明史卷三百五 列傳第一百九十三 宦官二
篇首の立伝者一覧
- 李芳
- 馮保
- 張鯨
- 陳増(附:陳奉・髙淮)
- 梁永(附:楊榮)
- 陳矩
- 王安
- 魏忠賢
- 王體乾(附:李永貞ら)
- 崔文昇
- 張彛憲
- 髙起潛
- 王承恩
- 方正化
李芳――徐杲の弾劾と冗員の粛清
- 李芳は穆宗朝の内官監太監。帝の即位当初から知遇を得てかなり信任された。
- 世宗の時、匠役の徐杲が営造の功で階を躍り越えて工部尚書となり、盧溝橋の修築で万を数える横領をした。その属僚で太僕少卿・苑馬卿以下の職銜を冒した者は百数十人。
- 隆慶元年(1567年)二月、芳がこれを弾劾。杲はすでに削官されていたが下獄・遣戍となり、冒官の冗員はすべて汰された。
- 芳はさらに、上林苑監が増設した皂隷の廃止、光禄寺の歳ごとに増える米塩と工部の物料の削減を奏請した。このため同類から大いに憎まれた。
李芳――切諫と長期の繋獄
- 当時、司禮の宦官 滕祥・孟冲・陳洪が寵を得て、争って奇技淫巧を飾って帝の意を悦ばせ、鰲山燈を作り帝を長夜の飲に導いた。芳が切諫すると帝は不悦、祥らがさらに讒言し、帝は怒って芳に閒住を勒令した。
- 隆慶二年(1568年)十一月、さらに芳を杖八十のうえ刑部に監禁して処決を待たせた。尚書 毛愷らが「芳の罪状は明らかでなく、臣らは何に坐するのか分からない」と言うと、帝は「芳は朕に無礼であった。錮せよ」と言った。
- 芳が錮されると祥らはいよいよ横暴になった。前の司禮太監 黄錦はすでに廕を革られていたのに、祥はこれを復してやった。工部尚書 雷禮が祥を弾劾し、器物の伝造・採辦や壇廟の楽器の修補にことよせて勝手に加徴し巨万を糜費していること、工厰に存留した大木を任意に伐り截っていること、臣の力では争えないので早く罷免を賜りたいと述べた。帝は祥を罪せず、かえって禮を致仕させた。
- 冲は旨を伝えて海戸の王印を鎮撫司に下し戍に論じ、法司はあずかり知らなかった。また肅藩の輔國將軍 縉□(底本欠字)の賄を納れ、制を越えて肅王を嗣封させた。洪はとりわけ貪肆で、内閣大臣にもこれによって進んだ者があった。三人が費やした国帑は数えきれない。
- 帝が太廟を享祀したとき、三人はみな進賢冠と祭服で従い、爵賞の辞謝は六卿と同格だった。
- 論劾した廷臣は、太常少卿 周怡(外補で去る)、給事中 石星・李已・陳吾徳、御史 詹仰庇、尚寳丞 鄭履淳。みな廷杖のうえ削籍された。三人にはそれぞれ錦衣官の廕が与えられ、その数は二十人に及んだ。
- 芳ひとりは長く獄に繋がれた。隆慶四年(1570年)四月、刑科都給事中 舒化らが熱審の時期にあたるとして宥免を請い、ようやく釈されて南京の淨軍に充てられた。
馮保――高拱との対立と掌印の獲得
- 馮保は深州の人。嘉靖中に司禮秉筆太監、隆慶元年(1567年)に東厰提督となり御馬監の事を兼掌した。
- 司禮掌印が欠けたとき、順序では保が得るはずだったが、穆宗に気に入られず、大學士 髙拱が御用監の陳洪を推して代えた。保はこれで拱と洪を憎んだ。洪が罷めると拱はまた孟冲を推して用いた。冲はもと尚膳監を掌る者で、例では司禮を掌るべきでない。保は拱をますます憎み、張居正と深く結んで拱を除く謀をめぐらせた。居正も拱を除いて権柄を専らにしたかったので、両人の交わりはいよいよ固くなった。
- 穆宗が病を得ると、保は密かに居正に遺詔を予め草させた。これを拱に見つかり、「私が国に当たっているのに、なぜ独り中人と遺詔を作るのか」と面責され、居正は赤面して謝った。拱はいよいよ保を憎み逐おうと考えた。
- 穆宗が崩じるや、保は后妃に言って孟冲を斥けその位を奪い、また遺詔を矯めて閣臣とともに顧命を受けた。帝の登極のとき、保は宝座の傍らに昇り立って降りず、朝廷こぞって大いに驚いた。
- 保は司禮を掌ったうえ東厰を督し、内外を兼ね総べて勢いはいよいよ張った。拱は六科給事中 程文、十三道御史 劉良弼らに交々章を上げてその奸を数えさせ、給事中 雒遵と陸樹徳もそれぞれ特疏で論列した。拱は疏が下りしだい擬旨して保を逐うつもりだったが、保はその疏を匿し、急ぎ居正と謀を定めてついに拱を逐い去った。
馮保――王大臣の獄
- 初め穆宗が崩じたとき、拱は閣中で大いに慟哭し「十歳の太子でどうやって天下を治めるのか」と言った。保はこれを后妃に讒して「拱は太子を十歳の子供扱いし、どうして人主になれるかと言った」と告げた。后妃は大いに驚き、太子も聞いて顔色を変えた。
- 拱が去っても保の恨みは解けなかった。萬厯元年(1573年)正月、王大臣なる者が内侍の服を偽って乾清宮に入り、捕らえられて東厰に下された。保はこれに縁って拱を族滅しようとし、居正と謀って家人の辛儒に飲食を与えさせ、袖に刃を納れさせて、拱が怨望して帝を刺しにやったと言わせることにし、大臣も承知した。
- 翌日、錦衣都督 朱希孝らが会鞫すると、大臣は「私に富貴を許しておきながら、なぜ私を拷問するのか。それに私がどこで高閣老を知ろうか」と疾呼した。希孝は恐れて鞫することができず罷めた。
- たまたま廷臣の楊博・葛守禮らが保を押しとどめ、居正も衆議に迫られて保をそれとなく諷したので、保の意はやや解けた。そこで生漆入りの酒で大臣を瘖にして法司に移送し、斬に坐させた。拱は免れた。
- これによって朝廷こぞって保を憎んだが、不肖の者は多くこれによって進んだ。
馮保――帝を挟持する
- 慈聖太后は帝に厳しく、保は太后の勢に倚ってしばしば帝を挟持したので、帝は甚だ保を畏れた。小内豎と戯れていても保が入ってくると襟を正して端座し、「大伴が来た」と言った。
- 帝が寵愛した孫海・客用が乾清宮の管事牌子となり、しばしば帝を誘って夜に別宮に遊ばせ、小衣・窄袖で馬を走らせ刀を持たせ、また奇巧の物を進めた。保は太后に告げ、太后は帝を召して切責した。帝は長跪して教えを受け、甚だ惶懼した。
- 保は居正に罪己の手詔を草させ、閣臣に頒示させた。詞は過度にへりくだったもので、帝は年すでに十八、これを見て内心恥じたが、太后に迫られて下さざるを得なかった。
- 居正は上疏して切諫し、また保の意を受けて司禮秉筆の孫徳秀・温太、掌兵仗局の周海を劾去し、内侍にみな自陳させた。これで保の気に入らぬ者はほぼ斥退された。萬厯八年(1580年)十一月のことである。
- 保は琴を善くし書を能くした。帝はしばしば牙章を賜い、「光明正大」「爾惟鹽梅」「汝作舟楫」「魚水相逢」「風雲際會」と刻ませ、遇することが甚だ手厚かった。
- のち保はいよいよ横肆で、帝の賞罰であっても保の口から出たものでなければ敢えて行う者がなかった。帝は堪えられなくなったが、保は内に太后、外に居正を倚りとしていたので除けなかった。
- ただし保は大体を装うこともした。内閣に白蓮が生え、翰林院に双白燕が現れ、居正がこれを進めると、保は使者をやって居正に「主上は冲年である、異物で玩好の心を啓いてはならぬ」と言わせた。また子弟を約束して悪を肆にさせなかったので、都の人はこれを称した。居正はもとより才があったが、委任されて国柄を専らにできたのは保が左右したからである。
馮保――貪欲と失脚
- 保は性が貪だった。私人の錦衣指揮 徐爵と内官 張大受が保と居正の間の取り次ぎをした。爵はしばしば計を用いて二人を疑わせ、また好くさせ、二人とも爵の術中にあって事を籌画させた。爵は勢いを恃んで権を招き利を得、大臣も多く通じた。爵が夜に禁門に至っても守衛は咎めなかった。その横暴はこの通りである。
- 居正の奪情、および呉中行らを杖したことには保の力があった。
- 居正が死ぬと、その党はいよいよ保に結びついて自らを固めた。居正は遺疏でその座主 潘晟を閣に薦め、保はすぐ官を遣って召した。御史 雷士楨・王國、給事中 王繼光が相継いで用いるべきでないと言い、晟は中途で疏して辞した。内閣の張四維は申時行が晟のために擬旨するまいと見て允可を擬し、帝はすぐ可とした。保は病から起きて「私が少し病んだだけで、もう私はいないことにするのか」と罵った。
- 皇太子が生まれ、保は伯爵の封を望んだが、四維は前例がないとして難じ、弟姪一人に都督僉事の廕を擬した。保は怒って「お前は誰のおかげで今日があるのに、私に背くのか」と言った。
