明史卷三百三 列傳第一百九十一 列女三
篇首の立伝者一覧
- 徐貞女
- 劉氏
- 余氏
- 虞鳳娘
- 林貞女
- 王貞女
- 倪美玉
- 劉烈女
- 上海某氏
- 谷氏
- 白氏
- 高烈婦
- 于氏(臺氏)
- 胡氏
- 王氏
- 劉孝女
- 崔氏
- 高陵李氏
- 烈婦柴氏
- 周氏(王氏)
- 荆媧
- 宋氏
- 陳氏李氏
- 蘄水李氏(婢阿來)
- 萬氏(王氏五烈婦・明倫堂女)
- 陳氏
- 雞澤二李氏
- 姜氏
- 六安氏
- 石氏女(謝氏)
- 莊氏
- 馮氏
- 唐烈妻陳氏(劉氏)
- 唐氏(顔氏)
- 盧氏
- 于氏(蕭氏・楊氏)
- 仲氏女
- 何氏
- 趙氏
- 倪氏(王氏・韓氏)
- 卲氏(李氏)
- 江氏
- 楊氏
- 張氏
- 石氏(王氏等)
- 郭氏
- 姚氏
- 朱氏(徐氏女)
- 定州李氏
- 胡敬妻姚氏
- 熊氏
- 邱氏(乾氏・黄氏)
- 冼馬畈婦
- 向氏
- 雷氏
- 商州邱氏
- 吕氏
- 曲州邵氏
- 王氏
- 呉之瑞妻張氏
- 韓鼎允妻劉氏
- 江都程氏六烈
- 江都張氏(蘭氏等)
- 張秉純妻劉氏
- 陶氏
- 田氏
- 和州王氏
- 方氏
- 陸氏(子道𢎞妻)
- 于氏
- 項淑姜(王氏)
- 甬上四烈婦
- 夏氏
徐貞女
- 宣城の人。若くして施之濟に許嫁していた。十五歳のとき、里の豪族湯一泰が彼女に懸想し、従子で祭酒の湯賔尹の威を借りて強引に結納を押しつけようとした。
- 女の父の徐子仁がこれを受けず、夜のうちに施の家へ女を送り届けた。一㤗はひどく怒り、役人を脅して徐氏を召し出させ、法廷の場で女を奪い取ろうとした。先に人をやって施之濟の父子と仲人ら数人を捕らえ、府の門前で殴打させたが、役人は制止できなかった。
- 召し出された徐氏は城東の旅舎に留め置かれ、身の潔白を守り通せぬことを恐れ、夜、人の寝静まるのを待って池に身を投げて死んだ。衣は上下を縫い合わせて、わずかも肌が見えぬようにしてあった。見る者は皆涙を流し、遺骸をともに古廟へ運んだ。盛夏の蒸し暑さの中でも蠅が近寄らなかったという。
- 郡守の張徳明が現場に臨んで検分し、城東に祠を立てて祀った。
劉氏
- 京師の人。松江の出で辺境の守備に出ていた男が、妻がいないと偽って劉氏を娶った。恩赦で帰郷することになると、劉氏に「しばらく里帰りして親を見舞ってくる」と偽り、そのまま戻らなかった。
- 劉氏が松江まで訪ねて行くと、夫は家に入れようとしない。劉氏は「夫に棄てられて、どこへ帰れというのか」と泣き、髪を剃って尼となり、市中で物乞いをして暮らした。人々は憐れんで施しをした。
- 劉氏は棺を一つ用意し、夜はその中に臥すことを数十年続けた。隣家から火が出たとき、劉氏は棺に入って「蓋を閉じて私の一生を全うさせてほしい」と叫び、そのまま焼け死んだ。
余氏
- 黄岡の宋䝉の妾。䝉の妻の劉氏は男子と女子を一人ずつ生んだが、余氏には子がなかった。
- 䝉が死ぬと劉氏は他家へ再嫁し、妾の余氏が辛苦して二人の子を育てた。日々機織りに励み、夜半にならねば手を休めなかった。家内の規律は厳しく、親族でさえその門をのぞく者がなかった。
- 二十年余りたって、突然子らに「私の寿命は尽きようとしている。お前たちを最後まで見届けることはできない。ただお前たちが立派な人物になることだけを願う」と告げ、数日後、病もないままに没した。
虞鳳娘
- 義烏の人。姉が徐明輝に嫁いだが亡くなった。明輝は鳳娘が賢いと聞き、その父に懇願して後妻に迎えようとした。
- 鳳娘はこれを知り、泣いて父母に「兄弟が同じ妻を共にすることがない以上、姉妹も同じであるはずです」と訴えた。父が聞き入れなかったため、鳳娘は一切口をきかなくなり、首をくくって死んだ。
