみなその害を受けていた。𢎞治年間にやや帰順する者が出て、姚安と姚州に分けて所属させたが、嘉靖年間になって専ら姚安に属させた。
- その首領の羅思なる者は幻術を用い、偽の印を造って乱を称した。萬厯元年(1573年)、巡撫の鄒應龍と総兵官の沐昌祚がこれを討ち平らげ、諸郡はようやく安んじた。
鶴慶――沿革と府の設置
- 鶴慶は唐のとき鶴川と称し、南詔が謀統郡を置いた。元初に鶴州に至り、至元年間に鶴慶府へ昇格し、まもなく路に改められた。
- 洪武年間、大軍が雲南を平定した際、兵を分けて三営萬戸砦を抜き、その参政の博順特穆爾ら六十七人を捕らえ、鶴慶府を置いて土官の髙隆に府事を代行させた。
- 洪武十七年(1384年)、董賜を知府、髙仲を同知、賜の子の節を安寧知州、楊奴を劍川知州とした。賜はその配下を率いて来朝し、馬と方物を貢した。詔して官帯および織金文綺・布帛・鈔錠を賜った。
鶴慶――董賜の辞退
- 洪武十八年(1385年)、賜を雲南前衛世襲指揮僉事とした。賜は安寧州の人で、代々酋長を務めていた。大軍が滇に入ると衆を率いて降り、従軍して賊を討ち功があったので、子の節とともに世襲の知府・知州の命を受けたのである。
- 賜は来朝したとき、父子ともに顕栄を受けながら報いるすべがなく、子は幼くて政治に通じていないとして、父子ともに授かった官を返上し、自らは安寧知州となりたいと願い出た。帝は「そなたは辺鄙を安んじうるから官を授けて勲功に酬いたのだ。いま尊位を辞して卑位に居ろうとは何事か」と言い、潁國公𫝊友徳および諸大臣に議させた。皆、賜には既に功があるのだから辞退を聴すべきではないが、節の官職なら免じてよいとした。
- そこで賜を明威将軍・雲南前衛世襲指揮僉事に改め、「雲南前衛は安寧に近接している。特にそなたにこの職を命じる。遠方の民をまとめて辺鄙を安んぜよ。再び辞退してはならぬ」と諭した。
鶴慶――劍川の叛乱と衛の設置
- 洪武二十年(1387年)、劍川の土官楊奴が叛き、大理衛指揮の鄭祥がこれを討って八十余人を斬った。楊奴は逃げたが、まもなく劍川に戻ってふたたび蠻を集めて乱をなし、祥がまた兵をもって撃ち斬った。
- 洪武二十四年(1391年)、鶴慶衛を置いた。三十年(1397年)、鶴慶府を軍民府に改めた。
- 永樂十五年(1417年)、順州知州の王義が、聖化に浴して三十余年、声教の及ぶところ言語も次第に通じ、子弟にも俊秀の者が出ていると述べて学校の建設を請い、許された。
鶴慶――髙倫の獄と流官への改置
- 正統二年(1437年)、副使の徐訓が「鶴慶土知府の髙倫とその弟の純がしばしば凶悪をほしいままにして士庶を屠戮し、母の楊氏および叔父の宣と互いに害しあっている」と奏した。黔國公沐晟に敕して降伏を諭させ、強を恃んで服さなければ軍を動員して捕らえよとした。
- 正統五年(1440年)、また右都督の昂らに敕して言った。「近ごろ土知府髙倫の妻の劉氏が倫の弟の髙昌らと囉囉・麽些の人々を糾合して凶暴をほしいままにし、事が発覚しても逮捕・訊問に従わないと聞く。敕が届いたら直ちに官を派して事実を調べ、はかって官軍を動かし首謀者を捕らえ、千戸の王蕙および髙宣らを京に護送して尋問せよ。」
- 正統八年(1443年)、鶴慶の民である楊仕潔の妻阿夜珠が、倫がその子を謀殺したと訴え出た。また法司に命じて文書を移して調べ検めさせた。やがて大理衛の千戸が、倫がほしいままに軍馬を率いて母を謀殺しようとしたと奏報し、さらにその母が倫の不孝、および私に民財を取り立て多く兵器を造り軍民を殺戮して支解・梟示した罪を訴えたと述べた。そこで右都督の沐昂らに敕して調べ直させ、奏上が届いて「倫の犯した罪はみな事実で、死罪に当たる」と言った。
- 倫は繰り返し訴え、叔父の宣と襲職を争い、また千戸の王蕙と妾を娶ることを争ったために恨みを買って誣告・陥害されたのであり、調べに挙がった殺害は皆病死した者と強盗が捕縛を拒んだ者だと述べた。倫の母の楊もまた、倫に不孝はなく実は宣らの陥害によるものだと訴えた。さらに昂および御史の嚴恭に敕して確かめ調べさせ、やがて罪を定めて奏上し、倫らはみな誅に伏した。
- 髙氏の一族に後を継ぐべき者がなく、帝は流官の中から人を択んで遠方の蠻を安んぜよと命じ、瀘州知府の林遒節を知府に抜擢した。鶴慶が流官に改まったのはここに始まる。
武定――沿革と洪武・宣徳・正徳年間
- 武定は南詔三十七部の一つである。宋の淳熙年間(1174-1189年)、大理の段氏が阿□(底本欠字)を羅婺部の長とした。三代を伝えて矣格に至り、元の世祖のとき北部土官総管となった。至元七年(1270年)、武定路に改め南甸県を置いた。
- 洪武十四年(1381年)、雲南が下り、武定の女土官である商勝が真っ先に帰附した。十五年(1382年)、武定軍民府に改め、勝に府事を代行させた。十六年(1383年)、勝が人を遣わして来朝し馬を貢したので、詔して勝に誥命・朝服および錦幣・鈔錠を賜った。十七年(1384年)、和曲の土官の豆𣲖を知州とした。二十一年(1388年)、内帑を支出して武定・徳昌・㑹川の諸所で馬三千匹を買わせた。
- 宣徳元年(1426年)、元謀県の故土知県である吾忠の子の政が来朝した。
- 正徳二年(1507年)四月、武定に雹が降り、渓水が増して堤を決壊させ田を壊し、霜が降りて麦を枯らした。七月、武定所属の南甸県を廃して和曲州に隷属させ、石舊県を祿勸州に隷属させた。三年(1508年)、土知府の鳳英が従征の功で右參政に進み、なお知府の職を兼ねた。金帯を賜ることを請い、部の議は不可としたが、帝は英に軍功があるとしてこれを与えた。翌年、英が馬を貢して謝恩し、例のとおりに下賜された。
武定――鳳朝文・安銓の乱
- 嘉靖七年(1528年)、土舎の鳳朝文が乱を起こし、同知以下の官吏を殺して州印を奪い、兵を挙げて尋甸の賊である安銓と合流し雲南府を攻めた。撫臣がこれを報告した。当時、安銓がまだ平らがぬうちに朝文がまた起こったので滇中は大いに乱れた。詔して右都御史の伍文定を兵部尚書とし、雲・貴・川・湖の軍務を提督させ、四鎮の土漢の官軍を動員して賊を討たせた。
- 五月、黔國公の沐紹勲が疏を上げた。命を奉じて巡撫らと会同し官軍を分道して派し賊の討伐と招撫にあたらせたが、諸賊は抗い逆らって派遣した官軍二人を留め置き、召集した各地の土舎もまた自ら疑い畏れている。そこで臨機に榜を示して先に冠帯を与え、後に承襲を奏請することとしたところ、衆はようやく奮い立ち、二月に進兵して強賊十余人を斬り、賊は武定に逃げ帰った。兵部に敕して自分に方略を授け便宜行事を許し、あわせて各土舎の過去の罪を宥し、功ある者にはみな承襲を許してその敵愾の気を奮わせてほしい、と願った。帝はこれを容れ、敕を賜って奨励した。
- 賊は敗れて帰り、その一党はやや散った。もともと朝文は配下を欺いて「武定知府の鳳詔母子はすでに誅殺され、朝廷はいま武定の蠻を根絶やしにしようとしている」と言っていた。ここに至って鳳詔がその母とともに衆を率いて㑹城から向かうと、蠻の民は顔を見合わせて驚き、みな鳳詔に投じて降った。朝文は策の尽きるところとなり、普渡を断って逃げた。官兵が追いついてまた破ると、朝文は家奴数人を率いて霑益州へ道を取り、東川の湯郎箐まで逃れたが追兵に及ばれ、磔にされて死んだ。
- 銓の兵はなお盛んで、尋甸の旧巣に逃げ拠って寨数十を連ねた。官兵は哨を分けて挟み撃ちにし、諸寨は次々に破れ、力を合わせてその必古の旧巣を攻め抜いた。銓は東川へ逃げ芒部に入ったが土舎の禄慶に捕らえられ、賊は平らいだ。
- この役では、賊の首領格千余人を生け捕り、首二千九百余級を斬り、男女千二百余人を捕虜とし、蠻の一党二万余を撫して解散させ、奪った器械・牛馬は数えきれなかった。捷報が届き、銓と朝文はともに梟首して晒され、その財産は没収され家族は辺境に流されて守備に就かせられた。
武定――府印の帰属と瞿氏
- 嘉靖十六年(1537年)、土知府の瞿氏に印を掌らせた。もともと府印は洪武以来つねに土官の長の手にあった。正徳年間、有司が議して流官の同知に与え、土知府の職は専ら巡捕と徴糧だけとした。鳳詔が死ぬと瞿氏は母として子の官を襲い、管轄下の四十七馬頭の阿台らがたびたび印を瞿氏に属させるよう請うたので、吏部は旧例に当たるからその請いのとおりにすべきだと覆奏し、許された。
武定――索林と鳳繼祖の争い