- 御史 郭惟賢が呉中行らの召用を請うと、保はその党護を責めて謫した。吏部尚書 王國光が罷めると、保はすぐ同郷の梁夢龍を用いた。爵・大受らは相変わらず権を窃んだ。
- しかしこの頃には太后は久しく政を帰しており、保は倚る所を失い、帝も怒りを積んでいた。東宮の旧閹 張鯨・張誠が隙に乗じてその過悪を陳べ、閒住させるよう請うた。帝はなお畏れて「もし大伴が殿に上がって来たら朕はどうすればよい」と言い、鯨は「旨が出た以上、どうしてまた入れましょうか」と答え、帝は従った。
- たまたま御史 李植・江東之の弾章が入り、保は奉御に謫されて南京に安置され、久しくして死んだ。弟の佑、従子の邦寜はともに都督の官にあったが削職・下獄して瘐死した。大受およびその党の周海・何忠ら八人は小火者に貶されて孝陵で司香。爵と大受の子は煙瘴の地に永戍。家を籍没すると金銀は百余万、珠宝・瑰異の品もこれに見合う量だった。
- 保が南京に発たされたとき、太后が理由を問うと帝は「老奴は張居正に惑わされただけで他に過ちはない、いずれ召し還します」と答えた。
- 折しも潞王の婚礼で必要な珠宝が揃わず、太后がそれとなく言うと、帝は「近年、恥知らずの臣僚がみな張・馮二家に貨を献じたので、値が急に高くなったのです」と言った。太后が「もう籍没したのだから必ず得られよう」と言うと、帝は「奴は黠猾で先に窃んで逃したので、尽くは得られません」と答えた。
- その頃、錦衣都督 劉守有と僚属の張昭・龎清・馮昕らも、罪人の家を籍没する際に多くを隠没して罪を得た。
張鯨――東厰の掌握
- 張鯨は新城の人、太監 張宏の名下である。内豎は入宮すると必ず一人の大璫を主として投じる。これを名下という。
- 馮保が用事のとき、鯨はその寵を妬み、帝のために保を除く策を画した。宏は「馮公は先輩であり骨力もある、除くべきではない」と言ったが、鯨は聴かなかった。
- 保を讒逐したのち、宏が保に代わって司禮監を掌り、鯨が東厰を掌った。宏には過悪がなく賢と称され、萬厯十二年(1584年)に卒した。張誠が代わって司禮監を掌り、十八年(1590年)に鯨が東厰を罷めると誠が兼掌した。二十四年(1596年)春、誠は武清侯と姻を結んで威福を擅にしたとして奉御に降されて孝陵で司香、家は籍没され、弟姪はみな削職・治罪された。
- 鯨は性が剛果で帝が倚任した。東厰にあって内府供用庫の印を兼掌し、当時の宰相に憚られた。
張鯨――邢尚智の獄と失寵
- 鯨が用いた私人 邢尚智が権を招き賄を受けた。萬厯十六年(1588年)冬、御史 何出光が、鯨とその党の鴻臚序班 尚智、錦衣都督 劉守有が相倚って奸をなし威福を専らにしていること、死罪に当たるもの八条を弾劾した。帝は鯨には策励して供事せよと命じ、尚智と守有を削職、余党は法司の提問とした。
- 給事中 陳尚象・呉文梓・楊文煥、御史 方萬策・崔景榮が相継いで論列したが報聞のみ。法司が鯨らの贓罪を奏し、尚智は死を論じられ、鯨は切責された。給事中 張應登が再び疏して論じ、御史 馬象乾は大學士 申時行の阿縦を併せて弾劾したが、帝はいずれにも応じず、象乾を詔獄に下した。時行および同官の許國・王錫爵らが救ったので、象乾の疏は留中となった。
- 給事中 李沂が「帝は鯨の金宝を納れたゆえ鯨の罪を寛くしたのだ」とまで言うと、帝は大いに怒り、「沂らは張居正・馮保のために報復している」と言って杖六十のうえ官を削った。鯨も私家で閒住となった。
- やがて南京兵部尚書 呉文華が南京の九卿を率いて、鯨を罪して言者を宥すよう請うたが、帝は聴かず、まもなく鯨を召し入れた。給事中 陳與郊、御史 賈希夷、南京吏部尚書 陸光祖、給事中 徐常吉、御史 王以通らがいよいよ強く言ったが、いずれも不報。
- 最後に大理評事 雒于仁が酒色財氣の四箴を上り、鯨が賄によって復進したことを指した。帝は大いに怒って申時行らを毓徳宮に召し、于仁の罪を治めるよう命じるとともに鯨を召し、時行らに諭して責め訓させた。鯨の寵はこれで衰えた。尚智はのち減死して充軍となった。
陳增――礦税の起こり
- 陳增は神宗朝の礦税太監である。
- 萬厯十二年(1584年)、房山県の民 史錦が開礦を奏請し、撫按に査勘させたが実行されなかった。十六年(1588年)、五臺山に祠った中使が帰って、紫荊関外の広昌・霊邱に銀に冶せる礦砂があると言い、帝は聞いて喜んだが、大學士 申時行らの言で止んだ。十八年(1590年)、易州の民 周言・張世才がまた阜平・房山にそれぞれ礦砂を産すると言って開礦の遣官を請うたが、時行らはなお不可を執った。
- 二十年(1592年)、寧夏の用兵で帑金二百余万を費やし、その冬からの朝鮮の用兵は首尾八年で帑金七百余万、二十七年(1599年)の播州の用兵でまた帑金二三百万を費やした。三大征が相次いで国用は大いに窮乏し、そのうえ二十四年(1596年)に乾清・坤寧の両宮が焼け、二十五年(1597年)に皇極・建極・中極の三殿が焼け、営建の資が無く計臣は手を束ねた。礦税はこれによって大いに興った。
- 遣官は二十四年(1596年)に始まる。以後、礦を言う者が争って闕下に走り、帝はその都度 中官にその人を伴って赴かせた。天下いたる所に置かれた。
- 真定・保定・薊州・永平=王亮
- 昌黎・遷安=田進
- 昌平の横嶺、淶水の珠寳窩山=王忠
- 真定にはさらに王虎を加え、併せて山西の平定・稷山を採らせた
- 浙江=曹金、のち劉忠が代わる
- 陝西=趙欽
- 山西=張忠
- 河南=魯坤
- 廣東=李鳳・李敬
- 雲南=楊榮
- 遼東=高淮
- 江西=潘相
- 福建=高宷
- 湖廣=陳奉
- 增は敕を奉じて山東を開採した
- 通都・大邑にはみな税監が置かれ、両淮には鹽監、廣東には珠監があった。専任で遣わす場合も兼摂の場合もあった。大璫・小監が縦横に騒ぎ、髄を吸い血を飲んで進奉に供したが、公帑に入るのはおおむね十分の一にも及ばず、天下は蕭然として生霊は塗炭に落ちた。
- 最も横暴だったのは增と陳奉・高淮である。
陳增――山東での十年
- 二十四年(1596年)、增は山東に至るや福山知県 韋國賢を弾劾し、帝は逮問して削職した。益都知県 呉宗堯は增に抗して陥れられ、詔獄で死にかけた。巡撫 尹應元が增の二十大罪を奏したが罰俸だけで、まもなく復命した。
- 增は山東の店税の徴収を兼ね、臨清税監 馬堂と争った。帝は和解させ、堂に臨清、增に東昌を税させた。增はいよいよ肆って忌むところがなかった。
- その党の内閣中書 程守訓、中軍官 仝治らは、江南・江北から浙江に至るまで大いに奸弊を働いた。密旨を奉ずると称して金宝を捜し、人を募って告密させ、大商・巨室が禁物を蔵していると誣告した。破滅させられた家は十百を数え、人を殺しても問う者がなかった。御史 劉曰梧が状を具えて奏聞し、鹽務少監 魯保も守訓らが鹽課を阻塞していると奏したが、帝はいずれも省みなかった。
- 久しくして鳳陽巡撫 李三才が守訓の奸贓を弾劾した。增は恐れて守訓の隠していた禁物の珍宝と賄銀四十余万を捜し出して朝に報告し、守訓は械して入京・鞫治のうえ死を論じられた。增が山東で悪を肆にすること十年、三十三年(1605年)にようやく死んだ。
陳奉――湖廣の惨毒
- 陳奉は御馬監の奉御である。萬厯二十七年(1599年)二月、荊州の店税の徴収、興国州の礦洞・丹砂の採掘、銭厰の鼓鋳を命じられた。奉は数使を兼領して威虐を恣にし、巡歴にことよせて官吏を鞭笞し、行旅を剽劫した。
- 商民は骨髄に恨み、奉が武昌から荊州に至るのを伺って数千人が路上に集まり噪ぎ、争って瓦石を投げつけた。奉は逃げて免れ、襄陽知府 李商畊、黄州知府 趙文煒、荊州推官 華珏、荊門知州 高則巽、黄州経歴 車任重らが乱を煽ったと誣告した。帝は珏と任重を逮え、商畊らを謫官にした。
- 興国州の奸人 漆有光が、居民 徐鼎らが唐の宰相 李林甫の妻 楊氏の墓を掘って黄金巨万を得たと訐告し、騰驤衛百戸 仇世亨がこれを奏した。帝は奉に括り取って内庫に進めるよう命じ、奉は毒拷して償わせ、さらに境内の諸墓をことごとく発いた。巡按御史 王立賢は、掘られた墓は元の呂文徳の妻のもので林甫の妻ではなく、奸人の訐奏は事実に合わぬ点が多いとして、不問に付し他所の開掘も停めるよう請うたが不報。