林貞女
- 候官の人。父の舜道は参政の官にあった。幼くして長楽の副都御史陳省の子、長源に許嫁した。結納が済んだ後に長源が死んだ。
- 女は髪も梳かず化粧も落とし、病と称して床に伏し、声を立てずに泣きながら心を痛めた。ある人が「まだ嫁いだわけでもないのに、なぜ自ら苦しむのか」と言うと、「私の名も生年月日も飾りをつけて箱に納め、陳家へ送ってあります。どうして自分をごまかせましょうか」と答えた。
- 父に強く願って陳家の喪に赴こうとした。父がその意を伝えると、陳の父は「凶事のために嫁がせるのは忍びないし、めでたい形で嫁いでも誰が家を取り仕切るのか。喪が明けるのを待たれよ」と答えた。女は大いに悲しみ嘆いて「これは引き延ばして私の志を奪おうとするものだ」と言い、断食して七日目に血を吐いて死んだ。
王貞女
- 崑山の人。太僕卿の王宇の孫、諸生の王述の娘。侍郎の顧章志の孫、同吉に許嫁したが、まもなく同吉が死んだ。
- 女はすぐさま飾りを外して白衣となり、父母の前へ出て何も言わず泣きもせず、ただ出立を急かすようであった。父母が難色を示すと、老女を遣わして舅姑に告げさせた。舅姑は庭を掃き清めて迎えた。
- 女は到着すると拝跪したが哭さず、顔つきを改めて舅姑にまみえ、生涯ここで終わる意志を示した。姑が涙をこらえて「息子は不幸にも早世した。新婦を巻き添えにしてどうしよう」と言うと、女は「新婦」と呼ばれたのを聞いて涙をはらはらと落とし、そのまま留まって嫁の道を守り、去らなかった。
- 朝夕に柩の前へ跪いて供物を捧げ、姑の寝食の世話をするほかは自室に籠もった。近い親戚が女中をよこして様子をうかがわせても、すべて断り「私は門の外の人とは会わない義がある」と言った。
- のち姑が病むと、女は昼夜怠らず看病した。病が重くなると、女は病床に来て様子を見ては薬の竈へ行き、幾度も行き来して何かをしている風であった。侍女たちが覗いても何をしているのか分からない。姑は薬を飲むと眠り、目覚めると病がすぐに軽くなった。姑が「先ほど私に飲ませたのは何の薬か。かくも早く治るとは」と尋ね、手を取って労おうとすると、女は手を縮めて差し出しにくそうにした。姑が怪しんで起きて見ると、すでに指を一本切り落として薬に煮込んでいたのだった。
- 姑は嘆いて「天が我が子を奪ったので老後に頼る者がないと憂えていたが、いま嫁は身体を惜しまず私の病を癒してくれた。実の子にまさるではないか」と、長く涙を流した。人は皆これを王孝女と称した。
倪美玉
- 十八歳で董緒に嫁いだ。緒は喪に服して度を超して身を損ない病を得た。妻に「私には兄弟も子もない。私が死ねば父母の祭祀は絶える。私の家を小宗の祠とし、祭田を数畝置いて、小宗の人が交替で主宰し、春秋の祭祀に父母もあずかれるようにしてくれれば、思い残すことはない。必ずこの意を叔父に告げて実行してほしい」と遺言した。
- 緒が没すると、倪氏は従子を立てて後嗣とし、喪を終えると娘と田二十畝を携えて義姉に「これをお願いします」と託した。叔父が他郡から到着すると、泣いて拝し、夫の遺命を伝えた。叔父はその通りに取り計らった。
- 事が済むと倪氏は拝謝して部屋に入り、臥して食を絶った。数日後、沐浴して衣を整え「亡き夫が私を呼んでいる」と言い、手を挙げて父母や親族に別れを告げて没した。二十二歳であった。
劉烈女
- 銭塘の人。若くして呉嘉諫に許嫁していた。隣家の富家の子、張阿官がしばしば彼女をうかがい、ある夜、梯子をかけて忍び込んだ。女が父母を呼んでともに捕らえ、役所へ訴えようとすると、張の従子が「劉家の娘が男を誘っておいて、捕らえて金をゆすろうとしている」と言いふらし、多くの者がこれを信じた。