- 嘉靖四十二年(1563年)、瞿氏は老いて鳳詔の妻の索林を挙げて自らに代えた。索林が襲職すると姑への礼を失することがあり、瞿氏は大いに怒って異姓の子の繼祖を引き取って鳳氏の一族に入れ、その甥の婿である貴州水西の土舎安國亨、四川建昌の土官鳳氏の兵力を頼み、索林を廃して繼祖に嗣がせようとした。果たせぬので疏を具えて自ら索林に囚禁されていると称し、繼祖に闕へ詣でて訴えさせた。繼祖は帰ると偽って朝命を受けて襲職したと称し、手兵を駆って府印を奪おうと迫った。索林は印を抱いて㑹城へ逃げ、撫按の官がこれを諭して解決させた。索林は武定に帰って以前どおり政務を執ったが、繼祖が瞿氏のもとに留まることも認めた。こうして嫁と姑の反目はいよいよ甚だしくなった。
- 索林が繼祖を誅そうと謀って事が漏れ、繼祖はついに大挙して兵を発して府を囲み、和曲・祿勸などの州県を劫掠し、動員されて来た土官の王心一らの兵を殺傷した。索林はまた印を抱いて逃げ、雲南巡撫の曹忭が令を下して印を収め、その側近の鄭竤を逮捕して獄に繋ぎ、瞿氏に暫く府事を執らせ、繼祖は罪を免じて改心を求めた。
- 嘉靖四十四年(1565年)、府の通判一員を増設した。四十五年(1566年)、武定の新城が完成した。巡撫の吕光洵が鄭竤を府へ帰らせて元の職に復させた。鄭竤とは、以前に索林のために繼祖の殺害を謀った者である。繼祖はこれを捕らえて殺し、衆を集めて新城を攻めた。臨安通判の胡文顯が百戸の李鰲・土舎の王徳隆を督して救援に向かったが、雞溪子隘で伏兵に遭い、鰲および徳隆はともに死んだ。僉事の張澤が尋甸の兵二千余を督して馳せ救ったがまた敗れ、澤および千戸の劉裕が捕らえられた。
- 鎮巡の官は諸道の兵を促して並び進ませ、繼祖の東山寨に迫って囲んだ。繼祖は懼れて澤と索林を連れて照姑へ逃げ、まもなく澤を殺した。官軍が急追すると、直勒から江を渡って四川へ向かい、東川の妻の実家の阿科らを頼った。巡按の劉思周が状況を報告し、雲南・四川に敕して兵を合わせて賊を討たせた。
- はじめ繼祖が東川へ逃げたとき、土官の鳳氏はこれと通じていたが、やがて滇・蜀の官軍と土舎の祿紹先らの兵がみな集まるのを見て繼祖に背き、兵七千人を発して援けに来た。繼祖はいよいよ窮し、賊将の者色が紹先の陣営に降って繼祖を斬り献じた。姚縣の土官の髙繼先がまたその残党を捕らえ、姚安府同知の髙欽および弟の鈞、首謀者の趙士傑らはみな誅に伏した。
- 守臣は流官に改設することを議したが、なお鳳氏を絶やすには忍びず、索林の傍系である鳳厯の子の思堯に経厯の職を授け、荘園百余を給した。鳳厯は知府を得られなかったのを怨み、密かに四川の七州および水西宣慰の安國亨と結んで乱を謀った。流官の知府劉宗寅が人を遣わして諭したが聴かず、ついに衆を集めて思堯を知府と称し、夜に府城を襲った。城中は厳重に備えて入れず、退いて魯墟に屯した。宗寅が夜に兵を出してその陣営に斬り込むと賊は潰え、馬刺山まで追って鳳厯を捕らえ誅に伏させた。
武定――阿克の乱と流官化
- 萬厯三十五年(1607年)、繼祖の甥の阿克は久しく金沙江の外に移されていたが、賊党の鄭舉らが阿克を誘って乱を起こさせ、密かに江外の㑹川の諸蠻と結んで武定へ直ちに攻め込み、大いに劫掠をほしいままにし、次々に元謀・羅次の諸城を破って府印を求めた。折しも流官の知府が印を携えて㑹城にいたので手に入らず、賊は印がなくては人を呼び集めがたいとして推官を脅して冠帯と印信を求めた。鎮撫は兵がまだ集まらないので懼れ、人を遣わして府印を与えた。賊は退いて武定に入り、阿克を立てて知府とした。
- 鎮撫は土兵を召集して五路に分けて進み討ち、武定・元謀・羅次・禄豐・嵩明などの州県を回復し、阿克およびその一党を捕らえて京師に送り、市中で磔にした。武定は平らぎ、ここですべて流官を置くこととなった。
㝷甸――沿革と入貢
- 㝷甸は古の滇國の地で、僰剌蠻が住み、仲劄溢源部と号した。後に烏蠻の末裔の新丁に奪われて新丁部と号した。䝉氏は㝷甸とし、段氏に至って仁地部と改めた。元初に仁地萬戸を置き、後に仁徳府と改めた。
- 洪武十五年(1382年)、雲南を平定し、仁徳の土官の阿孔らが馬と方物を貢したので、㝷甸軍民府と改めた。十六年(1383年)、土官の安陽が来朝して馬・虎皮・氊衫などを貢したので、詔して衣服・錦綺・鈔錠を賜った。十七年(1384年)、㝷甸の土官の沙琛を知府とした。二十三年(1390年)、木宻闗守禦千戸所を尋甸の甸頭易龍驛に置き、また屯田所を甸頭里と果馬里に置いて連携して耕作させ辺境の備えとした。この後、土官はみな期日どおりに入貢した。
㝷甸――安宣・安晟と安銓の乱
- 成化十二年(1476年)、兵部が、土官舎人の安宣が衆を集めて殺害・略奪していると奏し、鎮守の官に機を見て撫し捕らえるよう命じた。十四年(1478年)、土知府の安晟が死に、兄弟が襲職を争ったので、ついに流官に改置した。
- 嘉靖六年(1527年)、安銓が乱を起こした。土舎で職を失った者である。嵩明・木宻・楊林などを侵掠し、巡撫の𫝊習が守巡の官に檄して討たせたが大敗し、賊はついに㝷甸・嵩明を陥れ、指揮の王昇・唐功らを殺し、知府の馬性魯は城を棄てて逃げた。当時、武定の鳳朝文が叛き、銓はこれと合流したが、久しくして誅に伏した。事は前の伝に詳しい。
麗江――沿革と木徳
- 麗江は南詔の䝉氏が麗水節度を置いた地である。宋のとき麽些蠻の䝉醋がここに拠った。元初に察罕桑宣慰司を置き、至元年間に麗江路軍民総管府に改めて置き、後に宣撫司と改めた。
- 洪武十五年(1382年)、麗江府を置いた。十六年(1383年)、蠻長の木徳が来朝して馬を貢したので、木徳を知府、羅克を蘭州知州とした。
- 洪武十八年(1385年)、巨津の土酋の阿奴聰が叛いて石門闗を襲い、千戸の浦泉が戦死した。吉安侯の陸仲亨が指揮の李榮・鄭祥を率いて討ち、賊は戦って敗れ山谷に逃げ込んだが、捕らえて誅した。当時、木徳は従軍し、また西平侯沐英に従って景東・定邊を征し、いずれも功があったので世襲を与えられた。
- 洪武二十四年(1391年)、木徳が死に、子の初が襲職することになった。初は巨津州の石門闗を守って西畨と境を接していたので、襲職にあたり英は初の弟の虧を千夫長として代わりに石門を守らせるよう請い、許された。
- 洪武二十六年(1393年)十月、西平侯の沐春が「麗江の土民は毎年白金七百六十両を納めているが、いずれも麽些洞の産で、民は馬を金に換えており真偽に通じていない」と奏し、馬をもって代納させるよう請い、許された。三十年(1397年)、麗江軍民府に改めた。春の請いによる。
- 永樂十六年(1418年)、檢校の龎文郁が、本府および寳山・巨津・通安・蘭州の四州は帰化して久しいとして学校の建設を請い、許された。
麗江――者保の乱と木氏の代々
- 宣徳五年(1430年)、麗江府が、浪滄江寨の蠻の者保らが衆を集めて略奪していると奏した。黔國公の沐晟が官を派して撫し諭したが服さず、部の議は改めて招撫を行うこととした。すでに蘭州の土官の羅牙らが、者保が命に従わないと奏し、兵を発して討つことを請うた。帝は黔國公および雲南三司に機を見て処置し、些細なことで蠻民を激変させるなと命じた。
- 正統五年(1440年)、知府の木森に誥命を賜い、大中大夫・資治少尹を加授した。麓川征伐の功による。
- 成化十一年(1475年)、知府の木嶔が、鶴慶の千夫長の趙賢がたびたび群賊を集めて境を越え殺害・略奪していると奏し、近隣の衛の官軍を動員して捕らえ討つことを願った。守臣に知らせて対策を立てさせるよう命じた。
- 嘉靖三十九年(1560年)、知府の木髙が宮殿の造営を助ける銀二千八百両を献じ、詔して文職三品の服色を加え誥命を給した。四十年(1561年)、また木材と銀三千八百両を献じ、詔して一級を進め亞中大夫を授け誥命を給した。
麗江――鉱税と木増
- 萬厯三十一年(1603年)、巡按御史の宋興祖が奏した。税使の内監楊榮が麗江の土官に土地を明け渡して採掘を許させようとしているが、麗江は太祖が木氏を代々の官として石門を守らせて西域を断ち、鉄橋を守らせて吐蕃を断たせて以来、まことに南方の屏藩となっている。いま土地を明け渡して採掘を許させれば必ず遠方の蠻の心を失う。たとえ諭に従ったとしても国家に毎年吐蕃への防備を生じさせるし、もし従わなければ国体を傷つけるだけでは済まない、と。疏が上がって事は取りやめとなった。
- 萬厯三十八年(1610年)、知府の木増が蠻征伐の軍費として餉銀二万余両を助け、北勝の土舎の髙光裕の例に準じて加級されることを願い、部が覆奏して三品の服色を賜った。巡按御史がその越権を弾劾して新たな恩典を取り消すよう請い、許された。四十七年(1619年)、増はまた銀一万を納めて遼餉を助けた。
- 泰昌元年(1620年)、増の功を録して白金と表裏を賞し、その子の懿および舎目にもそれぞれ銀幣を差をつけて賞した。天啟二年(1622年)、増が病を申し出たので左參政を加授して致仕させた。五年(1625年)、特に増に誥命を給してその忠を表彰した。雲南の諸土官のうち、詩書を知り礼を好み義を守る点では麗江の木氏を第一とするという。