- 二十八年(1600年)十二月、武昌に民変が起きた。南京吏部主事 呉中明が奏して、奉は官民を嚇し詐り僭って千歳と称し、その党は民家に直入して婦女を姦淫し、あるいは税監の署内に掠め入れ、王生の女・沈生の妻がみな逼辱され、そのため士民の公憤が起こって一万余人が奉と同死することを辞さず、撫按三司が数日護ってようやく無事に済んだ、しかも巡撫 支可大は曲げて蒙蔽している、天下の禍乱はどこまで行くのか、と言った。
- 大學士 沈一貫もまた、陳奉が楚に入ってから武昌に始まり、次いで漢口・黄州・襄陽・武昌・寶慶・徳安・湘潭などで変が十度も起こり、危うく大乱になるところである、直ちに撤回して楚民の心を収めよ、と言ったが、帝はみな置いて問わなかった。
- 奉はまた人を遣って穀城の礦を開かせたが得られず、県の庫金を脅し取ろうとして県民に逐われた。武昌兵備僉事 馮應京が奉の十大罪を弾劾すると、奉はすぐ誣告して應京を雑職に降させた。
- 奉はまた棗陽の礦を開こうとし、知県 王之翰が顕陵に近いとして不可を執ると、之翰と襄陽通判 邸宅、推官 何棟如を弾劾して緹騎に逮訊させ、併せて應京も追逮した。應京は平素から恵政があり、民は号哭して送った。奉が應京の罪状を街頭に榜示すると民は切歯して恨み、また相集まって奉の署を囲み必ず殺すと誓った。奉は楚王府に逃げ匿れ、衆は奉の党 耿文登ら十六人を江に投じ、巡撫 可大が奉を護るとしてその轅門を焼いた。
- 事が聞こえ、一貫と給事中 姚文蔚らが奉の撤回を請うたが不報。御馬監監丞 李道が湖口の船税を督理していて、奉が水路で商舟を沮み陸路で販賈を截り、三つ徴して一つしか解納せず、国を病め民を剥いでいると奏した。帝はようやく奉を召し帰し、一貫の請によって可大を革職した。
- 奉が湖廣にあること二年、惨毒を極めた。去るとき金宝財物は鉅万を数え、可大は民に掠奪されるのを恐れて多くの徒衛を付けて境外に導き出した。楚の民で毒み恨まぬ者はなかった。奉が京師に至ると給事中 陳維春・郭如星がなおその罪を極言したが、帝は不快がって二人を雑職に降した。三十二年(1604年)にようやく應京を釈して帰し、之翰は瘐死した。
馬堂――臨清の民変
- 奉が商畊らを弾劾した頃、臨清の民も噪いで馬堂を逐った。
- 馬堂は天津税監で臨清を兼轄した。着任当初から亡命の徒数百人を従え、白昼に鋃鐺を手にして人の産を奪い、抗う者はすぐ違禁の罪に落とした。僕が主を告げれば十分の三を与えたので、中人の家は大半が破れ、遠近が罷市した。
- 州民一万余が火を放って堂の署を焼き、その党三十七人を斃した。斃されたのはみな腕に黥のある盗賊だった。事が聞こえて首悪の捕縛が詔され、株連は甚だ多かったが、王朝佐なる者は平素から義に篤く、慨然と「首謀は私だ」と名乗り出た。刑に臨んで神色は変わらなかった。知府 李士登がその母と妻を恤み、臨清の民は祠を立てて祀った。
- 十余年後、堂は擅に揚州へ赴き、巡塩御史 徐縉芳がその九罪を弾劾したが不問だった。
高淮――遼東での横暴
- 高淮は尚膳監の監永である。神宗は諸税監を寵愛し、大學士 趙志臯・沈一貫以下、諫めた廷臣の疏は百余に下らなかったが、みな寝せられて不報だった。逆に諸税監が糾劾すれば朝に上って夕に下り、重い譴めが加えられた。それゆえ諸税監はいよいよ驕り、なかでも淮と梁永が甚だしかった。
- 淮は陳奉と同じ頃、遼東で採礦・徴税した。委官 廖國泰が民を虐げて変を激すと、淮は諸生数十人を誣って繋いだ。巡按 楊宏科が救ったが不報。参随 楊永恩の婪賄が発覚し、旨を奉じて会勘したがついに不問。
- 淮はまた遼東総兵 馬林が自分に下らないのを憎んで劾罷させた。給事中 侯先春が疏して救うと、林は戍に、先春は雑職に謫された。巡按 何爾健と互いに訐奏したときは、淮は人を遣って路上で待ち伏せさせ、奏事の使者を捕らえて獄に錮し、疏を匿して奏聞させなかった。
- また遼東の馬市の復活を請い、巡撫 趙楫が力争してようやく寝んだ。
- 三十一年(1603年)夏、淮は家丁三百余を率い、飛虎の幟を張り金鼓は天を震わせ、大内に入って帝に謁すると声言して、広渠門外に潜住した。給事中 田大益・孫善繼・姚文蔚らは「淮は士民から金を搜括して数十万に至り、亡命者や降人を招き納れている、何をするつもりか」と言い、吏部尚書 李戴と刑部尚書 蕭大亨も、淮が擅に信地を離れ兵を挟んで京師に潜住するのは数百年来なかったことだと弾劾した。御史 袁九臯・劉四科・孔貞一、給事中 梁有年らもそれぞれ疏劾したが不報。巡撫 楫が淮の罪悪は万端で、故なく指揮 張汝立を打ち殺したと弾劾したが、これも不報。
- 淮が上疏して「鎮守協同関務」と自称し、兵部がその妄を奏すると、帝は心から淮を庇って「朕がもとよりそう命じたのだ」と偽った。
- 淮はこれよりいよいよ死士を募り、しばしば塞を出て射猟し、黄票と龍旂を発して朝鮮に走らせ冠珠・貂・馬を索め、しばしば辺将と功を争った。山海関の内外はみなその毒を被った。また軍士の月糧を扣除した。
- 三十六年(1608年)四月、前屯衛の軍が甲して噪ぎ、淮の肉を食うと誓った。六月には錦州・松山の軍がまた変を起こした。淮は懼れて内地に奔り、同知 王邦才と参将 李獲陽が欽使を逐い殺して御用の銭糧を劫奪したと誣告し、二人とも逮問された。辺民はいよいよ譁然とした。薊遼総督 蹇逹が再び疏して淮の罪を暴き、ようやく召し帰され、通灣税監 張曄がその事を兼領した。獲陽はついに獄中で死に、邦才は四十一年(1613年)にようやく釈された。
梁永――陝西での劫掠
- 梁永は御馬監の監丞である。萬厯二十七年(1599年)二月、陝西に赴いて名馬・貨物の税を徴収するよう命じられた。税監は本来 兵を典らないが、永だけは馬五百匹を蓄え亡命の徒を招き寄せ、千戸 樂綱を用いて辺塞を出入りした。
- 富平知県 王正志がその奸を暴き、併せて礦監 趙欽を弾劾したが、詔で正志が逮えられ詔獄で瘐死した。渭南知県 徐斗牛は廉吏だったが、永は賄を責め県の吏卒を箠殺したので、斗牛は憤り恨んで自縊して死んだ。巡撫 賈待問がこれを奏すると、帝はかえって永に会勘させた。永は逆に西安同知 宋賢を弾劾し、併せて待問にも私請ありとしてどちらも勘を請い、帝は従ったが待問は宥した。
- 永はさらに鎮守の職銜を兼ねることを請い、また兵を率いて花馬池・慶陽の諸鹽池を巡り課を徴することを請うた。これに乗じて亡命の徒を率い、旌蓋・鼓吹を具えて陝地を巡行し、歴代の陵寝をことごとく発いて金玉を捜し、傍ら劫掠した。至る所の県令はみな逃げた。県丞 鄭思顔、指揮 劉應䏂、諸生 李洪逺らを杖殺し、樂綱らを縦にして淫掠を肆にさせ、良家の子数十人を私宮した。税額外の増耗は数倍、藍田など七関で歳に十万を得た。
- また奸人 胡奉言を用いて咸陽に氷片五十斤・羊毛一万斤・麝香二十斤を索めた。知県 宋時際は怒って与えなかった。咸寧の人が道中で盗に遇い、跡を追うと税使の役夫だった。知県 滿朝薦がこれを捕らえると、永は時際と朝薦が税銀を劫めたと誣告した。帝は時際を逮えるよう命じ、朝薦は到官してまだ久しくないとして秩一級を鐫った。
- 陝西巡撫 顧其志がその奸をことごとく暴き、「秦の民 万衆が共に永を殺そうと図っている」と言い、大學士 沈鯉・朱賡が永を械して帰らせ衆心を安んずるよう請うたが、帝はみな置いて不報だった。ただ時際は逮えずに釈し、朝薦の官は復した。
- 御史 余懋衡が陝西を按じたとき、永は懼れて綱に懋衡を酖せさせ、懋衡は死にかけて朝に訴えた。永を攻める言官の疏は数十に上り、永の部下の亡命の徒もようやく散じていった。
- その渠魁 王九功・石君章らは、重宝と輜軿を路に満たし、上供の物と詐って剣戟・弓弩を持ち陣を結んで行った。永が遣った馬匹を解送する者はすでに郵伝に乗って先発しており、九功らは急ぎ馳せて追いつき共に関を出ようとした。朝薦は盗と疑い、九功らが後から来て証がないのを見て邏兵に格闘させ、渭南まで追って数人を殺し、その荷をことごとく奪った。御史 懋衡は捕盗の際の殺傷として報告した。
- 永は大いに窮し、樂綱の謀を聴いて、人の髪の中に疏を繋いで馳せ奏させた。九功らはそれぞれ名馬・金珠・晴緑の諸宝物を貢いだのに、咸寧知県 朝薦が余御史の指図を承けて渭南に伏兵し遮り劫め、君章らを臠にして盗と誣った、という内容である。帝は怒って「御史は酖されても無事なのに朝薦が代わりに報復し、しかも貢物を劫めた」と言い、朝薦の逮捕を敕し、撫按に永らを護って還京させた。三十四年(1606年)のことである。