- 女は父に「賊が私の名を汚した。もう生きてはいられない。天帝に訴えて是非を正してもらう」と告げ、そのまま首をくくった。盛暑の中、検屍を待つ間、日にさらされても屍臭を発しなかった。
- 嘉諫は初め世評に惑わされて哭さなかったが、ゆっくり調べてそれが誣告と知り、屍に伏して激しく慟哭した。すると女の目が突然開き、血の涙を幾筋も流して、泣く者に応じるようであったという。
- 張は訟師の丁二を雇って先の言い分を押し通させた。女は丁二に憑いて「もし筆で私を汚すなら、私が先にお前を殺す」と言わせ、丁二はその場で死んだ。そのとき銭塘江の波が轟き、岸の土が数十丈にわたって裂け崩れた。人は女の怨みの致すところと考えた。役所はついに阿官とその従子を杖で打ち殺した。
上海某氏
- 嫁いだ後、夫が癩を病んだ。舅姑はこれを奪って次男の妻にしようと謀った。妻はこれに気づき、ひそかに夫に告げ、泣きながら実家へ帰された。妻は実家でひそかに埋葬の用具を作っておいた。
- 夫が死ぬと、舅姑はそれを知らせず、棺の蓋も閉じず、水辺にさらして置いた。悪疾を忌む土地の習俗による。
- 妻はこれを聞き、盂に飯を盛り鶏を茹でて、幼い妹とともに棺のもとへ行き、屍を抱いて洗い、衣と夜具で包み、棺を閉じて祭りを行った。祭りが終わると妹に別れを告げ、布で顔を覆って水に投じて死んだ。
谷氏
- 餘姚の史茂の妻。父は茂の学才を買って婿として家に迎えた。数日後、隣人の宋思徵が父に借金の督促に来て、谷氏の美しさを見るや、未払いの銭を結納の品だと言い張って役所に訴えた。知県の馬從龍はそれが誣告と見抜き、思徵を杖で打って追い払った。
- ところが谷氏が階を下りるとき、茂が扶けて行こうとした。谷氏はもともと閨房を出たことがなく、下役が立ち並ぶ前で夫が身を寄せてきたのを恥じ、顔を赤らめて茂を押しやり遠ざけた。從龍はこれを見て、谷氏の心は茂にないのだと思い込み、ただちに判決を改めて思徵に帰属させた。思はすぐさま人を率いて輿を取り囲んで連れ去った。
- 谷氏の母が付き添って思の家まで行った。谷氏は号泣して早く死なせてくれと求め、髪を切って母に託し、茂に届けさせた。思の一族の婦人十数人が取り囲んで慰めたが思いは解けず、隙を見て首をくくって死んだ。
- 從龍はこれを聞いて大いに驚き、思を捕らえようとしたが逃亡していた。茂は妻の義に感じ、生涯再婚しなかった。
白氏
- 清澗の恵道昌の妻。十八歳のとき夫が死んだ。妊娠六か月であったが、死んで殉じようとした。人々が「なぜ少し待って子を産み、夫の跡を継がせないのか」と諭すと、白氏は泣いて「夫に跡継ぎのないことを思わぬのではない。ただ心の痛みが一時も緩まないのです」と言い、七日食を絶って死んだ。
高烈婦
- 博平の諸生賈垓の妻。垓が死ぬと、みずから考えて「節に殉じて死ぬのはたやすく、節を守って生きるのは難しい。まして兵乱の折である。私はたやすい方を選ぼう」と言った。
- 姑の手を取って泣き「嫁として舅姑にお仕えできず、かえって孤児を残してご負担をかけます。しかし嫁が夫に殉ずるのは正しい道です。あまりお嘆きにならぬよう」と告げ、そのまま首をくくった。
于氏(臺氏を附す)
- 于氏は穎州の鄧任の妻。任が病んだが家が貧しく薬も買えないので、于氏は嫁入り道具の箱をすべて売り払って手当てした。
- 六か月たって病が危篤になると、于氏は結納の簪二本を取り、一本を夫の髪に挿し、もう一本を自分に挿し、任の首を抱いて泣き「私は必ずあなたを裏切りません」と言い、指を任の口に入れて噛ませ、契りの証とした。任が没して三日後、首をくくって死んだ。