元江――沿革と洪武・永樂年間
- 元江は古くは西南の蠻の最も辺境の地で、惠籠甸といい、また因逺部とも名づけた。南詔の䝉氏はこれを銀生節度に属させ、白蠻の蘇・張・周・段など十姓を移して守らせ、また威逺などの地を開いて威逺睒を置いた。後に和泥がその地を侵し占めた。宋のとき儂智髙の一党がここに逃れ住んだ。和泥はまた羅槃甸を開いてそこに住み、後に麽些・徒蠻・阿僰の諸部の占めるところとなった。元のとき内附し、至元年間に元江萬戸府を置き、後に威逺に改めて元江路を置き、羅槃・馬籠など十二部を領させ、臨安・廣西・元江などの処の宣慰司に属させた。
- 洪武十五年(1382年)、元江府と改めた。十七年(1384年)、土官の那直が来朝して象を貢したので、那直を元江知府とし、襲衣と冠帯を賜った。十八年(1385年)、因逺羅必甸長官司を置いてこれに隷属させ、土酋の白文玉を副長官として冠帯を賜った。二十年(1387年)、経厯の楊大用を元江などの府へ遣わして兵を練らせた。当時、百夷がたびたび辺境の患いとなっており、帝が兵を発して平定しようとしていたためである。二十六年(1393年)、元江府の儒学を置いた。二十七年(1394年)、知府の那榮および白文玉らが来朝して貢した。
- 永樂三年(1405年)、榮がまた入朝して貢し、帝は厚く下賜を加え、そこで元江軍民府と改めて印信を与えた。榮は自ら兵を率い糧を運んで八百を攻めることを願い、帝はこれを嘉して労った。元江府はまた、石屏州の洛夾橋が毎年江水に壊されるのに本府だけに修理させられており民が堪えられないとして、石屏州にも協力して修理させるよう命じることを願い、許された。九年(1411年)、榮が頭目や人々を率いて来朝し馬と金銀の器物を貢し、例のとおり与えられた。十二年(1414年)、故土知府の那直の子の那邦が方物を貢した。
元江――那忠と那鑑の叛
- 宣徳五年(1430年)、黔國公の沐晟が、元江土知府の那忠が賊の刀正・刀龍らに役所と経厯の印信を焼かれたこと、いま刀龍・刀洽を捕らえたので京へ送り、永樂の先例どおり遼東に安置して辺境の蠻を戒めたいと奏し、許された。礼部に命じて印を鋳て与えさせた。
- 正統元年(1436年)、因逺羅必甸長官司が人を遣わして来朝し馬を貢した。正徳二年(1507年)、那端が土知府を襲った。
- 嘉靖二十五年(1546年)、土舎の那鑑がその甥の土知府那憲を殺してその印を奪い、あわせて因逺驛の印記も収めた。巡撫の應大猷が報告し、鎮巡の官に兵を発して討たせるよう命じた。二十九年(1550年)、那鑑は懼れて密かに交蠻の武文淵と約して乱を謀り、撫按の官の胡奎・林應箕、総兵官の沐朝弼がこれを報告し、副使の李維・參政の胡堯時に兵を督して討たせるよう請い、裁可された。那鑑はいよいよ兵を放って村寨を攻め掠めた。沐朝弼は巡撫の石簡とともに武定・北勝・亦佐などの土漢の兵を動員して五哨に分け、兵が集まると朝弼と簡は臨安に駐屯した。
- 部を分けて進兵し、木龍寨を破り甘莊を降し、賊の勢いは次第に窮まった。那鑑は経厯の張維および儒生数人を南羡の監督である王養浩のもとへ遣わして降を乞うた。当時、左布政の徐樾が糧の督送のために南羡に来ていた。樾は迂遠で暗く、維の言を聞いて鑑はまことに策が尽きたと考え、翌日に鑑が自ら縛について城を出て降ることを約した。左右はみな蠻は詐るものだから信じてはならないと言ったが、樾は聴かず、期日どおり自ら百人を率いて城下に行き降を受けた。鑑は象・馬と蠻兵を放って突出させ衝きかからせ、樾および左右はみな死んだ。
- 巡按の趙炳然がこれを報告し、あわせて朝弼・簡および養浩らの失態の罪を弾劾した。帝は敕を下して厳しく責め、簡の職を剥奪し、養浩らはそれぞれ俸給を止めて期限を切って賊を捕らえ罪を贖わせた。
元江――再征と那鑑の死
- 朝弼と簡は五哨の兵を督し集めて元江を取り巻いて陣を布き、南羡哨に兵を督して江を渡って城を攻めさせ、路通哨・甘莊哨からそれぞれ精兵二千を選んでこれを助けさせた。那鑑は二哨の精兵がみな南羡に回ったことを知り、密かに兵と象を遣わして虚に乗じて路通哨を衝いた。官兵は賊の来襲を思わず、あわてて営を焼いて逃げ、監督の郝維嶽は甘莊哨に逃げ込み、甘莊もまた大いに潰え、督哨の李維も逃げた。残るは南羡だけが城に迫って陣を張った。武定の女土官の瞿氏、寧州の土舎の禄紹先、廣南の儂兵の頭目の陸友仁は、みな那鑑が主を殺し嫡を奪ったことを恨み、死んでも退かないと誓った。督哨の王養浩がこれを激励し、翌日鬨をあげて城を攻め、賊は大敗して門を閉ざし出なくなった。官兵が包囲すると鑑は降を乞うたが、官兵は徐樾の敗死に懲りて応じなかった。城中は家屋を壊して炊き、米一斗が銀三、四銭となった。
- そのとき瘴毒が起こったので大軍はいったん引き揚げ、秋の末を期して征伐することとした。朝弼が事を報告すると、帝は二哨で失態した諸臣の罪を定め、撫臣には瞿氏・禄紹先・陸友仁らを厚く賞するよう命じ、朝弼には新たな撫臣の鮑象賢と会同して兵を集め賊を討つよう敕した。
- 嘉靖三十二年(1553年)、象賢が鎮に至り、土漢の兵七万人を召集し、広く糧の運送を集め、期日を定めて哨を分けて進み討ち、元江を必ず取る計とした。那鑑は懼れて薬を仰いで死んだ。象賢は百戸の汪輔に檄して城に入らせその衆を撫し諭させ、賊の首魁および土官那憲を殺した阿捉、布政の徐樾を殺した光龍・光色らを捕らえ、みな斬首して献じた。鑑の子の恕は占拠していた那旂・封鑾などの村寨を返還し、あわせて奪っていた鎮沅府の印を差し出し、象十二頭を納め、年来滞納していた賦を納めた。
- 象賢は官民に那氏で立てるべき者を推挙させ、衆は前の土官那端の従孫の從仁を挙げた。象賢はその状況を疏に述べ、恕を廃してその死を免じ、從仁に暫くその衆を統べさせ、汪輔に千戸の職を加えることを請い、許された。
- 萬厯十三年(1585年)、元江の土舎の那恕が車里を招降した功により祖父の職を襲うことを許され、銀と幣を賞された。領する長官司は一つ、因逺羅必甸という。
永昌――沿革と洪武年間
- 永昌は古の哀牢國で、漢の武帝のとき不韋県を置き、東漢は瀾滄郡を置き、まもなく永昌郡と改めた。唐は姚州に属させ、後に南詔の䝉氏の拠るところとなり、段氏・髙氏を経ていずれも永昌府とした。元初、永昌に三千戸所を立てて大理萬戸府に隷属させ、至元年間に永昌州を置き、まもなく府として大理路に隷属させ、金齒などの処の宣撫司の治所を置いた。
- 洪武十五年(1382年)、雲南を平定して金齒衛を立て、元の雲南右丞の観音保を金齒指揮使とし、李觀という姓名を賜った。十六年(1383年)、永昌州の土官の申保が来朝し、詔して錦二疋・織金文綺二匹・衣一襲および鈒花銀帯・鞾襪を賜った。十七年(1384年)、申保を永昌府同知とした。四月、金齒の土官の段惠が把事およびその子弟を遣わして貢したので、綺・帛・鈔をそれぞれ賜った。施甸長官司を置き、土酋の阿干を副長官として冠帯を賜った。十八年(1385年)、金齒衛指揮使司を置いた。
- 洪武二十年(1387年)、使者を遣わして金齒衛指揮の儲傑・嚴武・李觀に諭した。「金齒は辺境の果てに遠く、土民は礼法に従わない。指揮の李觀は事を処するのに寛厚で、蠻を捕らえるので名が知られ諸蠻に愛されているが、その配下には功を恃んで放恣な者が多く軍律に背いている。それゆえ特に傑と武に命じてこれを輔けさせる。觀の寛によって遠人を安んじ、傑と武の厳によって配下を御することができる。敕が届いたら諸軍を整え練り、外の変に備えよ。」
- 洪武二十三年(1390年)、永昌府を廃し、金齒衛を軍民指揮使司に改めた。当時、西平侯の沐英が、永昌府は民が少ないので府と衛を合わせて軍民使司とすべきだと述べ、これに従ったのである。鳳谿長官司を置き、永昌府通判の阿鳳を長官とした。二十四年(1391年)、永平衛を置いた。
永昌――永樂以降と騰衝
- 永樂元年(1403年)、金齒の土官百戸の汪用に鈔一百錠・綵幣四表裏を賜った。西平侯の沐晟が用を遣わして罕的法を招安させたので賞したのである。
- 洪熙元年(1425年)、金齒軍民指揮使司および騰衝守禦千戸所などの土官が馬を貢し、鈔と幣を賜った。
- 宣徳五年(1430年)、金齒軍民指揮使を設け、騰衝州に土知州一員を置いた。当時、騰衝守禦所の土官副千戸の張銘が、その地は辺境の果てに遠く、麓川宣慰の思任發が時を選ばず侵し擾すとして州の設置を願い、帝はこれに従い、そのまま銘を騰衝知州とした。