楊榮――雲南で殺される
- この年、楊榮が雲南の人に殺された。
- 初め榮は、阿瓦・猛密の諸番が内属を願っており、その地に宝井があって歳に数十万を益せる、敕を賜ってその事を領したいと妄奏し、帝は許した。ところが榮が進めた額は十分の一にも足りず、そこで知府 熊鐸が侵し匿したと誣告して法司に下した。
- また麗江土知府 木増に地を献じさせ開採を聴すよう詔することを請うた。巡按御史 宋興祖は「太祖は木氏に世々この地を守らせ、石門を限って西域を絶ち、鐵橋を守って土蕃を断たせた。なぜ自ら藩蔽を撤して遠人に心を生じさせるのか」と言ったが不報。
- 榮はこれよりいよいよ寵を恃み、尋甸知府 蔡如川、趙州知州 甘學書を誣劾していずれも詔獄に下し、また雲南知府 周鐸を誣劾して法司の提問とした。百姓は骨髄まで榮を恨み、相率いて税厰を焼き、委官 張安民を殺した。
- 榮は改めず威虐を恣にし、杖殺した者は数千人に及んだ。ついには指揮使 樊高明が期に後れたのを怒って榜掠のうえ筋を絶ち枷して衆に示し、また馬を求めて得られぬとして指揮使 賀瑞鳳を繋ぎ、六衛の官をことごとく捕らえると言った。そこで指揮 賀世勲・韓光大らが冤民一万を率いて榮の邸を焼き、榮を殺して火中に投じ、併せてその党二百余人を殺した。
- 事が聞こえ、帝は数日ものを食べず、守土の官を逮問しようとした。大學士 沈鯉が揭を上げて争い、密かに太監 陳矩に頼んで剖き示させたので、帝は止め、世勲らを誅するにとどめ、巡撫 陳用賓の議を用いて四川税使 邱乗雲に雲南の事を兼摂させた。
諸中官――各地の民害
- この頃、帝が遣った中官で虐を播き兇を逞しくしない者はなかった。
- 湖口税監 李道は、九江府経歴 樊圃充を劾して降し、また南康知府 呉寳秀・星子知県 呉一元を劾して逮え、臨江知府 顧起淹を降した。
- 山西税監 孫朝は夏県知県 韓薰を劾して降した。給事中 程紹が薰を救って一級を鐫られ、給事中 李應策らがさらに救ったので、紹と薰は削職された。巡撫 魏允貞は阻撓したとして罷め去った。
- 廣東税監 李鳳は郷官通判 呉應鴻らを劾して逮えた。鳳と珠池監 李敬とは仇どうしで、巡按 李時華は敬を恃んで鳳を弾劾した。給事中 宋一韓は、鳳が五千余万を乾没し、他の珍宝もこれに見合う量だと言った。吏部尚書 李戴らは、鳳が禍を醸して潮陽の鼓噪を招き、粤中の人が争って殺そうとしていると言ったが、帝は問わなかった。敬の悪も鳳に劣らず、採珠七八年で歳に珠を万両近く得た。のち珠池に盗が起こり、敬はようやく採珠の停止を請うた。
- 山西礦監 張忠は夏県知県 袁應春を劾して降し、西城兵馬 戴文龍を劾して逮えた。
- 江西礦監 潘相は浮梁・景徳鎮の民変を激し、厰房が焼かれた。饒州通判 陳竒可が諭して散じさせたが、相はかえって奇可を劾して逮えた。相が上饒県に礦洞の勘検を檄したとき、知県 李鴻が邑人に「敢えて食物を売る者は死罪」と戒めたので、相は終日 飢渇し疲れて帰り、鴻を螫してその官を罷めさせた。
- 横嶺礦監 王虎は広昌の民変によって易州知州 孫大祚を劾して降した。
- 蘇杭織造太監で税務を兼管した孫隆は民変を激し、委任した税官の家が遍く焼かれ、隆は急ぎ杭州に走って免れた。
- 福建税監 高宷は布政使 陳性學を薦めてただちに巡撫に擢させ、閩に居ること十余年、広く毒害を肆にした。四十二年(1614年)四月、万衆が洶々として宷を殺そうとしたので、宷は甲士二百余人を率いて巡撫 袁一驥の署に入り、刃を露わにして劫し、衆に退くよう諭させ、さらに副使 李思誠・僉事 呂純如らを挟んで私署に至らせ盟を要してようやく一驥を釈した。また同知 陳豸を署内に拘したまま久しかった。事が聞こえて帝は宷を召し還し豸を出すよう命じ、一驥はこれによって罷めた。
- そのほか通州の張曄、河南の魯坤、四川の邱乗雲らも、みな民の害となった。帝が崩じてはじめて遺詔が下り、礦税を罷めて諸中使を撤し京に還した。
陳矩――妖書の獄
- 陳矩は安肅の人。萬厯中に司禮秉筆太監となり、二十六年(1598年)東厰を提督した。人となりは平恕をもって称された。
- かつて詔を奉じて書籍を収めたとき、その中に侍郎 呂坤の著した『閨範圖説』があった。帝はこれを鄭貴妃に賜い、妃は自ら序して木に鋟った。当時 国本が未定で、ある者が『閨範圖説』の跋を作って「憂危竑議」と名づけ、大旨は貴妃が儲位を奪おうとし坤が陰に助けているというもので、張養䝉・魏允貞ら九人にも言及し、語は極めて妄誕だった。
- 三年を越えて皇太子が立った。三十一年(1603年)十一月甲子の未明、朝房から勲戚・大臣の門まで、それぞれ匿名の書一帙が置かれ「續憂危竑議」と名づけられていた。貴妃が大學士 朱賡、戎政尚書 王世揚、三邊総督 李汶、保定巡撫 孫瑋、少卿 張養志、錦衣都督 王之楨、千戸 王名世・王承恩らと結んで太子を易えようと謀っているという内容で、その言はいよいよ妄誕・不経だった。
- 矩がこれを獲て奏聞し、大學士 賡の奏も入ったので、帝は大いに怒り、矩と錦衣衛に必ず妖書を作った者を得よと大索を敕した。大獄が突然発し、緝校が交錯して都下は風影で人を捕らえ、株連は甚だ多かった。之禎は錦衣指揮 周嘉慶を陥れようとし、首輔 沈一貫は次輔 沈鯉と侍郎 郭正域を陥れようとして、ともに人を矩に付属させたが、矩は拒んで聴かなかった。
- やがて百戸 蔣臣が皦生光を捕らえた。生光は京師の無頼で、かつて富商 包繼志の詩を偽作して「鄭主 黄屋に乗る」の句を入れ、これで國泰と繼志の金を脅した男である。それゆえ人が疑って捕らえたのだが、酷訊しても承服せず、妻妾・子弟もみな掠治されて完膚なきに至った。
- 矩は「生光は冤であっても前の罪ですでに死に当たる。そのうえ獄に主名が無ければ上は必ず甚だしく怒り、輾転として攀累が果てなくなる」と考えた。禮部侍郎 李廷機も生光の前の詩が妖書の詞と合うとしたので、獄を具えた。生光は凌遲死に坐した。鯉・正域・嘉慶および株連された者はみな矩のおかげで全うすることができた。
- 三十三年(1605年)司禮監を掌り、厰の督は元のまま。帝が建言した参政 姜士昌を杖しようとしたのを矩が諫めて止めさせた。雲南の民が税監 楊榮を殺し帝が乱を起こした者をことごとく捕らえようとしたのも、矩の言によって免れた。
- 翌年(1606年)、詔を奉じて囚を慮った。御史 曹學程は「本酋の関白」の封を阻んだとして繋がれること十年近く、法司が矩に出獄を求めたが、矩は謝して敢えてせず、のち密かに帝に白してついに釈された。その他にも平反したものが多かった。
- また翌年(1607年)に卒し、祠額「清忠」を賜った。
- 馮保・張誠・張鯉が相継いで罪を得てから、その党は懲りて大いに肆ることができず、帝も宦官の党が盛んなのを憎んで欠員を多く補わなかった。晩年には用事の者は寥々として、東厰の獄中には青草が生えるほどで、帝の常膳も従来は司禮が輪番で供したのが、司禮に人が無く乾清宮の管事牌子 常雲が独りで弁じた。それゆえ偵卒は稀で簡略になり、中外は相安んじた。ただ四方の採榷の者だけは帝が実際に縦にしたので、貪残・肆虐によって民心は憤怨し、やがて禍乱を招いたという。
王安――移宮の功
- 王安は雄県の人。初め馮保の名下に隷した。萬厯二十二年(1594年)、陳矩が帝に薦め、皇長子の伴読を命じられた。
- 当時 鄭貴妃は己の子を立てようと謀り、しばしば人をやって皇長子の過失を摭わせたが、安がよく調護したので貴妃は得るところがなかった。梃撃の事が起こると貴妃は内心 懼れたが、安が太子のために草を属して令旨を下し、群臣の疑いを釈いて貴妃を安んじたので、帝は大いに喜んだ。
- 光宗が即位すると司禮秉筆太監に擢し、遇することが甚だ厚かった。安はその客の中書舎人 汪文言の言を用いて帝に諸々の善政を行うよう勧め、帑金を発して辺を済い、直臣 鄒元標・王徳完らを起用させた。人はかなりその功を安に帰し、大學士 劉一燝、給事中 楊漣、御史 左光斗らはみなこれを重んじた。
- 初め西宮の李選侍が寵を恃んで熹宗の生母 王才人を陵いだので、安は内心 忿って不平だった。光宗が崩じると、選侍は心腹の閹 李進忠らと皇長子を挟んで自ら重んじようと謀った。安がその謀を漣に告げ、漣は一燝らと入臨し、安が選侍を紿いて皇長子を抱いて出し、吉を択んで即位させ、選侍は別宮に移った。事は一燝らの伝に詳しい。