- 同じ州にまた臺氏があり、諸生の張雲鵬の妻である。夫が病むと、臺氏は単衣・粗食のまま身代わりを天に祈り、腕を割いて粥に入れて夫に進めた。夫の病が危うくなると身をもって殉ずると約し、期日を三日と定めた。夫は紅い手ぬぐいを渡して別れの証とし、臺氏は号泣してこれを受けた。
- 三日たって、臺氏は授かった手ぬぐいを結んで首をくくったが、侍女に救われて死ねなかった。臺氏は「どこの下女が私の事を台無しにし、三日の約束を破らせたのか」と恨み、以後は水も口にせず、声を上げて一声叫ぶと熱い血がほとばしり出た。七日目に足を踏み鳴らして「遅れてしまった。夫は私を疑わないだろうか」と言い、母がたまたま出ていった隙に、髪を梳いて身を清め、戸を閉ざして首をくくって死んだ。
胡氏
- 諸城の人。遂平知県の胡麗明の孫娘。十七歳で諸生の李敬中に嫁ぎ、娘を一人生んだところで夫が死んだ。
- 初めは声を上げて激しく哀哭したが、三日目には哭くのをやめ、身を清め髪を整えて堂の下で舅姑を拝した。家人が不審がると、落ち着いて「嫁は不幸にも頼るべき夫を失い、子もありません。地下へ夫を追うので、二度と舅姑にお仕えできません。どうか食を進め、お身体を大切に。いずれ弟に子ができたら亡き人の跡継ぎとし、年ごとに麦飯を供えてくだされば十分です」と答えた。
- 姑と実母が泣いて止めたが聞かず、香を焚いて柩の前に告げ、家人に「家を清めなさい。お前たちの近親であっても、男は近づけてはならない」と願い、そのまま部屋に入って首をくくった。母と姑が戸を叩いて痛哭し、大声で呼んだが、ついに振り返らずに死んだ。
王氏
- 淄川の成象の妻。夫が死ぬと三日痛哭し、唇は乾き歯は黒くなった。父が見かねて水を与えたが、辞して飲まなかった。さらに三日たって息が細くなったが、無理に起き上がって父に「舅姑がまだ葬られておらず、夫も仮の殯のままです。どういたしましょう」と言った。父がその事を引き受けると承知すると、王氏は枕について叩頭し、目を閉じて死んだ。十七歳であった。
劉孝女
- 京師の人。父の劉蘭が死ぬと、嫁がずに母を養う志を立てた。崇禎元年(1628年)、四十六歳のとき母が病没すると、女は食を断って殉じた。
崔氏
- 香河の王錫田の後妻。崇禎二年(1629年)、城が破られると、崔氏は人々に別れを告げて「私は義として辱めを受けない」と言い、涙を流しながら娘に乳を与え、首をくくろうとしたが家人に強く止められてできなかった。
- 兵が門に迫ると人々は皆逃げ散った。崔氏はあわただしく戸の後ろで首をくくった。賊がその容貌を見て縄を解くことを恐れたためである。
高陵李氏
- 鎮撫の劉光燦の妻。夫の死後、志を励まして苦節を守った。崇禎四年(1631年)、賊が高陵を陥れたとき、七十九歳であった。家の者が助け起こして逃げさせようとすると「未亡人が亡き夫の家を棄ててどこへ行くのか」と言った。
- 言い終わらぬうちに賊が刃を抜いて入ってきた。李氏はただちに刀を取って自らを刺し、血が流れ滴った。賊はその烈しさに感じ入って飲食を与えたが、李氏は怒って受けず、椀を賊に投げつけ「私は四十九年こらえて生きてきた。いま賊の食を口にできようか」と罵り、ついに殺された。
烈婦柴氏
- 夏県の孫貞の妻。崇禎四年(1631年)、夫婦で賊を避けて山中にいたが、賊が山狩りをして柴氏を見つけ、その美しさを喜んで手を取った。柴氏は口でその肉を噛み切って吐き捨て「賊が私の手を汚した」と言った。賊が続いて腕をつかむと、また口で肉を噛み切って捨て「賊が私の腕を汚した」と言った。
- 賊はいったん放して去ったが、柴氏が罵り続けたので、引き返して殺した。
周氏(王氏を附す)
- 周氏は登州の人、新城の王永命の妻で、登州都督の周遇吉の兄の娘である。幼くして孝経・列女伝に通じていた。