- 宣徳八年(1433年)、騰衝州に庫扛闗・庫刀闗・庫勒闌・古勇の二闗を置いた。これに先立ち騰衝州が奏していた。本州は道が麓川・𬗟甸の諸所に通じ、人民の逃散する者が多く差発・貢献に手違いが生じている。旧来の四百夫長は騰衝千戸所に隷属し、その庫扛闗など五か所は軍民が兼ねて守っていたが、いま四百夫はすでに本州に隷属し州民だけがこれを守っている。五か所に巡検司を置き、土軍の尹黒・張保・李輔・郭節らを巡検としたい、と。正統二年(1437年)、定員外であるとして廃止した。
- 嘉靖元年(1522年)、改めて永昌軍民府を設け、州一・県二を領させた。その長官司は三つ、施甸・鳳谿・茶山という。
新化――沿革と摩沙勒寨の乱
- 新化はもと馬龍・他郎の二甸で、阿𤏡の諸部の蠻がここを占めていた。元の憲宗のとき内附し、二千戸所を立てて寜州萬戸府に隷属させた。至元年間、馬龍などの甸の管民官を他郎甸に併せて司を置き、元江路に隷属させた。洪武初め、馬龍他郎甸長官司と改名して直接雲南布政司に隷属させ、後に新化州に昇格させた。
- 洪武十七年(1384年)、普賜を馬龍他郎甸副長官とした。
- 宣徳八年(1433年)、故長官の普賜の弟である土舎の普寧らが来朝して馬を貢し、鈔と幣を賜った。八月、黔國公の沐晟が、摩沙勒寨の萬夫長の刀甕とその弟の刀眷が蠻兵を糾合して馬龍他郎甸長官司の役所を侵し占め、人民を殺し掠めていると奏し、都督同知の沐昻を遣わして討つことを請うた。帝は人を遣わして撫し諭し、刀甕だけを捕らえて平民を擾すなと命じた。
- 正統二年(1437年)、晟らが、甕が招撫に服さないとして近隣の官兵・土兵を動員し都督の昂に討ち捕らえさせることを請うた。帝は、蠻の衆が仇を殺し合うのはその本性であるとして、なお撫し諭すべきだとし、事はついに果たされなかった。
- その地には馬龍の諸山があり、摩沙勒江の左右両岸に居り、狭く峡のように締まって地勢がきわめて険しい。それゆえ州に改めてここを鎮めたのである。
威逺――沿革と入貢
- 威逺は唐の南詔の銀生府の地で、もとは濮落・雑蠻の住むところであった。叚氏のとき白蠻の占めるところとなり、元の至元年間に威逺州を置いた。洪武十五年(1382年)、雲南を平定した後、威逺蠻棚府を改めて威逺州とした。三十五年(1402年)、土官の刀算黨を威逺知州とした。
- 永樂二年(1404年)、算黨が車里に捕らえられその地を奪われたので、西平侯に命じてこれを諭させ、そこで算黨と侵された地を返させた。三年(1405年)、算黨が象・馬・方物を献じ、下賜された敕諭と金字紅牌に謝した。金帯・織金文綺・襲衣および銀鈔・錦幣を賜った。二十二年(1424年)、土官の刀慶罕らが来朝して馬と方物を貢し、慶罕に鈔八十錠・紵絲・羅・紗を賜り、頭目以下にもみな加増があった。
- 宣徳三年(1428年)、刀慶罕が頭目の招剛・刀著中らを遣わして貢し、例のとおり下賜し、そのまま敕および織金紵絲・紗・羅を持ち帰らせ、さらに信符・勘合・底簿を給した。八年(1433年)、威逺州が、その地は車里と境を接し、たびたび各土官の劫掠を受けており、播孟が要衝に当たるとして巡検司を置き、把事の劉禧を巡検とすることを願い、許された。
- 正統二年(1437年)、土知州の刀盖罕が人を遣わして馬・銀器物・綵幣などを貢し、あわせて新しい信符を給した。
威逺――麓川討伐の功と風俗
- 正統六年(1441年)、威逺土知州の刀盖罕に金牌を給し、あわせて麓川の叛冦を討たせた。捷報が届き、敕して言った。「叛冦の思任發はそなたの領土を侵し、そなたを脅して逆に従わせようとした。そなたの母の招曩猛はよく大義を守り朝廷に忠を尽くし、金と資財をことごとく出して頭目に分け与えた。そなた母子は自ら甲冑を着け勇を奮って賊を殺し、その頭目の𣲖罕を斬り、残る賊を追って江を渡らせ溺死させること数千、斬首すること数百、その戦艦・戦象を得、なお賊の占拠していた江口の地に守兵を留めた。忠義まことに卓然として深く嘉すべきである。いま特にそなたを正五品に昇進させ、奉政大夫・修正庶尹を授け、そなたの母を太宜人に封じ、ともに誥命・銀帯および綵幣・表裏を賜り、そなた母子の勲労に酬いる。陶孟・刀孟經らにもそれぞれ賜与する。そなたはいっそう忠義に勉め、朕の思いに副え。」
- 当時、西南の諸部は互いに仇を殺し合うことが多く、給された金牌・信符は焼失して残らなかった。景泰六年(1455年)、刀盖罕が乃吾らに従って来朝し貢したので、その本州の人民を管属させ、改めて金牌・信符・織金文綺を給し、敕諭を賜って帰らせた。
- 成化元年(1465年)、威逺州の土舎の刀朔罕が頭目の刀昔思を遣わして象・馬および金銀の器を貢し、例のとおり下賜された。
- その地の風俗は勇健で、男女とも険しい所を飛ぶように走る。境内に河があり、水を汲んで炭で煮ればそのまま塩になる。秤や斗はなく、籠で多寡を量る。
北勝――沿革と髙氏
- 北勝は唐の貞元年間、南詔の異牟尋が初めてその地を開き、北方睒と名づけ、瀰河の白蠻および羅落・麽些の諸蠻を移してその地に満たし、成偈睒と号し、また善巨郡と改名した。宋のとき大理の段氏が成紀鎮と改めた。元初に内附し、至元年間に施州を置き、まもなく北勝州と改め、後に府として麗江路軍民宣撫司に隷属させた。
- 洪武十五年(1382年)、州に改めて鶴慶府に隷属させ、後に瀾滄衛に属させた。
- 永樂五年(1407年)、土官百夫長の楊克即牙舊が馬を貢し、鈔と幣を賜った。宣徳四年(1429年)、土判官の髙琳の子の瑛が方物を貢し、父の職を襲うことを請うた。十年(1435年)、土知府の髙瑛が来朝して貢し、鈔と幣を賜った。
- 正統七年(1442年)、北勝州を直接雲南布政司に隷属させ、流官の吏目一員を設けた。州の蠻が瀾滄衛の官軍の搾取に苦しんでいたためである。
北勝――髙蘭の乱
- 萬厯四十八年(1620年)、北勝州の土同知の髙世懋が死に、異母弟の世昌が襲職した。その一族の甥の蘭が、世昌は不義の子だと偽って官に訴えたが聴かれなかった。世昌は懼れて逃れ麗江へ行って避けた。まもなく帰る途中、瀾滄で宿に泊まったところ、蘭が囲んで火を放ち、その家の七十余人を殺し、その祖父の墓を暴き、自ら欽授の把総と称して麗江を大いに掠めた。知府の木増がこれを討つことを請い、法紀が無視され尾大掉わずの勢いとなっており、治めなければ隠れた憂いとなると述べた。上官はその義を嘉して増にその部下を率いて進み討たせ、蘭を捕らえて梟首した。
灣甸――沿革と入貢
- 灣甸は蠻の名を細睒という。元の中統初め(1260年)に内附し、鎮康路に属した。洪武十七年(1384年)、灣甸県を置いた。
- 永樂元年(1403年)三月、灣甸長官司を設けた。西平侯の沐晟が、地が麓川に近く土地が広く人口が多いと奏したためである。まもなくさらに灣甸州と改め、土官の刀景發を知州として印章・金牌を給し、あわせて流官の吏目一員を置いた。
- 永樂四年(1406年)、帝は灣甸への道が険しく遠いので、毎年の朝貢を今後は三年に一貢とし、これを令とした。ただし慶賀・謝恩の類はこの例に拘らないとした。六年(1408年)、刀景發が人を遣わして来朝し馬と方物を貢し、鈔と幣を賜った。七年(1409年)、刀景發の子の景懸らが来朝して馬を貢し、例のとおり下賜された。
- 宣徳八年(1433年)、土官の刀景項の弟の景辦法に兄の職を継がせた。州には流官の吏目一員がある。州は木邦・順寧と隣り合い、日ごとに侵し削られていた。
- 成化五年(1469年)、灣甸州の土官舎人の景拙法が使者の刀胡猛らを遣わして象・馬および金銀の器を貢し、宴と衣服・綵幣をそれぞれ賜った。
灣甸――景宗真の叛と土地
- 萬厯十一年(1583年)、土官の景宗真が弟の宗材を率いて木邦の叛賊の罕䖍を導き入れて姚闗を侵した。宗真は陣中で死に、宗材は捕らえて斬った。景真の子は幼かったので死を免じ、州から降格して叛官とした。後に猛廷瑞討伐に従って功があり、旧の職に復した。
- 灣甸の地は瘴気が多く、黒泉があり、水が漲るときは飛ぶ鳥がその上を過ぎるとたちまち落ちる。
鎮康――沿革と入貢
- 鎮康は蠻の名を石睒という。もと黒僰の住むところで、元の中統初め(1260年)に内附し、至元十三年(1276年)に鎮康路軍民総管府を立てて三甸を領した。洪武十五年(1382年)、鎮康府に改め、十七年(1384年)、州に改めた。
- 永樂二年(1404年)、官を遣わして信符および金字紅牌を鎮康州に頒った。七年(1409年)、灣甸同知の曩光を知州とした。もともと鎮康の地は灣甸に隷属していたが、曩光が役所の増設を請うたのでこの命があった。九年(1411年)、中官の徐亮が西南の蠻に使いしたとき曩光が道を阻んだので、詔してこれを責めた。ここに至って人を遣わして来朝し謝罪した。十四年(1416年)、鎮康州長官司が人を遣わして馬を貢し、鈔と幣を賜った。二十一年(1423年)、知府の刀孟廣が来朝して馬を貢した。