- 熹宗は心に安を徳とし、その言はみな納れた。安は剛直だが疎略で、また病がちで、しばしば帝に見えることができなかった。
王安――客氏・魏忠賢に殺される
- 魏忠賢は初め安の名下の魏朝に自ら結び、朝は日夕 忠賢を誉めたので安も信じた。安が朝と忠賢が客氏を争うのを怒って朝を勒めて退けると、忠賢と客氏は日々 得意になり、甚だ安を忌んだ。
- 天啓元年(1621年)五月、帝は安に司禮監を掌らせようとしたが、安は故事によって辞した。客氏は帝にその請を許すよう勧め、忠賢と安の殺害を謀った。忠賢が猶予して忍びずにいると、客氏は「お前と私とでは西李に比べてどうだ。それでも患いを遺そうというのか」と言い、忠賢の意はここで決した。
- 給事中 霍維華をけしかけて安を論じさせ、南海子の淨軍に降充し、劉朝を南海子提督として安を殺させた。劉朝は李選侍の私閹で、移宮の際に庫を盗んで下獄し宥されて出た者である。着任するや安の食を絶った。安は籬落の中の蘆菔を取って食べ、三日たっても死ななかったので、撲殺した。
- 安の死後三年、忠賢は東林の諸人が安と交わったと誣告してしばしば大獄を興し、誅され竄された者は甚だ多かった。荘烈帝が立つと祠額「昭忠」を賜った。
魏忠賢――出自と客氏との結託
- 魏忠賢は肅寧の人。若い頃は無頼で、悪少年の仲間と博打をして負け、苦しめられたのを恚って自ら宮し、姓名を変えて李進忠と称した。のち姓に復し、忠賢の名を賜ったという。
- 萬厯中に選ばれて入宮し、太監 孫暹に隷し、縁を求めて甲字庫に入り、さらに皇長孫の母 王才人の典膳となって魏朝に諂い事えた。朝はしばしば王安に忠賢を称し、安もよく遇した。
- 長孫の乳媪 客氏はもとから朝と私通していた。いわゆる対食である。忠賢が入ってまた通じたので、客氏は朝を薄んじ忠賢を愛し、二人は深く結んだ。
- 光宗が崩じ長孫が嗣立した(熹宗)。忠賢と客氏はともに寵を得、一月と経たぬうちに客氏を奉聖夫人に封じ、その子 侯國興、弟 客光先および忠賢の兄 釗をみな錦衣千戸に廕した。忠賢はまもなく惜薪司から司禮秉筆太監に遷り、寳和三店の提督を兼ねた。忠賢は字を識らず、例では司禮に入るべきでないが、客氏のおかげで得たのである。
- 天啓元年(1621年)、客氏に香火田を賜う詔が下り、忠賢が皇祖の陵を治めた功が叙された。御史 王心一が諫めたが聴かれず。帝の大婚のとき御史 畢佐周・劉蘭が客氏を外に出すよう請い、大學士 劉一燝もこれを言ったが、帝は恋々として捨てるに忍びず、「皇后は幼く媪の保護を頼りにしている。皇祖の大葬を待って議せよ」と言った。
- 忠賢は客氏を専らにして魏朝を逐い、また王安が正を持するのを忌んで殺害を謀り、安の名下の宦官をことごとく斥けた。客氏は淫にして狠、忠賢は書を知らぬがかなり記憶がよく、猜忍・陰毒で諛を好んだ。帝が深く信任したのでこの両人の勢いはいよいよ張った。司禮監 王體乾および李永貞・石元雅・涂文輔らを羽翼とし、宮中の人は誰も忤らえなかった。
- やがて客氏はいったん出されたがまた召し入れられた。御史 周宗建、侍郎 陳邦瞻、御史 馬鳴起、給事中 侯震暘が先後に力諍したが、みな詰責された。給事中 倪思輝・朱欽相・王心一がまたこれを言い、ともに外に謫された。まだ忠賢を名指すには至っていなかった。
- 忠賢は帝に武閹を選んで火器を練らせ内操とすることを勧め、密かに大學士 沈㴶と結んで援けとし、また日々 帝を倡優・声伎・狗馬・射猟に引き入れた。禮部主事 劉宗周が最初にこれを弾劾し帝は大いに怒ったが、大學士 葉向高の救いで免れた。
魏忠賢――東林攻撃の始まり
- 初め神宗は在位が久しく政事に怠り、章奏の多くは省みられず、廷臣は次第に門戸を立てて危言・激論を尚んだ。国本の争いは宮禁を指斥し、宰輔・大臣は言者に弾撃されるとすぐ病と称して避け去った。吏部郎 顧憲成が東林書院で講学し、海内の士大夫が多く附いた。東林の名はここに始まる。
- やがて梃撃・紅丸・移宮の三案が起こり、朝廷こぞって訴訟のごとくなり、東林に忤う者の多くは邪党と目された。天啓の初めにはほぼ廃斥され、識者はその過激さから変が生じるのを憂えていた。
- 忠賢の勢いが成ると、その党は果たしてこれに倚って東林を傾けようと謀った。徐大化・霍維華・孫杰がまず忠賢に附き、劉一燝および尚書 周嘉謨がともに杰に弾劾されて去った。しかし当時は葉向高・韓爌が輔政し、鄒元標・趙南星・王紀・高攀龍らがみな大僚におり、左光斗・魏大中・黄尊素らが言路にあって力めて清議を持したので、忠賢は思うようにできなかった。
- 二年(1622年)慶陵の功を叙して忠賢の弟姪を錦衣衛指揮僉事に廕した。給事中 惠世揚と尚書 王紀が沈㴶の客氏・魏忠賢との交通を論じ、ともに譴めを被って去った。
- たまたま初夏に雨雹があり、周宗建が「雹が時ならず降るのは忠賢の讒慝の致すところ」と言い、修撰 文震孟、太僕少卿 滿朝薦が相継いでこれを言い、みな黜けられた。
- 三年(1623年)春、私人 魏廣微を大學士に引き入れ、給事中 郭鞏に、宗建・一燝・元標および楊漣・周朝瑞らが熊廷弼を保挙して党を邪にし国を誤ったと訐告させた。宗建は鞏が忠賢の指揮を受けたと駁し、御史 方大任が宗建を助けて鞏と忠賢を攻めたが、いずれも勝てなかった。
- その秋、忠賢および客氏の子 國興が廕された錦衣官をともに世襲とする詔が下った。兵部尚書 董漢儒、給事中 程註、御史 汪泗論が交々諫めたが従われなかった。
- 忠賢はいよいよ忌むところなく、内操を一万人に増置し、衷甲して出入りして威虐を恣にした。詔を矯めて光宗の選侍 趙氏に死を賜い、裕妃 張氏が娠むと客氏が讒して殺し、また成妃 李氏の封を革った。皇后 張氏が娠むと客氏は計をめぐらせてその胎を堕させ、帝はこれによって嗣が乏しくなった。ほかに害された宮嬪 馮貴人ら、太監 王國臣・劉克敬・馬鑑らは甚だ多い。禁掖の事は秘されて詳らかでない。
- この冬、東厰の事を兼掌した。
魏忠賢――楊漣の弾劾と正人の一掃
- 四年(1624年)、給事中 傅櫆が忠賢の甥 𫝊應星と兄弟の契りを結び、中書 汪文言を誣奏して併せて左光斗・魏大中に及んだ。文言を鎮撫の獄に下し大いに羅織しようとしたが、掌鎮撫 劉僑が葉向高の教えを受けて文言だけに坐した。忠賢は大いに怒って僑を削籍し、私人 許顯純を代えた。
- この頃、御史 李應昇は内操を諫め、給事中 霍守典は忠賢が祠額を乞うたことを諫め、御史 劉廷佐は忠賢の濫廕を諫め、給事中 沈惟炳は立枷を諫めたが、忠賢はみな旨を矯めて詰責した。
- そこで副都御史 楊漣が甚だしく憤り、忠賢の二十四大罪を弾劾した。疏が上ると忠賢は懼れて韓爌に取りなしを求めたが爌は応じず、帝の前に趨って泣訴し東厰を辞そうとした。客氏が傍から剖き解き、體乾らがこれを翼けたので、帝は懵然として弁ぜず、温諭して忠賢を留め、翌日 漣の疏を下して厳旨で切責した。
- 漣が絀けられると、魏大中および給事中 陳良訓・許譽卿、撫寧侯 朱國弼、南京兵部尚書 陳道亨、侍郎 岳元聲ら七十余人が交々章を上げて忠賢の不法を論じた。葉向高および掌詹事 翁正春が忠賢を私第に帰らせて謗を塞ぐよう請うたが許されなかった。
- このとき忠賢は甚だ憤って異己の者をことごとく殺そうとし、顧秉謙が陰かにその忌む者の姓名を籍にして忠賢に授け、順次 斥逐させた。王體乾はまた廷杖を用いて廷臣を威脅すべしと公言した。まもなく工部郎中 萬燝が上疏して忠賢を刺し、たちどころに杖死した。また御史 林汝翥の事で向高を辱め、向高はついに致仕して去り、汝翥も杖された。廷臣はみな大いに慴れた。
- 一時に罷斥された者は、吏部尚書 趙南星、左都御史 高攀龍、吏部侍郎 陳于廷および楊漣・左光斗・魏大中ら先後 数十人。さらに韓爌および兵部侍郎 李邦華を逐い、正人の去国は枯枝を振るい落とすようだった。
- そのうえで中旨を矯めて例転の科道を召用した。朱童䝉・郭允厚を太僕少卿、呂鵬雲・孫杰を大理丞とし、霍維華・郭興治を給事中に復し、徐景濂・賈繼春・楊維垣を御史とし、徐兆魁・王紹徽・喬應甲・徐紹吉・阮大鋮・陳爾翌・張養素・李應薦・李嵩・楊春懋らを起こして爪牙とした。