- 崇禎五年(1632年)、叛将の耿仲明・李九成らが登州に拠って反乱を起こし、兵を放って掠奪と暴行をはたらいた。一人の小校が周氏を辱めようとすると、周氏は偽ってその場を去らせ、ただちに首をくくって死んだ。翌日、賊は自分が欺かれたのを怒り、その屍を切り刻んだ。乱が平定されると、永命は賊の居所を探って討ち取り、その首を墓前に供えた。
- そのころ蓬萊の浦延禧の妻の王氏は二十歳で、節を守って孤児を育てていた。九成の叛乱で城が陥ちると、叔父の允章がその家に来て身の振り方を問うた。王氏は「私がどうして患難の中に生き延びる道を求めましょう」と答えた。ちょうど床の頭に麻縄があり、允章が手でそれを揺らして「これで決するつもりか」と言うと、王氏はうなずき、落ち着いて首をくくった。
荆媧
- 陝西淳化の人、姓は高氏。兄の高起鳳は邑の諸生であった。崇禎五年(1632年)、流賊が継母の秦氏と荆媧を掠奪して連れ去った。
- 起鳳は賊の陣営へ駆けつけて身代金による返還を求めた。賊は馬二頭を要求した。起鳳は財産を傾けて一頭を手に入れて渡すと、賊は母だけを返した。起鳳は妹に別れを告げて「私が去れば、お前はすぐ死ぬだろう」と言った。賊は起鳳に、妹を説いて自分たちに従わせよと命じ、また彼を書記として留め置こうとした。起鳳は大いに罵って従わず、殺された。
- 賊はあらゆる手で荆媧を脅したが、荆媧は大いに罵って死を求めた。賊はその容色を惜しみ、髪を切り衣を裂いて脅したが、荆媧はいよいよ罵りやめず、賊はついに殺した。年はわずか十六であった。巡按の呉甡がその事を上申し、兄妹ともに旌表された。
宋氏
- 陳丹餘の妻。丹餘は鄖陽の諸生であった。崇禎六年(1633年)、賊が来て宋氏は掠われ、娘も捕らえられて空き部屋へ入れと迫られた。
- 部屋の前に古い槐があり、母娘は木を抱いて立ち、「私たち母子は白日のもとで死ぬ。どうして暗い部屋の中で汚されようか」と罵り、大いに罵って動かなかった。賊がその手を切り落としても、いよいよ大いに罵り、ともに殺された。
陳氏・李氏
- 霍邱県令の黄日芳の妻の陳氏と妾の李氏。崇禎八年(1635年)、日芳が計簿を携えて郡へ出向いている間に、流賊が突然到来して城を囲んだ。
- 二人は語り合って「殿がお戻りにならぬうちは、城は必ず持ちこたえられない。私たち二人にはただ死あるのみ」と言い、内外の衣をひそかに縫い合わせて固く閉じた。城が陥ちると南に向かって再拝し、手を取り合って藏天澗に赴いて死んだ。
- 三日後に日芳が戻り、澗のほとりで号哭すると、二人の屍がその声に応じて浮かび上がった。顔色は生けるがごとくで、手はなお互いを支え合っていた。
蘄水李氏(婢阿來を附す)
- 諸生何之旦の妻。流賊が蘄に至り、李氏を捕らえて連れ去ろうと迫った。従わないので大勢で抱えようとすると、李氏はいよいよ激しく罵り、賊に噛みついて死を求めた。賊は怒って刺し、傷が全身に及んだが、恐れる色を見せなかった。賊はその首を斬って殺した。
- 従婢の阿來は李氏の幼い娘を抱いて泣きながら守った。賊が娘を奪って殺そうとしても渡さず、地に伏して身をもってかばった。数十か所を刺され、婢も娘もともに死んだ。
萬氏(和州王氏五烈婦・明倫堂の女を附す)
- 和州の儒士姚守中の妻。泉州知府の姚慶の孫娘である。六人の子を生み、皆すでに妻帯していた。
- 崇禎八年(1635年)、流賊がその城を陥れると、萬氏は寡婦である姑の前で慟哭し、嫁たちに「私たちは女である。必ず節に死ぬと誓おう」と命じた。子らが取り囲んで泣くと、急いで手を振って「お前たち男は宗祀を存続させることを図るべきだ。なぜ泣くのか」と言った。長子の承舜は泣いて「私は書を読んで忠孝の二字を知るのみです。悪鬼となってでも賊を殺したい。どうして母上お一人を死なせられましょう」と言い、母を負って池に投じた。嫁や孫娘で相次いで死んだ者は十数人であった。かろうじて残った子の希舜がその屍を求めると、みな池の窪みに集まって、一人も離れる者がなかった。