- 宣徳三年(1428年)、鎮康州の土目の刀門淵らに鈔と幣をそれぞれ賜った。成化五年(1469年)、知州の刀門戞が使者を遣わして馬および金銀の器を貢し、例のとおり本人とその妻に下賜された。
鎮康――木邦・緬への従属
- 鎮康は後にもまた木邦・順寧に侵し削られた。隆慶年間、知州の悶坎は罕䖍が娘を妻に与えたので䖍に従って緬に帰した。坎が敗れて死ぬと、その弟の悶恩が義に帰した。恩が死んで子の悶枳が襲職すると、木邦の思禮が誘って緬に帰させようとしたが従わなかった。
- 天啟二年(1622年)、木邦の兵が喳哩江を占拠し、枳は姚闗へ逃げた。守備が官を遣わして撫したので、そこで退いた。
大候――沿革と昇格
- 大候は蠻の名を孟祐といい、百夷の住むところである。元の中統初め(1260年)に内附し、麓川路に属した。洪武二十四年(1391年)、大候長官司を置いた。
- 永樂二年(1404年)、信符と金字紅牌を頒った。三年(1405年)、大候長官司長官の刀奉偶が子の刀奉董を遣わして馬および銀器を貢し、鈔と幣を賜った。六年(1408年)、長官の刀奉偶が弟の不納狂を遣わして貢し、例のとおり下賜された。
- 宣徳四年(1429年)、大候長官司を大候州に昇格させ、土官の刀奉罕を知州とした。刀奉罕は、大候の蠻民で生業に復した者が多く、毎年差発銀二百五十両を納めているが、灣甸・鎮康の二長官は民が少なく毎年差発銀各百両を納めるだけで、永樂年間にともに州に昇格しているとして、二州の例に準じることを願った。帝は吏部に諭して「大候は民が多く生業に復しているが、これもその長官がよく撫し安んじたからである。秩を増して表彰すべきである」と言い、それでこの命があった。
- 宣徳八年(1433年)、大候州が入貢し、内官の雲仙を遣わして撫し、あわせて錦と綺をそれぞれ賜った。
大候――正統以降と雲州への改置
- 正統三年(1438年)、土官の刀奉罕の子の刀奉送が来て貢し、敕および織金文綺・絨錦などの品を持ち帰らせて刀奉罕とその妻に賜った。当初、奉罕の漢人の令に通じた把事の𫝊永瑶が来朝して馬を貢したとき、奉罕は木邦宣慰の罕門法とともに土兵十万を起こし協同して麓川を征討したいとして金牌・信符を賜って民心を安んじることを願い、特にこれを賜い、さらに敕を下して嘉し奨めた。
- 正統七年(1442年)、刀奉罕の子の刀奉送に敕して大候知州を襲わせ、冠帯・印章・綵段・表裏を賜った。奉送が土兵を率いて麓川討伐を助けえたことによる。
- 正統十二年(1447年)、大候知州の奉外法らが銀器・象・馬を貢し、綵幣・衣服をそれぞれ賜った。十二年、大候州の奉敬法・刀奉送らおよびその妻に綵幣を敕賜し、使者を来させて持ち帰らせた。
- 萬厯年間、土目の奉學が順寧知府の猛廷瑞の婿となった。後に巡撫の陳用賓が廷瑞と學に謀反の状ありと誣告して奏したので、廷瑞は奉學を斬ってその首を献じ、學の兄は赦されて以前どおり大候を守った。その子の奉先はその一族の舎人である猛麻・奉㳟と争って殺し合い、命に抗ったので、翌年討ち平らげ、雲州と改めて流官を置いた。
瀾滄――衛の設置と兵備副使
- 瀾滄は元では北勝州の地であった。洪武年間、鶴慶府に属し、二十八年(1395年)に瀾滄衛を置いた。二十九年(1396年)、州の南に城を築いていまの衛司を置き、北勝・蒗蕖・永寧の三州を領した。永樂四年(1406年)、永寧州を府に昇格させた。正統七年(1442年)、北勝州を直接布政司に隷属させたので、いまの衛は州一つを領するのみである。
- 𢎞治十二年(1499年)、福建布政の李韶が、前任の雲南参政として土地の風俗と事情を知っているとして疏を上げて四事を述べた。その一に言う。瀾滄衛は北勝州と同一の城で、地域は広く遠く、四川の建昌の西畨・野畨と通じている。近年、西畨の土舎の章輗らが山の険を恃んで野畨千余家を招き服させ荘戸としたため、各畨がへそを曲げて動もすれば人を殺すようになった。州官は兵がなく禁じられず、衛官は大いに軍政を廃してまるで意に介さない。また姚安府・大羅衛・賔川州の地方には賊の巣穴が六、七あって軍民が害を受けている。瀾滄衛の城に兵備副使を増設し、姚安・大羅・賔川・鶴麗・大理・洱海・景東の諸府州衛所をみなこれに属させ、野蕃には流民を撫する法を用い、賊の巣には保甲を立てる法を用い、朝夕に経理すれば内外の冦の患いはみな消せる、と。
- その議に従って瀾滄城に兵備副使一員を設けた。
麓川平緬――地理と沿革
- 麓川平緬は漢のとき永昌郡の境外であった。麓川の地は、大布茫・睒頭附賽・睒中彈吉・睒尾福禄培といい、茫施の東にある。平緬の地は、驃睒・羅必四莊・小沙摩弄・驃睒頭といい、麓川の東北にある。いずれも金沙江の南に位置し、それゆえ白蠻の占めるところであった。その地にはまた龍川江があり、麓川から木邦へ達する道に当たり、蠻はこれを恃んで険としていた。
- 元の中統初め(1260年)に初めて内附し、至元十三年(1276年)に路を立て、あわせて金齒宣撫司に隷属させた。
- 洪武十五年(1382年)、大軍が雲南を下し進んで大理を取り金齒を下した。平緬は金齒と土地が接しており、土蠻の思倫發はこれを聞いて懼れ、ついに降った。それで平𬗟宣慰使司を置き、倫發を宣慰使とした。十七年(1384年)八月、倫發が刀令孟を遣わして方物を献じ、あわせて元が授けた宣慰使司の印を差し出したので、詔して平緬宣慰使を平緬軍民宣慰使司と改め、あわせて倫發に朝服・冠帯および織金文綺・鈔錠を賜った。まもなく平緬軍民宣慰使司を麓川平緬軍民宣慰使司と改めた。麓川と平緬は境を連ね、元は両路に分けてその部を統べさせていたが、ここに至って倫發が使者を遣わして貢したので、あわせて麓川の地をも統べさせたのである。
麓川平緬――思倫發の叛と定邊の戦い
- 洪武十八年(1385年)、倫發が叛いて衆を率いて景東を侵し、都督の馮誠が兵を率いて撃ったが、大霧に遭って不意に冦に遇い利を失い、千戸の王昇が戦死した。
- 洪武二十年(1387年)、西平侯の沐英らに敕して諭した。「近ごろ御史の李原徳が平緬から帰り、蠻情が詭譎で必ず辺境の患いとなると知った。符が届いたら直ちに金齒・楚雄・品甸および瀾滄江の中道に塁を修め池を深くして営柵を固め、火銃を多く置いて守備とし、冦が来ても軽々しく戦うな。また近年、人が百夷に至るとその財貨を貪って事理を顧みず諸蠻の笑い者となっている。今後は一人たりとも平緬へ行くことを許さず、文書のやり取りも慎重に答えよ。忽せにするな。」
- 翌年、倫發が群蠻を誘って馬龍他郎甸の摩沙勒寨を侵した。英は都督の寗正を遣わしてこれを撃破し、千五百余級を斬った。倫發はその衆をことごとく挙げ、三十万と号し象百余を率いて定邊を侵し、摩沙勒の役に報いようとし、新たに帰附した諸蠻もみな力を尽くした。英は軍三万を選んで急ぎ趨り、到着すると賊は象の陣を布いて搏戦した。英は弩を並べて射かけ、陣に突き入って大声で叫び、象は多く傷つき、蠻もまた多く矢に中って斃れ、蠻の気勢はやや縮んだ。翌日、英は将士を率い、さらに火鎗・神機箭を配して交代で射させたので象は奔り、賊は大敗した。その寨を突き崩し、三万余級を斬り、降兵万余、象は半ばが死に、生け捕りは三十七頭であった。倫發は逃げた。
- 捷報が届くと、帝は使者を遣わして英に諭し、軍を景東に移して田を屯し塁を固めて大軍の集結を待ち、軽々しくその降を受けるなと言った。
- 洪武二十二年(1389年)、倫發が把事の招綱らを遣わして、以前の逆謀はみな把事の刀厮郎・刀厮養の仕業であり、死を免じてくれれば貢賦を納めたいと申し出た。雲南の守臣がこれを報告し、そこで通政司経厯の楊大用に敕を持たせて遣わし、思倫發に臣礼を修め先の戦費をことごとく償えば問罪の師を免れようと諭させた。倫發は命に従い、象・馬・白金・方物を入貢して謝罪した。大用はあわせて叛の首謀者である刀厮郎ら百三十七人を差し出させ、平緬はついに平らいだ。これより三年ごとに来朝して貢した。
- 洪武二十七年(1394年)、倫發が来朝して馬・象・方物を貢した。後に京衛千戸の郭均英を遣わして思倫發に公服・幞頭・金帯・象笏を賜った。
麓川平緬――刀幹孟の叛
- 洪武二十八年(1395年)、緬の酋長が使者を遣わして、百夷がしばしば兵をもってその境を侵し奪っていると訴えた。翌年、緬の使者がまた来て訴えたので、帝は行人の李思聰らを遣わして緬國および百夷に使いさせた。思倫發は詔を聞くとひれ伏して謝罪し、兵を罷めることを願った。ちょうどその部長の刀幹孟が叛いたので、思聰は朝廷の威徳をその部衆に諭し、叛いた者はやや退いた。思倫發は使者に頼ってその配下を服させようと強いて留め、象・馬・金宝を賄賂とした。思聰は諭してこれを退けた。帰って、その山川・人物・風俗・道路の詳細を述べて『百夷傳』を著して献じ、帝はこれを褒めた。