- まもなく戍に擬されていた崔呈秀を御史に用いた。呈秀は『天鍳』『同志』の諸録を造り、王紹徽も『㸃將録』を造った。いずれも鄒元標・顧憲成・葉向高・劉一燝らを魁とし、忠賢に附かぬ者をことごとく網羅して「東林党人」と号し、忠賢に献じた。忠賢は喜び、群小はいよいよ媚を求めて腕まくりして東林を攻めた。
- 初め朝臣が三案および辛亥・癸亥の両京察と熊廷弼の獄事を争ったとき、忠賢はもともと関与していなかったが、その党が忠賢の力を藉りて諸々の正人を傾けようとして相率いて忠賢に帰し、義児と称して「東林は翁を害そうとしている」と言った。それゆえ忠賢は思いを遂げようとしたのである。
- 御史 張訥・倪文煥、給事中 李魯生、工部主事 曹欽程らが競って善類を搏撃して報復した。御史 梁夢環がまた汪文言の獄を興し、鎮撫司に下して拷死させた。許顯純が爰書を具え、詞は趙南星・楊漣ら二十余人に連なり、削籍・遣戍に差があった。漣および左光斗・魏大中・周朝瑞・袁化中・顧大章ら六人を逮え、熊廷弼の案に牽き入れて掠治し獄死させた。また廷弼を殺し、その姻戚の御史 呉裕中を杖して死に至らせた。さらに尚書 李宗延・張問逹、侍郎 公鼐ら五十余人を削り逐い、朝署は一空となった。そのうえ特に亓詩敎・劉述祖らを召して御史とし、私人はことごとく次を越えて超擢され、忠賢の党は要津に遍く行き渡った。
- このとき東厰の番役が横行し、緝訪するところは虚実を論ぜず糜爛させた。戚臣 李承恩は寧安大長公主の子で、家に公主から賜った器を蔵していたが、忠賢は乗輿の服御の物を盗んだと誣告して死を論じた。中書 呉懐賢は楊漣の疏を読んで節を撃って称歎し、奴が告げて懐賢は斃され家は籍没された。武弁 蔣應陽は廷弼のために冤を訟えてたちまち誅死した。民間で偶語して忠賢に触れればすぐ禽らえ僇され、甚だしきは皮を剥ぎ舌を刲り、殺された者は数えきれず、道路では目で語り合うありさまだった。
- その年、門功を叙して恩を三等加え都督同知に廕し、また族叔 魏志徳を都督僉事に廕し、傅應星を左都督に擢し、そのうえその母を旌し、魏良卿を錦衣衛僉書・掌南鎮撫司事とした。
魏忠賢――六年の大獄と生祠
- 六年(1626年)二月、鹵簿・大駕が成り、都督僉事に廕された。また党の李永貞に偽って浙江太監 李實の奏を作らせ、前の應天巡撫 周起元および江浙に里居する諸臣 高攀龍・周宗建・繆昌期・周順昌・黄尊素・李應昇らを逮治した。攀龍は水に赴いて死に、順昌ら六人は獄中で死んだ。蘇州の民は順昌の逮捕を不平として二人の校尉を毆殺し、巡撫 毛一鷺が顔佩韋ら五人を捕らえてことごとく誅死させた。刑部尚書 徐兆魁は獄を治めるに、忠賢が怒る相手と見ればすぐ大辟に坐した。
- また霍維華の言に従って顧秉謙らに『三朝要典』を修めさせ、意を極めて諸々の党人を詆った。御史 徐復陽は講学の書院を毀って党の根を絶つよう請い、御史 盧承欽はさらに東林の党籍を立てるよう請い、海内はみな息を屏め気を喪った。
- 霍維華はそこで忠賢に辺功を冒すことを教えた。遼陽の男子 武長春が妓家に遊んで妄言し、東厰がこれを捕らえた。許顯純が掠治してわざとその辞を張り、長春は敵の間諜で、捕らえなければ乱になっていた、厰臣の忠智に頼って奇勲が立ったと言った。詔して忠賢の姪 良卿を肅寧伯に封じ、宅第・荘田を賜い鉄券を頒った。吏部尚書 王紹徽がその先世を崇めるよう請い、忠賢の四代に本爵の通りの贈を詔した。
- 忠賢はまた詔を矯めて党の太監 劉應坤・陶文紀を遣って山海関を鎮させ、兵柄を収攬した。再び功を叙して都督同知に廕し、世襲の錦衣衛指揮使を各一人とした。
- 浙江巡撫 潘汝楨が忠賢のために祠を建てることを奏請し、倉場総督 薛貞は草場の火事が忠賢の救いで害無くすんだと言った。ここから功徳を頌して祠を請う者が相継ぎ、すべてここに始まった。
- 編修 呉孔嘉は宗人 呉養春と讐があり、養春の僕を誘って主が黄山を隠占していると告げさせ、養春父子は瘐死した。忠賢は主事 呂下問、評事 許志吉を先後に徽州に遣ってその家を籍没させ、株蔓・残酷を極めたので、知府 石萬程は忍びずに官を棄てて去り、徽州は乱になりかけた。
- その党の都督 張體乾は、揚州知府 劉鐸が李承恩に代わって獄を釈こうと謀り道士 方景陽と結んで忠賢を詛ったと誣告し、鐸はついに斬られた。また睚眦の怨みで新城侯の子の錦衣 王國興を誣って斬に論じ、併せて主事 徐石麟を黜けた。御史 門克新は呉の人 顧同寅・孫文豸が熊廷弼を誄したと訐告し、妖言の律で斬に坐した。また侍郎 王之寀を逮えて獄中で斃した。
- およそ忠賢が宿恨を抱いた者、韓爌・張問逹・何士晉・程註らは、すでに去っていても必ず削籍され、重ければ充軍、死ねば必ず贓を追って家を破られた。忠賢がたまたま忘れても、その党が必ず前事を追論して忠賢の怒りを激した。
- このとき内外の大権はひとえに忠賢に帰した。内豎は王體乾らのほか、李朝欽・王朝輔・孫進・王國泰・梁棟ら三十余人が左右で擁護した。外廷の文臣では崔呈秀・田吉・呉淳夫・李龍・倪文煥が謀議を主って「五虎」と号し、武臣では田爾耕・許顯純・孫雲鶴・楊寰・崔應元が殺戮を主って「五彪」と号した。また吏部尚書 周應秋、太僕少卿 曹欽程らを「十狗」と号し、さらに「十孩兒」「四十孫」の号もあり、呈秀輩の門下となった者は数えきれない。内閣・六部から四方の総督・巡撫まで、遍く死党を置いた。
- 忠賢は心に張皇后を忌み、その年の秋、后の父 張國紀が奴を縦にして不法を働いたと誣告し、中宮の旨を矯めて后を揺るがそうと図った。帝は奴を法に致し國紀を誚め譲るにとどめた。忠賢は満足せず、さらに順天府丞 劉志選と御史 梁夢環に交々 國紀の罪状を発かせ、併せて后は國紀の女ではないと言わせた。たまたま王體乾が危言して沮んだので止んだ。
- その冬、三殿が成り、李永貞・周應秋が忠賢の功を奏し、上公に進んで恩を三等加えた。魏良卿はすでに肅寧侯に晋んでいたが、さらに寧國公に晋み、禄は魏國公の例に同じとされた。重ねて恩を加えて錦衣指揮使一人・同知一人を廕し、工部尚書 薛鳳翔が第を賜うことを奏した。
魏忠賢――極盛と生祠の乱立
- やがて太監 陶文が喜峰隘口の築成を奏し、督師 王之臣が山海城の築成を奏し、刑部尚書 薛貞が大盗 王之錦の獄を奏し、南京では孝陵の修築が竣工し、甘鎮は捷を奏し、蕃育署丞 張永祚は盗を獲え、いずれも忠賢の区画・方略によるものと言った。忠賢も自ら三年の緝捕の功を奏し、詔書で褒め奨められた。半年のあいだに廕した錦衣指揮使は四人、同知三人、僉事一人、姪の希孟に錦衣同知の世襲を授け、甥の傅之琮・馮繼先をともに都督僉事とし、崔呈秀の弟 凝秀を浙江総兵官に擢し、名器の僭濫は極まった。
- その同類はことごとく薊遼・山西・宣大の諸々の要地を鎮し、総兵 梁柱朝・楊國棟らは歳時の名馬・珍玩の賂を絶やさなかった。
- 七年(1627年)春、さらに崔文昇を総漕運、李明道を総河道とし、胡良輔に天津を鎮させた。文昇はもと光宗に侍して薬のことで東林に攻められた者である。
- 海内は争って風を望んで諂いを献じ、諸々の督撫・大吏 閻鳴泰・劉詔・李精白・姚宗文らが争って徳を頌し祠を立て、洶々として遅れまいとした。下は武夫・賈豎・諸々の無頼の子に至るまで各々祠を建て、工巧を窮め、民の田廬を攘奪し墓木を斬り伐ったが、敢えて訴える者はなかった。監生 陸萬齡に至っては、忠賢を孔子に配し、忠賢の父を啓聖公に配することを請うた。
- 初め潘汝禎がまず上疏したとき、御史 劉之待は藁を会するのが一日遅れただけで削籍された。薊州道 胡士容は建祠の文を具えなかったため、遵化道 耿如把は祠に入って拝さなかったために、ともに下獄して死を論じられた。それゆえ天下は風靡し、章奏は巨細となく忠賢を頌した。
- 宗室では楚王 華煃、中書 朱慎□(底本欠字)、勲戚では豐城侯 李永祚、廷臣では尚書 邵輔忠・李養徳・曹思誠、総督 張我續および孫國楨・張翌明・郭允厚・楊維和・李時馨・汪若極・何廷樞・楊維新・陳維新・陳爾翼・郭如闇・郭希禹・徐溶ら、佞詞を重ね続けて羞恥を顧みなかった。忠賢も時に恩沢を加えてこれに報いた。
- 疏はみな「厰臣」と称して名を呼ばなかった。大學士 黄立極・施鳳來・張瑞圖の票旨も必ず「朕と厰臣」と書き、敢えて忠賢を名指す者はいなかった。山東に麒麟が産まれ巡撫 李精白が図象して奏聞すると、立極らは「厰臣が徳を修めたゆえ仁獣が至った」と票旨した。その誣罔ぶりはこの通りである。前後に賜った奨敕は数知れず、誥命はみな九錫の文に擬えた。
- この年、春から秋にかけて忠賢は款汪薩本を冒し、阿勒巴岱・魯台らを禽らえた功を積んで、錦衣指揮使十七人を廕した。族孫の希孔・希孟・希堯・希舜・鵬程、姻戚の董芳名・王選・楊六竒・楊祚昌はみな左右都督および都督同知・僉事などの官に至った。また客氏の弟 光先も都督となり、魏撫民は錦衣から尚寶卿に改められた。
- それでも忠賢の志願は極まらず、袁崇煥が寧遠の捷を奏すると、忠賢は周應秋に奏させて従孫 鵬翼を安平伯に封じ、再び三大工の功を叙して従子 良棟を東安侯に封じ、良卿に太師、鵬翼に少師、良棟に太子太保を加え、遍く諸々の廷臣に賚し、呈秀を兵部尚書兼左都御史とした。ひとり崇煥の功だけは絀けて録さなかった。当時 鵬翼と良棟はまだ襁褓の中にあって歩くこともできなかった。良卿は天子に代わって南北の郊を饗し太廟を祭るに至り、天下はみな忠賢が神器を窃むのではないかと疑った。
- 帝は性が機巧で、自ら斧鋸・髹漆の事を好み、年を積んでも倦まなかった。縄を引き墨を削るたびに忠賢輩が事を奏すると、帝は厭って「朕はもう悉く知っている、お前たちで善くやれ」と偽った。忠賢はこれによって威福を己の意のままにした。
- 歳に数度 外出し、文軒・羽幢・青蓋・四馬は飛ぶがごとく、鐃鼓・鳴鏑の声が黄埃の中に轟き、錦衣・玉帯・鞾袴で刀を握る者が左右を挟んで馳せ、厨伝・優伶・百戯・輿隷が相随って万を数えた。百司の章奏は急足を置いて馳せ白させてから下した。通り過ぎる所の士大夫は道を遮って拝伏し、「九千歳」と呼ぶ者さえあったが、忠賢は顧みることすらなかった。
- 客氏は宮中に居て皇后を脅し持し宮嬪を残虐に扱い、たまさか私第に帰るときは騶従が赫奕として街路を照らし、遠望すれば鹵簿のようだった。
- 忠賢はもとより騃で他に長ずるところはなかったが、その党が日夜これを教え、客氏が内主となり群凶が虐を煽って、これで海内を毒み痡ませた。
魏忠賢――失脚と逆案
- 七年(1627年)秋八月、熹宗が崩じ信王が立った。王は素より忠賢の悪を熟知しており、深く自ら儆め備えた。その党は自ら危ぶみ、楊所修・楊維垣がまず崔呈秀を攻めて帝の意を嘗み、主事 陸澄原・錢元慤、員外郎 史躬盛が交々章を上げて忠賢を論じたが、帝はまだ発しなかった。
- そこで嘉興の貢生 錢嘉徵が忠賢の十大罪を弾劾した。一に帝と並ぶこと、二に后を蔑ろにすること、三に兵を弄ぶこと、四に二祖列宗を無みすること、五に藩封を剋削すること、六に聖を無みすること、七に爵を濫にすること、八に辺功を掩うこと、九に民を朘ること、十に関節を通ずること。疏が上ると帝は忠賢を召して内侍にこれを読ませた。忠賢は大いに懼れ、急ぎ重宝で信邸の太監 徐應元を啖わせて取りなしを求めた。應元はもと忠賢の博打仲間で、帝はこれを知って應元を斥けた。
- 十一月、忠賢を鳳陽に安置した。まもなく逮治を命じたので、忠賢は阜城まで来てこれを聞き、李朝欽とともに縊死した。詔してその屍を磔にし首を河間に懸けた。客氏は浣衣局で笞殺された。魏良卿・侯國興・客光先らはともに棄市され、家は籍没された。客氏の籍没の際、その家から宮女八人が見つかった。呂不韋のやり方に倣おうとしたものと見え、人はとりわけこれを憎んだ。
- 崇禎二年(1629年)、大學士 韓爌らに逆案を定めさせ、はじめて忠賢の党をことごとく逐い、東林の諸人が復び進用された。逆案に麗った者は日夜 報復を図り、その後 温體仁・薛國觀輩が相継いで政を柄り、潜かに正人を傾けて逆案を翻す地ならしをした。帝もまた廷臣の党比を厭ってふたたび中璫を委用し、逆案中の阮大鋮らはついに江左に毒を肆にして滅亡に至った。
王體乾――忠賢の謀主
- 王體乾・李永貞・涂文輔はみな忠賢の党である。
- 體乾は昌平の人。柔佞にして深険。熹宗の初めに尚膳太監となり司禮秉筆に遷った。王安が司禮掌印を辞したとき、體乾は急ぎ客氏・忠賢に謀ってこれを奪い、安を死に至らせた。それゆえ一意に忠賢に附いて力を尽くした。故事では司禮掌印は東厰の上に位するが、體乾は忠賢を避けて自ら下に処ったので、忠賢は何も忌まなかった。
- 楊漣が忠賢を弾劾する疏が上ったとき、帝は體乾に誦させたが、疏中の切要の語を飛ばして読まなかったので、漣はついに譴めを受けた。萬燝の死も體乾の意から出た。
- 忠賢は字を識らず、體乾は永貞らとその謀主となり、票紅の文書や改票に遇うたびに御筆を請い、體乾だけが奏して忠賢は黙っていた。
- 忠賢が陵工・殿工・辺功などの賞を冒したとき、體乾・永貞輩もそれぞれ錦衣官数人を廕した。かつて選人の錢受益・黄願素を錢謙益・黄尊素の兄弟と疑い、併せて禁錮しようとした。忠賢に阿り媚びることこの通りである。
- 荘烈帝が逆案を定めるにおよび、體乾は革職され家は籍没された。
李永貞――章奏の鈐識と誅殺
- 永貞は通州の人。萬厯中に内侍となり、法を犯して繋がれること十八年、光宗が立ってようやく釈された。忠賢が用事となってその党の諸棟・史賓らを秉筆に引くと、永貞は棟の幕に入り、忠賢の掌班 劉榮と死友となった。棟が死ぬと縁を求めて忠賢に通じ、文書房から秉筆太監に陞り、一月のうちに五たび遷った。體乾・文輔および石元雅とともに忠賢の心腹となった。
- 章奏が入るごとに永貞らがまず要点に鈐識を付けて忠賢に白し、議して行った。崔呈秀が献じた諸録を永貞らはそれぞれ小冊にして袖に入れ、処分があるたびに争って冊を出し「これは某録の中の人だ」と告げたので、免れる者はいなかった。
- 永貞は性が貪で、三殿の工事と信王邸の造営を督して侵没したものは数えきれない。
- 荘烈帝が立つと永貞は表向き退を引き、體乾および司禮の王永祚・王本政に十五万金を贈って援けを求めたが、三人はその反覆を憎んで帝に首告した。永貞は懼れて逃亡したが、やがて捕らえられ鳳陽に謫された。まもなく李實の奏を偽草した件で逮えられ伏誅した。
涂文輔と劉若愚
- 文輔は初め客氏の子 侯國興に読書を授け、忠賢に諂い附き、司禮秉筆から御馬監を掌り、太倉・節慎の二庫を総督した。寧安大長公主の第を奪って廨署とし「戸工総部」と称した。騶従は常に数百人、部郎以下はみな庭参し、勢焰は群閹の上に出た。荘烈帝が立つとまた徐應元に附き、南京に謫された。
- 当時 劉若愚なる者があり、もと陳矩の名下に隷し、同輩の中ではかなり書を知っていた。天啓の初め、李永貞が内直房に取り入れて筆札を主らせた。永貞は文墨に粗く通じており、若愚が典故に詳しいので事ごとに諮り訪ね、若愚はその密謀にかなり与り聞いた。
- 忠賢が敗れると楊維垣がまず永貞を弾劾し、併せて若愚の佐逆の状に及び、孝陵の淨軍に充てられた。のち御史 劉重慶が、李實が高攀龍ら七人を誣告した件で實を弾劾すると、實は疏して弁じ、あれは空印の紙で、忠賢が逼って取り永貞に填書させたものだと言った。帝は疏の墨が朱の上にあるのを験して永貞を誅した。韓爌らが逆案を定めるにあたり、若愚は刀筆・深文・朋奸・害政として大辟に坐した。若愚は長く繋がれるうち『酌中志』四巻を作って自ら飾り、久しくしてついに釈された。当時これを失刑としたという。
崔文昇――紅丸の案
- 崔文昇は鄭貴妃の宮中の内侍である。光宗が立って司禮秉筆に陞り、御薬房を掌った。
- 当時 貴妃が帝に美女四人を進め、帝はこれを幸した。やがて疾を得たが、文昇が大黄の薬を用いていよいよ劇しくなり、視朝しなくなった。外廷は洶々として、みな文昇は貴妃の指図を受けて異謀があると言った。
- 給事中 楊漣は「陛下は哀毀の余、万機に労れ瘁れておられる。文昇は誤って伐薬を用い、そのうえ流言を構えて、侍御が蠱惑して陛下の令名を損なっていると言う。陛下はなぜ賊臣を肘腋の間に置かれるのか」と言った。ただしこの構造の説は、漣が文昇の誤薬を疑い、罪を卸すために言い出したものと見て述べたので、実際に文昇から出たものかどうかは分からない。
- まもなく光宗は鴻臚丞 李可灼の紅丸を服してついに崩じた。言者は交々 可灼および閣臣 方從哲を攻めたが、御史 鄭宗周らだけが直に文昇を指した。給事中 魏大中は「文昇の悪は張差に下らない」と言い、御史 呉甡もその罪は可灼より重いとした。廷議に下され、可灼は戍を論じられ、文昇は南京に謫された。