- もともと平緬の風俗は仏を好まなかったが、雲南から来た僧があって因果報応の説を巧みに説き、倫發はこれを信じた。また金齒の戍卒で逃げてその境に入った者があり、火硫・火砲の道具を作ることができた。倫發はその技能を喜び、金帯を帯びさせて僧の位を諸部長の上に置いた。刀幹孟らはこれに服さず、ついにその配下とともに叛いて騰衝を攻めた。倫發は一家を率いて雲南に走り、西平侯の沐春が連れて京に至った。
- 帝はこれを憐れみ、春を征南将軍とし、何福・徐凱を副将軍として雲南・四川の諸衛の兵を率いて刀榦孟を討たせ、あわせて倫發を帰らせて潞江のほとりに駐屯させその部衆を招き諭させ、倫發に黄金百両・白金百五十両・鈔五百錠を賜った。また春に敕して言った。「思倫發は窮して我に帰した。兵をもって送り還すべきである。雲南に着いたらまず人を遣わして幹孟に諭せ。悪に固執して臣たらざるままでいてはならぬ、必ず主君を帰せ、と。もし従わなければ罪を鳴らして討て。」
- 当時、幹孟は倫發を追い出したものの朝廷の兵を加えられるのを懼れ、人を西平侯のもとへ遣わして入貢を請うた。春がこれを報告すると、三十一年(1398年)、幹孟は朝廷の威を□(底本欠字)して忽都を拒もうとしており、その入貢の言はまだ信じられないと奏した。帝は人を遣わして春に諭し、「遠方の蠻が詭詐であるのはまことにあることだ。ひとまず請いに従い、その宜しきをよく測って事の機を失うな」と言った。
- 春は兵をもって倫發を金齒に送り、人を遣わして刀幹孟に諭したが、幹孟は従わなかった。左軍都督の何福・瞿能らを遣わして兵五千を率いて討たせ、髙良公山を越えて直ちに南甸を衝いて大いに破り、刀名孟を殺し斬獲は甚だ多かった。兵を返して景罕寨を撃ったが、寨は高きに拠り険を頼んで堅く守り、抜けなかった。官軍の糧と器械がともに尽き、賊の勢いはますます張った。福は春に急を告げ、春は五百騎を率いて救援に向かい、夜に乗じて潞江に至り、明け方に渡って騎兵を馳せ、塵を揚げて天を蔽った。賊は大軍が来たとは思わず驚き懼れ、ついにこれを破った。勝ちに乗じて崆峒寨を撃つと賊は大いに潰え、幹孟は人を遣わして降を乞うた。事が聞こえると、朝廷はその狡詐を疑い、春に変を待って討てと命じた。春はまもなく病で卒した。幹孟はついに降らず、また都督の何福に討たせ、まもなく幹孟を捕らえた。倫發はこうしてようやく平緬に帰り、一年余りで卒した。
麓川平緬――永樂・宣徳年間の朝貢と境界争い
- 永樂元年(1403年)、思倫發の子の散朋が来朝して馬を貢し、絨錦・織金文綺・紗・羅、あわせて従者にも鈔をそれぞれ賜った。
- 永樂二年(1404年)、内官の張勤らを遣わして麓川に頒賜した。麓川平緬・木邦・孟養がみな人を遣わして貢し、それぞれ鈔と幣を賜った。当時、麓川平緬宣慰使の思行發が遣わした頭目の刀門賴が、孟養・木邦がしばしばその地を侵していると訴え、礼部は孟養・木邦の朝貢使を法司に付してその罪を正すよう請うた。帝は「蠻の衆が攻め奪うのは常のことで、一、二人を捕らえて罪しても、その俗を改めるには足りない。しかも曲直が明らかでないのに急にその使者を罪するのは遠人の心を失う」と言い、西平侯の晟に命じてこれを諭させ、員外郎の左緝を八百國へ使いさせ、あわせて麓川平緬宣慰に冠帯・襲衣を賜わらせた。
- 永樂五年(1407年)、麓川平緬に隷属する孟外の頭目の刀發孟が来朝して象および金の器を貢し、散朋もまた馬を貢し、それぞれ鈔と幣を賜った。
- 永樂六年(1408年)、思行發が馬と方物を貢して金牌・信符を賜ったことに謝した。黔國公の沐晟が、麓川平𬗟に隷属する孟外の陶孟土官の刀發孟の地が頭目の刀薛孟に侵し占められていると述べ、思行發に命じて刀薛孟に侵した地を返させるよう請い、許された。
- 永樂七年(1409年)、行發が来て貢したので、中官の雲仙らに敕と金織文綺・紗・羅を持たせて麓川に遣わした。行發が郊迎の礼を欠いたので仙がこれを責め、行發は恐れ入った。九年(1411年)、刀門柰を遣わして貢し謝罪したので、帝はこれを許し、なおその使者に宴を賜って労い、あわせて行發に文錦・金織紵絲・紗・羅を賜った。
- 永樂十一年(1413年)、行發がその弟の思任發に職を代わらせることを請い、許された。任發は頭目の刀弄發を遣わして象六頭・馬百匹および金銀の器皿などを貢して謝恩した。二十年(1422年)、任發が使者を遣わし表を奉じて貢し、あわせて南甸州を侵した罪を謝した。中官の雲仙を遣わして賜物を持たせ、あわせて敕して戒めた。
- 洪熙元年(1425年)、内官の段忠・徐亮を遣わして即位の詔を麓川に諭した。
- 宣徳元年(1426年)、使者を遣わして西南の蠻に諭し、麓川に錦と綺をそれぞれ賜った。その職貢を勤めて修めたことによる。当時、麓川と木邦が境を争ってそれぞれ朝廷に訴えたので、使者に諭し解かせ、分を安んじて侵越しないようにさせた。黔國公の沐晟が、麓川に属する思陀甸の火頭の曲比が乱をなしたとして兵を発して討つことを請うたが、帝はひとまず撫するよう命じた。麓川平緬宣慰司の管轄する大店地に駅丞一員を置き、土人の刀捧怯をこれに充てた。宣慰の刀暗發の奏請に従ったものである。
- 宣徳三年(1428年)、雲南三司が、麓川宣慰使の任思發が南甸州の地を奪ったとして兵を発して罪を問うことを請うた。帝は晟に三司とともに巡撫して詳しく計り報告するよう命じ、任發には境を保ち民を安んじ隣の疆を侵して悪逆に陥り罪を重ねてはならぬと敕した。晟は任發の南甸・騰衝を侵し奪った罪は宥すべきでないとして、官軍五万および諸土兵を発して討つことを請うた。帝は交阯・四川でちょうど兵を用いており民の労が休まっていないとして、改めて招き諭すべきであり、やむを得ない場合は雲南の土官の軍および木邦宣慰ら諸蠻の兵を動員して討てとした。
- 宣徳八年(1433年)、内官の雲仙を遣わし敕を奉じて麓川に至り、思任發に幣物を賜い、木邦と地を争い殺し合うなと諭した。
- 正統元年(1436年)、麓川平緬軍民宣慰司の滞納した差発銀二千五百両を免じた。任發がその地は木邦に侵され百姓が少なく納めようがないと奏したのに対し、部は不可と主張したが、帝が特に免除したのである。
麓川平緬――思任發の跋扈と方政の敗死
- もともと洪武年間に雲南を平定したとき、ただ百夷の部長の思倫發だけが服さず、後に頭目の刀幹孟に追われて京に赴いて訴えたので、宣慰に任じて麓川に帰り住まわせ、その地を分けて孟養・木邦・孟定の三府を設けて雲南に隷属させ、潞江・干崖・大候・灣甸の四長官司を設けて金齒に隷属させた。永樂九年(1411年)、孟養・木邦を宣慰司に昇格させた。孟養宣慰の刀木旦が隣境と仇を殺し合って死ぬと、緬甸が機に乗じてその地を併せた。まもなく緬甸宣慰の新斯加もまた木邦宣慰に殺された。
- 当時、倫發はすでに死に、子の行發が襲職してこれも死に、次子の任發が襲って麓川宣慰となった。狡猾さは父兄以上で、差発の金銀を時どおりに納めず、朝廷はやや寛大に扱っていた。緬甸の危機に会うと任發はその地を侵して取り、そこでその旧地をすべて回復しようとして兵を挙げて辺境を擾し、孟定府および灣甸などの州を侵して人民を殺し掠めた。南甸知州の刀貢罕もまた、麓川がその管轄する羅卜思莊など二百七十八村を奪ったと奏した。
- そこで晟が奏した。思任發は連年しきりに孟定・南甸・干崖・騰衝・潞江・金齒などを侵し、自ら頭目の刀珍罕・土官の早亨らを立てて助け合い暴虐を行っており、叛意はすでに明らかである。近ごろまた金齒に及び勢いは甚だ猖獗なので、すでに諸衛の馬歩の官軍を金齒に遣わして守禦させた。大兵を動員して進み討つことを乞う、と。朝廷は将を選ぶよう命じ、廷臣は左都督の方政、都督僉事の張榮を挙げて雲南に赴かせ鎮守と協同させ、右都督の昻に兵を率いて討たせた。
- 任發はちょうど貢を修めて出兵を緩めようとしており、晟はにわかにその降を信じて江を渡る意がなかった。任發はそこで衆万余を遣わして潞江を奪い、江沿いに船三百艘を造って雲龍を取ろうとし、また甸順・江東などの軍余をほとんど殺し尽くした。帝は賊の勢いが日ごとに甚だしいとして晟らが冦を弄び患いを養っていると責めた。政もまた軍に至って出戦しようとしたが晟は許さず、政が舟を造って渡そうとしても晟はまた許さなかった。政は憤りに堪えず、単独で麾下を率いて賊将の緬簡と戦い、賊の旧大寨を破った。賊は景罕に奔り、指揮の唐清がまた撃ち破り、さらに高黎共山の下まで追い、あわせて三千余級を斬った。勝ちに乗じて深く入り任發を上江に逼った。上江は賊の要地である。政は遠く攻めて甚だ疲れ、晟に援けを求めたが、晟はその節制に背いて江を渡ったことに怒って援けを遣わさず、久しくして少数の兵を向かわせただけで、夾象石に至るとまた進まなかった。政は追って空泥に至り、晟が救わないと知った。賊が象の陣を出して衝撃し、軍は殲滅され政はそこで死んだ。
- 晟は敗報を聞いて増兵を請うた。帝は使者を遣わして状を責め、なお湖廣の官軍三万一千五百人、貴州一万人、四川八千五百人を動員し、呉亮・馬翔にこれを統べさせ、雲南に至って晟の節制を受けさせ、さらに晟に糧秣をあらかじめ計らうよう敕した。だが晟は罪を懼れて急死した。
- 当時、任發の兵はいよいよ横暴で、景東を犯し孟定を掠め、大候知州の刀奉罕ら千余人を殺し、孟賴の諸寨を破り、孟璉長官司の諸所はみなこれに降った。任發はなお人を遣わして象・馬・金銀をもって貢を修め、さらに雲南総兵官に蕃書を送って、初めは潞江安撫司の線舊法に誘われて仇を報いたのだが、その後線舊法が自分を侵入者だと誣告したために大軍が境に迫り、恐れ入って身の置きどころもない、いま使者を遣わして謝罪したいので取り次いで奏上してほしい、と述べた。帝は敕を下してその罪を赦すことを許した。
- そのころ刑部侍郎の何文淵が疏を上げて麓川の出兵を罷めるよう請い、命が下って廷臣に議させた。そこで行在兵部尚書の王驥および英國公の張輔らはみな、麓川は恩に背き悪に固執しており必ず誅すべきである、速やかに将を選び兵を練って天討を明らかにすべきである、もし思任發が早く禍を悔いて縛について軍門に詣でれば生かすかどうかは上裁を仰ぐ、とした。帝はこれを是とした。その後、侍講の劉球がまた兵を休めるよう請うたが、部は麓川の征討はすでに成命があると覆奏して報告した。
麓川平緬――第一次の征討
- 正統六年(1441年)、定西伯の蔣貴を平蠻将軍とし、都督同知の李安・僉事の劉聚を副とし、兵部尚書の王驥に雲南の軍務を総督させ、諸道の兵十五万を大いに集めてこれを討たせた。
- 当時、任發は賊将の刀令道ら十二人を遣わし衆三万余・象八十頭を率いて大候州に至らせ、景東・威逺を奪おうとしていた。驥が金齒に至ろうとすると任發は人を遣わして降を乞い、驥はこれを受けたが、密かに諸将に命じて道を分けて進ませた。右參将の冉保は東路から細甸・灣甸の水寨を攻め、鎮康に入って孟定に向かった。驥は貴とともに中路から上江に至って騰衝と合し、左參将の宫聚は下江から夾象石に拠り、期日を定めて合わせ攻めた。賊は厳重に守り、銃・弩・飛石が雨のように交々降った。翌日、風に乗じてその柵を焼き、火は一晩中消えなかった。官軍は力戦して上江の寨を抜き、刀放戞父子を斬り、刀孟頊を捕らえ、前後で斬った首は五万余であった。
- 捷報が届き、閏十一月、驥は兵を率いて下江を渡り、髙黎貢山の道を通って騰衝に至り、李安を留めて兵を領して備えさせ、驥は南甸から羅卜思莊に至り、前軍は沙木籠に至った。当時、任發は兵二万余を領して高山に拠り堅固な寨を立て、七つの営を連環させて首尾相応じていた。驥は宫聚・劉聚を遣わして左右翼に分け嶺に沿って上らせ、驥は中軍を率いて横撃し、賊は逃げた。
- 十二月、馬鞍山に進んで賊の寨を突いた。寨は二面が江に臨んで壁立し、周囲三十里、みな柵を立て塹を開いており、軍は進めなかった。賊が間道から密かに兵を出して馬鞍山の背後に回ると、驥は中軍に動くなと戒め、指揮の方瑛に命じて精騎六千を率いて賊の寨に突入させ、数百級を斬り、さらに誘ってその象の陣を敗った。
- 東路から向かった軍は木邦の人馬と合して孟通の諸寨を招降し、元江同知の杜凱らもまた車里および大候の蠻兵五万を率いて孟璉長官司を招降し、あわせて烏木弄・戛邦などの寨を攻め破って二千三百余級を斬り、麓川に集結して西峨渡を守り、木邦の情報を通じ合わせて百道から囲み攻め、また火を放ってその営を焼き、賊の死者は数えきれなかった。任發父子三人は妻子を連れて間道から江を渡り孟養へ逃げた。もと与えられた虎符・金牌・信符・宣慰司の印、および奪われていた騰衝千戸などの印三十二を取り戻した。麓川は平らぎ、軍を返した。翌年正月、捷報が届き、敕して京に帰らせた。
麓川平緬――第二次の征討
- 当時、任發は敗れて孟蒙に走ったが、また木邦宣慰に撃たれ、追われて金沙江を渡り孟廣に走った。緬甸宣慰の卜剌當もまた兵を起こして攻めた。帝は木邦・緬甸のうち命を尽くして任發を捕らえ献じた者には麓川の地を与えると命じた。まもなく任發は緬人に捕らえられ、緬人はこれを楯に地を求めた。その子の思機發は窮困して来朝し謝罪したいと乞い、先にその弟の招賽を遣わして入貢した。帝は雲南に送り返して安置するよう命じた。機發は大兵が帰ったのを窺い、回復を図って麓川に拠り兵を出して侵し擾した。
- そこで改めて王驥・蔣貴らに命じて大軍を統べて再び麓川を征させた。驥が軍を率いて金齒に至ると、機發は頭目の刀籠肘とその子を軍門に遣わして降を求めた。驥は人を緬甸に遣わして任發を求めたが、緬は偽って諾しながら送らなかった。驥は騰衝に至り、蔣貴・沐昻と五営に分けて進んだ。緬人もまた衆を集めて待ち構えた。驥は大軍に乗じてこれを攻めようとしたが、その衆が盛んで容易に抜けないのを見、また麓川のほかに敵を一つ増やすのを恐れ、そこで軍を犒うと言いふらしておいて、貴に密かにその舟数百艘を焼かせた。
- 軍を進めて迫ると、𬗟甸は先の詔を固執して必ず地を与えれば任發を出すと言い、また偽って機發が仇をなしていることを言い訳とした。驥はそこで者藍に向かって機發の巣を衝いて破り、機發は脱走したが、その妻子・部衆を捕らえ、隴川宣慰司を立てて帰った。当時、思機發は密かに孟養に拠り、険を頼んで服さないこと従来どおりであった。
- 正統十一年(1446年)、緬甸が初めて任發およびその妻子ら三十二人を献じ、雲南に至った。任發は道中で食を断ち死にかけたので、千戸の王政がこれを斬り、首を函にして京師に送った。その子の機發はしばしば降を乞い、頭目の刀孟永らを遣わして朝貢を修め金銀を献じ、朝廷が兵を調えて征討したので死を逃れる地もない、余生を助けてほしいと言い、言葉は甚だ哀れであった。帝はその貢を受けるよう命じ、そこで総兵官の黔國公沐斌および参賛軍務侍郎の楊寧らに敕して、朝廷はすでに思機發を死なせずにおくのだから善後の長策を計って報告せよとし、あわせて思機發に敕諭を賜った。
- 正統十二年(1447年)、黔國公の沐斌が奏した。臣は千戸の明庸に敕を持たせて思機發を招き諭させたが、遣わした弟の招賽が帰らないので疑い懼れて出て来ない。近ごろ緬甸は機發がその牛馬・金銀を掠めたので進兵して攻め取ろうとしている。臣らは人を遣わして木邦・緬甸の諸宣慰司に分けて諭し、蠻兵を集めて期日どおり江を渡らせ道を分けて機發を討たせ、臣らは官軍万人を率いて騰衝に駐屯してその勢いを助けたい。賊が四面から敵を受ければ必ず擒にできる、と。許された。
- すでに機發の弟の招賽に頭目の職を授け、冠帯・月糧・家屋を給して錦衣衛に隷属させ、その従者はみな馴象所で使役させることとした。これに先立ち招賽は雲南に安置されていたが、その一党に乱を称そうとする者があったので、招賽を京に来させ、あわせて機發を招き寄せる助けとしようとしたのである。
- 帝はすでに雲南に出兵して機發を討たせることを命じており、斌らが騰衝に至り諸軍を督して追捕したが、機發はついに出ず孟養に潜み隠れ、その手下を遣わして貢し、恩で赦すと許してもまた来なかった。斌は春の瘴気が起こり江が漲って渡れず、糧もまた乏しいとして兵を引いて帰った。
麓川平緬――第三次の征討と金沙江の盟
- 帝は斌の出師が功なきものであったとして、改めて兵部尚書の靖逺伯王驥に軍務を総督させ、都督同知の宫聚に平蠻将軍の印を佩びさせ、南京・雲南・湖廣・四川・貴州の官軍・土軍十三万人を率いて討たせた。ここに至って驥は三度麓川を征したことになる。
- 帝は密かに驥に諭した。「万一思機發が遠く逃げたら、まず刀變蠻を捕らえてその巣穴を平らげよ。あるいは緬の地に逃げ込み緬人が党を組んで庇うならば、機を見てこれを捕らえよ。そうすれば蠻の衆も懼れを知り、大軍も無駄な出兵とはならぬ。」また斌に敕して軍事はすべて驥と会議して行うようにさせ、また木邦・緬甸・南甸・干崖・隴川などの宣慰司の罕葢發らに敕して、それぞれ兵を整え船を備え糧を積んで調度を待つようにさせた。
- 正統十四年(1449年)、驥は諸将を率いて騰衝から師を合わせ、干崖から舟を造って南牙山に至り、舟を捨てて陸行して沙壩に至り、また舟を造って金沙江に至った。機發は西岸に柵を埋めて守りを固めた。大軍は流れに順って下り管屯に至った。ちょうど木邦・緬甸の両宣慰の兵十余万も江沿いの両岸に列していた。緬甸は舟二百余を備えて浮橋とし師を渡らせ、力を併せてその柵と寨を攻め破り、積み蓄えた穀四十万余石を得た。軍は飽き、鋭気は倍増した。