- 忠賢が用事となると文昇を召して漕運を総督させ、河道の管理を兼ねさせた。荘烈帝が即位すると召し返され、御史 呉煥がまたこれを弾劾した。疏が上るや文昇はすぐ同党を結んで宮門に伏し、号哭の声は御座まで徹した。帝は大いに怒り、その党ともども杖一百のうえ孝陵の淨軍に充てた。
張彛憲――戸工総理
- 張彛憲は荘烈帝朝の司禮太監である。帝は即位の初め、魏忠賢の禍敗に鑑みて諸方の鎮守中官をことごとく撤し大臣に委任した。ところが廷臣は門戸を競い、兵は敗れ餉は絀り、一策も献ずることができなかったので、ふたたび近侍を用いることを思った。
- 崇禎四年(1631年)九月、王應朝らを遣って関寧を監視させ、また王坤を宣府、劉文忠を大同、劉允中を山西に遣って軍馬を監視させた。彛憲は心計があるとして戸・工二部の出入りを鈎校させ、涂文輔の故事の通り署を建てて「戸工総理」と名づけた。その権は外の総督・内の団営提督に比した。
- 給事中 宋可久・馮元颷ら十余人が論諫したが納れられず。吏部尚書 閔洪學が朝臣を率いて公疏を具えて争ったが、帝は「もし群臣が心を尽くして国のために働くなら、朕は内臣に何を任せようか」と言い、衆は敢えて対えられなかった。南京侍郎 呂維祺は輔臣が匡救できぬことを責める疏を上げ、禮部侍郎 李孫宸も召対で力諫したが、いずれも聴かれなかった。
- 彛憲はそこで両部を按行し、尚書の上に踞して郎中以下に謁見を命じた。工部侍郎 高𢎞圖は下らず、抗疏して帰郷を乞い削籍して去った。
- 彛憲はいよいよ驕り縦になり、わざと辺鎮の軍器を勒めて発せなかった。管盔甲主事 孫肇興が軍事の稽滞を恐れてその誤国を弾劾したが、帝は回奏を命じ罪は遣戍に至った。主事 金鉉・周鑣もみな諫めて斥け去られた。工部尚書 周士樸は彛憲の定めた期に赴かなかったとして詰問され罷め去った。
- このとき中璫の勢いはふたたび大いに振るった。王坤は宣府に至って一月余で巡按御史 胡良機を弾劾し、帝は良機を落職として坤に按治させた。給事中 魏呈潤が争ったがこれも外に謫された。
- 坤は性が狂躁で敢えて言い、朝中の大吏にはこれに倚って相手を傾け擠そうとする者があった。そこで坤は抗疏して修撰 陳于泰が科名を盗み窃んだと弾劾し、その語は周延儒を侵した。給事中 傅朝佑は「坤は妄りに弾劾の権を干し、しかもその文詞は練達、機鋒は挑激で、必ず陰邪・険悪の人がこれを主っている」と言った。その意は温體仁を指したが、帝は置いて問わなかった。
- 左副都御史 王志道は「近ごろ内臣の挙動はほとんど皇綱を手に握るがごとくであるのに、輔臣はついに一言も問わず、身が弾撃を被っても辱を忍んで言わない。どうして明主の知遇に副えようか」と言い、みな延儒を責めることで帝を動かそうとした。帝は怒ってその籍を削った。
- 当時 帝は一意に内臣を用いたので、言う者は多く罪を得た。八年(1635年)八月に至ってはじめて詔を下し、「往きに廷臣が職を尽くさぬゆえ内侍に委寄した。今、兵制はほぼ立ち軍餉もやや清んだ」として、監視・総理をことごとく撤した。翌年(1636年)、彛憲に南京守備を命じ、まもなく死んだ。
- しかし帝は結局 高起潛輩を用いて兵を典らせ鎮を監させ、ついに関を開いて賊を引き入れ滅亡に至った。
高起潛――監軍の弊
- 高起潛はどこから進んだのか分からない。帝はしばしば兵柄を委ねた。
- 五年(1632年)、その同僚 呂直とともに諸将を督して登州の孔有徳を征し、翌年(1633年)凱旋した。
- 当時 流賊が大いに熾んで、太監 陳大金・閻思印・謝文舉・孫茂霖らを内中軍として大帥 曹文詔・左良玉・張應昌の諸営に分け入らせ「監軍」と名づけ、辺鎮にある者はみな「監視」と名づけた。起潛は寧錦の諸軍を監視することになった。
- ところが諸監は多く軍資を侵し剋し、敵に臨めば精兵を擁して先に遁れ、諸将もその下になるのを恥じたので、みな功が無かった。八年(1635年)に諸鎮の内臣をことごとく撤したが、起潛の監視だけは元のままだった。
- 九年(1636年)七月、また太監 李輔國・許進忠らを遣って紫荊・倒馬の諸関を分け守らせ、孫惟武・劉元斌に馬水河を防がせた。当時 兵部尚書 張鳳翼が援軍を督して出、宣大総督 梁廷棟も兵を引いて南したので、特に起潛を総監とし、金三万・賞功牌千を給し、司禮の大璫 張雲漢・韓贊周を副とした。しかし起潛は実際には一戦も決せず、ただ死人の首を割いて功を冒すだけだった。
- 翌年(1637年)、起潛が部を行き師を視るにあたり、監司以下にことごとく軍礼を用いさせた。永平道 劉景耀、関内道 楊於國が疏して争い黜けられた。やがて兵部尚書 楊嗣昌と結んで宣大総督 盧象昇を孤軍のまま戦没させ、しかもその状を匿して言わなかったので、人は多くこれを憎んだ。
高起潛――京師の陥落
- 十七年(1644年)、李自成が闕を犯そうとし、帝はまた起潛に寧前の諸軍を監させ、杜勲に宣府を鎮させた。勲は鎮に至るやすぐ賊に降った。事が聞こえ廷臣が急ぎ城守を徹するよう請うと、太監が突然 旨を伝えて「杜勲は賊を罵って殉難した、廕と祠を与える」と言った。内臣の蒙蔽である。
- まもなく勲は賊に従ってやって来た。自成は黄幄を設けて広寧門外に坐し、秦・晋の二王が左右に地に席いて坐し、勲はその下に侍り、城上に呼びかけて入見を請うた。城を守る諸璫が縋って引き上げ、ともに大内に入り、賊の勢を盛んに称して帝に自ら計るよう勧めた。左右が勲を留めるよう請うと、勲は「返らなければ二王が危うい」と言い、そのまま縦して出した。勲はまた縋り下りて城を守る諸璫に「我らの富貴はもとより保たれる」と語った。
- 俄かに城が陥り、諸璫はみな降った。賊が敗れて遁れようとするとき、内豎をことごとく逐えと令が下り、貴賤・老弱の別なく号哭し徒跣で面を破り血を流して京城の門を走り出た。賊はその金帛・珠宝を捆載して西へ去った。
- 初め内臣が命を奉じて城を守ったときすでに異志があり、士卒にみな白楊の杖を持たせ、外を朱に塗り端に鉄環を貫いて音が出るようにしたが、撃てば折れるものだった。ここに至って賊はその杖で内臣を駆り立てた。
- 広寧門が啓かれたのはみな太監 曹化淳が献じたものと言われた。ある説では化淳は実は東直門を守ったのだという。化淳は国朝に入って上疏し力めて弁じたが、人はついに信じなかった。
- 起潛は寧前に赴く途中で関を棄てて走り、福王が召して京営提督としたが、後にまた我が大清に降った。
王承恩――殉死
- 王承恩は太監 曹化淳の名下である。累官して司禮秉筆太監となった。
- 崇禎十七年(1644年)三月、李自成が闕を犯し、帝は承恩に京営提督を命じた。このときすでに事勢は去り、城陴の守卒は寥々として、賊は飛梯を架けて西直・平則・徳勝の三門を攻めた。承恩は賊が牆を坎つのを見て急ぎ砲を発して撃ち、続けて数人を斃したが、諸璫は泄々として平然としていた。
- 帝は承恩を召して急ぎ内官を整え親征に備えさせた。夜半に内城が陥り、天が明けようとする頃、帝は寿皇亭で崩じ、承恩はその下で自縊した。
- 福王の時に「忠愍」と諡された。本朝は礼部の議により碑を立て祠って祀り、これを旌して荘烈帝の陵の側に袝葬した。
方正化――保定に死す
- 方正化は山東の人。崇禎の時に司禮太監となった。十五年(1642年)冬、畿輔が兵を被り、保定の軍務を総監して城を全うした功があり、まもなく撤して還った。
- 十七年(1644年)二月、ふたたび出鎮を命じられ、正化は頓首して辞したが帝は許さなかった。また頓首して「奴のこの行きは万に一つも為すところなく、ただ一死をもって主恩に報いるだけです」と言い、帝も涙を垂れて遣った。
- 至って同知 邵宗元らと陴に登って共に守った。事を請う者があっても、ただ「私の方寸はすでに乱れている、諸公よろしくお計らいあれ」と言うだけだった。城が陥ると数十人を撃ち殺し、賊が「お前は誰だ」と問うと厲しい声で「私は総監の方公だ」と答えた。賊は刀を攢めてこれを斫り殺した。従っていた宦官もみな死んだ。
- 当時 内臣で殉難した者には、ほかにもと司禮掌印太監 高時明、司禮秉筆太監 李鳳翔、提督諸監局太監 褚憲章・張國元の四人がいる。東厰を督した太監 王之心は家が最も富み、賊に降ったのにその貲を勒め取られて拷死した。福王の時に旌忠祠を建てて諸々の死難者を祀り、王承恩を正祀、内臣の正化らを附祀としたが、之心までも濫りに与った。