- 賊は衆を領して鬼哭山に至り、二つの峰の上に大寨を築き、二寨を築いて両翼とし、さらに小寨七つを築いて百余里に連ねた。官軍は道を分けて並び進み、みなこれを攻め抜き、斬獲は数えきれなかった。しかし思機發・思卜發はまた奔り逃げた。
- 当時、王師は孟養を越えて孟那に至った。孟養は金沙江の西にあり、麓川を去ること千余里である。諸部はみな震え上がり、「古来、漢人で金沙江を渡った者はない。いま王師がここに至った。まことに天威である」と言った。
- 驥が兵を返すと、その部衆はまた任發の末子の思陸を擁して孟養に拠り乱をなした。驥らは軍が疲れ、賊を滅ぼしきれないと考え、そこで思陸と約し、土目として諸蠻を統べて従来どおり孟飬に居ることを許し、金沙江に石を立てて境とし、「石爛れ江枯れなば、なんじ渡るを得ん」と誓った。思陸もまた懼れて命に従い、そこで軍を返した。捷報が届き、帝は廟に告げたという。
麓川平緬――思機發の誅と麓川の滅亡
- 景泰元年(1450年)、雲南総兵官の沐璘が、𬗟甸宣慰はすでに思機發を捕らえ、また思卜發を孟養へ放ち帰したが、緬人がまたこれを珍貨のように楯に取ることを恐れる、緩めて自ら献じるのに任せるほうがよいと奏し、これに従った。
- 景泰五年(1454年)、緬人が旧地を求めたので、左參将の胡誌らが銀戛などの地方を与えると諭し、そこで思機發およびその妻子六人を金沙江村に送り、誌らが檻に入れて京師に送り、南寧伯の毛福壽が報告し、思機發を京師で誅した。
- 景泰七年(1456年)、任發の子の思卜發が奏した。臣の父兄が法を犯したときは臣は幼くて何も知らなかった。いま父兄のようなことは敢えてせず、朝廷の法をはなはだ畏れている。謹んで差発銀五百両・象三頭・馬六頭および方物などを備えて使者を遣わして入貢する。ただ天皇帝の憐れみを賜りたい、と。そこで敕を賜って戒め諭し、あわせて思卜發とその妻に錦幣を、その使者に鈔と幣をそれぞれ与えた。
- 成化元年(1465年)、総兵官の沐瓉らが、思任發の孫の思命發が京師に至ったが逆賊の遺孽であって留めるべきでないとして、沿海などの州衛に送って安置し月に米二石を給することを請い、これに従った。麓川は滅んだ。
麓川平緬――隴川宣撫司
- これより先、麓川が初めて平らいだとき、その地を分けて隴川宣撫使司を立て、恭項を宣撫使とした。恭項は元の麓川の部長で、真っ先に帰順し力を尽くして功があったので、麓川の旧地に宣撫を開設するよう命じたのである。その後、頭目の曩渙らがまた帰順して来て賊を捕らえて自ら尽くしたいと願った。帝は本土に帰って守らせ、功があればすぐに叙すよう命じ、およそ帰順して来る者はこれに準じるとした。そこで刀歪孟を本司の同知、刀落曩を副使、隴帚を僉事とし、いずれも冠帯を賜った。宣撫の㳟項の請いに従ったものである。
- 㳟項の子の㳟立が来て貢し、例のとおり下賜され、あわせて恭立を長史に授けた。まもなく隴川宣撫が印を失って再び給されるよう請い、帝は㳟項が国威を宣揚できずかえって印を失った罪は宥すべきでないが、ひとまず寛大に頒給すると責めた。
- 当時、板蹇が者藍寨に拠って侵し擾したので、隴川百夫長の刀門線・刀木立が兵を進めて囲み、板蹇ら二十三人を斬った。功のあった者にはみな冠帯を賜って把事とし、あわせて織金文綺を与えるよう命じた。
- 正統十一年(1446年)、木邦宣慰の罕葢發が麓川の旧地を求めて来たが、有司はすでに隴川宣撫司を設けて官を置き分けて管させているとして、孟止の地を与え、裁可された。
- 正統十二年(1447年)、恭項に敕諭して言った。「このごろ総兵が、そなたと百夫長の刀木立が仇を殺し合い人民が怨みを抱いてそなた父子を害そうと謀っていると奏した。いまそなたを雲南に移して所を失わないようにさせ、かつ官を遣わしてそなたの家族を護って完聚させる。憫恤の意を体し、疑い懼れるな。」
- その後、総兵官が、隴川の乱を招いたのはみな恭項が無辜を暴殺し蠻人を刻酷に虐げたためであり、同知の刀歪孟は蠻の衆に信服されているとして、項を別の衛に安置し刀歪孟を代わりとすることを願った。帝は㳟項が帰順して来たことから法を曲げてこれを宥し、曲靖に安置するよう命じ、あわせて敕を遣わして諭した。
- 景泰七年(1456年)、隴川宣撫の多外悶が人を遣わして象・馬および金銀の器皿・方物を貢したので、綵幣・襲衣を例のとおり賜い、なお敕を持たせて賜った。多外悶が初めて朝貢を修めたためである。
- 成化十九年(1483年)、隴川宣撫司の多歪孟の子の亨法に職を代わらせた。もともと隴川は木邦と隣り合い、地を争って仇を殺し合い兵を構えて止まなかった。嘉靖年間、土舎の多鯨が兄を刺して自ら襲職し、鎮巡の官に取り調べられて罪に伏し、職は兄の子の多參に還され、詔して罪を赦し、あわせて木邦の罕孟に再び鯨に党して職を争ってはならぬと戒めた。
麓川平緬――岳鳳の叛と劉綎の征討
- 萬厯初め、緬甸の莽瑞體が叛き、隴川宣撫の多士寧を招いたが、士寧は従わなかった。その記室の岳鳳という者は江西撫州の人で、狡猾で智略が多く、隴川で商いをしていた。士寧はこれを信任して妹を妻とさせた。鳳は士寧に媚びつつ密かにその権を奪い、三宣六慰の各土舎の罕㧞らと血をすすって盟い、士寧を欺いて擺古へ行かせた。府に帰ると、緬の酋長は密かにその子の曩烏に士寧を毒殺させ、あわせてその妻子を殺し、印を奪って緬に投じ、𬗟の偽命を受けて士寧に代わって宣撫となった。
- 瑞體が死んで子の應裏が嗣ぐと、鳳父子はこれに臣従し、官軍を誘い敗り、士寧の母の胡氏および親族六百余人を應裏に献じてことごとく殺させ、多氏の一族はほとんど絶えた。
- もともと鳳が緬に付いたとき、瑞體のために諸部を招いて中國に抗い官軍を傷つけ、逆らう勢いが次第に成ったので、緬は深くこれを頼りにしていた。久しくして𬗟は恃むに足らないとし、鄧川土知州の何鈺が鳳の友婿であったので、初めは人を遣わして鳳を招いたが、鳳は使者を捕らえて𬗟に献じた。ここに至って鈺は改めて百方に説き示して盟を交わした。当時、官軍もまた大いに集まり、諸将の劉綎・鄧子龍がそれぞれ精兵を率いて至り、四面を囲んで壁を築いた。鳳は懼れ、そこで妻子および部曲とともに降った。
- 綎は金牌・符印および蠻莫・猛密の地を献じるよう責め、そのうえで鳳の妻子を隴川に送り還すという名目で兵を分けて沙木籠山に向かわせ、先にその険を占め、自らは大兵を領して龍川に馳せ入った。鳳は脱れる術がないと悟り、ついに軍門に詣でて降った。
- 綎はさらに兵を率いて緬に進み、緬の将は先に逃げ、少数の兵を隴川に留めた。綎がこれを攻めると鳳の子の曩烏もまた降った。綎はそこで鳳父子を携えて蠻莫を攻めた。蠻莫の賊は鳳が降ったことを知って應裏に馳せ報じ、兵を発して隴川を図った。綎は機に乗じて掩撃し、賊は窮して降を乞い、緬人および象・馬を縛って献じた。そこで孟養を招撫し、賊将が象に乗って逃げたのを追って捕らえ、さらに軍を移して孟璉を囲みその魁を生け捕った。隴川は平らぎ、俘虜を朝廷に献じ、帝は郊廟に告げ謝した。萬厯十二年(1584年)九月のことである。
- 翌年、改めて隴川宣撫司および孟定府の印を鋳、孟宻安撫を宣撫司に昇格させ、安撫司二つ――蠻莫・耿馬――、長官司二つ――孟璉・孟養――、千戸所二つ――一つは姚闗に、一つは孟琳砦に居き、いずれも鎮安と名づけた――を増設し、あわせて印記を鋳、大将の行署を蠻莫に建てた。雲南巡撫の劉世曽の議に従ったものである。
- こうして多士寧の子の思順が隴川宣撫使を襲った。
麓川平緬――萬厯後期の隴川
- 萬厯二十九年(1601年)、莽應裏が道を分けて侵入し、一は遮を経て芒市に入り、一は臘撒・蠻顙に入り、一は沙木籠に入り、あわせて隴川に出た。多思順は敵しえず猛夘へ逃げた。緬は初め猛夘同知の多俺を嚮導として東路を侵していたが、ここに至って大軍は木邦の罕欽を遣わして多俺を捕らえ殺した。
- まもなく思順が死に、蠻莫の思正が喪に乗じて隴川を襲い、その妻の罕氏を奪った。
- 萬厯三十五年(1607年)、思順の子の安民が守将が賄賂を求めたため叛いて緬に入った。やがて緬が撫に応じて安民を帰らせたが、安民は久しく蠻灣に拠って甚だ驕り昂った。署永騰參将の周㑹が二人の指揮を遣わして襲わせたが敗れ、王師が急ぎ討つと、その一族の者がその弟の多安靖を担いでこれを誅し首を献じた。当時、安靖はなお幼く勢いが孤立していたので、詔して成長を待って印を給することとした。
- 安民の弟の安邦治もまた緬に付き、後に蠻莫に寄居した。その地には馬鞍・摩黎・羅木などの山があってきわめて険峻で、麓川が巣穴として恃んだところである。