- このとき和州にはまた王氏があり、同時に五人の烈婦が出た。王用賓の妻の尹氏、用賢の妻の杜氏、用䀻の妻の魯氏、用極の妻の戴氏、それに王良器の娘で劉臺の妻となった王氏である。五人は城西の別荘に身を隠し、ともに死ぬことを誓った。賊が城壁に登り、喊声が地を震わすと、五人は互いに取りすがって泣き「早く死のう、早く死のう。賊の刃で身を汚してはならぬ」と言った。輪を結んで首をくくろうとしたが輪が切れた。ちょうど用賢の佩剣が壁に掛かっていたので、杜氏が走って抜き取り、争って研ぎ、順に首を刎ねて死んだ。
- 州にはまた姓の分からない女がいて、婦人たちとともに明倫堂の裏に隠れた。全部で四人であった。すでに賊に捕らえられ、帛で引かれていったが、この女だけは捕らえられまいとした。あの手この手で迫っても従わず、四人の婦人が説くと、女は泣いて「私は処女です。男とともに行けましょうか」と言い、頭を地に打ちつけた。賊が足をつかんで引きずると、女は大いに罵った。賊は怒り、片手で足をつかみ、刀を下から入れて裂き、身体は四つに裂けた。
陳氏
- 涇陽の王生の妻。子がちょうど一歳のとき、王生が病んで死のうとし、遺された子を陳氏に託した。陳氏は「私は生きるも死ぬもこの子とともにします」と言った。
- 流賊が来ると、陳氏は子を抱いて楼上に避けた。賊が楼を焼いたので、陳氏は楼の軒から飛び降りたが死ななかった。賊はその容色の美しさを見て馬上に抱え上げたが、陳氏は身を躍らせて地に落ちること二度に及んだ。最後は縄で縛られたが、数里行ったところで陳氏は力ずくで縛った縄を断ち切り、鞍もろとも落ちた。賊は奪えないと知って殺した。
- 賊が退いた後、家人がその屍を収めると、子は□(底本欠字)□(底本欠字)と懐の中にあり、両手はなお固く抱いたままであった。
雞澤の二李氏
- 一人は同じ邑の田藴璽の妻。乱に遭って藴璽の兄弟が殺されたとき、李氏は娘を抱き、同じく嫁いだ姒の王氏は男児を抱いて逃げた。王氏は足に傷を負って歩けず、李氏に先に行くよう言った。李氏は「夫の兄弟は皆死んだ。この子を残して田氏の後を絶やすまい」と言い、自分の娘を棄てて王氏の男児を抱き、城へ駆け込んで無事であった。
- もう一人は曲周の郭某に嫁いだ。乱に遭って一家が逃げ隠れたが、舅姑はまもなく殺された。李氏は幼い男児と、まだ七歳の夫の弟を連れて逃げたが、力尽きて両方は助けられなくなった。ある人が叔を棄てて男児を抱けと教えると、李氏は「舅姑は亡くなった。叔をまた得られようか。子を捨てるのは辛いが、夫は外にいてまだ死んでいないかもしれず、望みがある」と言い、ついに男児を棄て、叔を背負って逃げた。
姜氏
- 宋徳成の妻、臨清の人。徳成が贊皇県を知ったとき、賊が役所に入ってきて、姜氏は井戸に身を投げた。賊が引き上げて食べ物を無理に食わせようとすると、姜氏は「官兵がお前たちを討ち滅ぼし、塩漬けの干し肉にしたなら、私はそれを食おう」と罵り、簪で自ら片目をえぐり出して賊に見せ「私は不具の人間だ。早く殺してくれれば幸いだ」と言った。賊は怒って殺した。
六安の女
- 姓は伝わらない。崇禎年間、流賊が境内に入り、その美しさを見て犯そうとした。帕を頭にかぶせると、これをはねのけて「私の髪を汚すな」と言い、錦の衣を着せると、これも投げ捨てて「私の身を汚すな」と言った。無理やり馬上に抱え上げると、また地に身を投げ、大いに罵って死を求めた。賊は怒って刃にかけたが、後になって「まことの烈女だ」と嘆じた。
石氏の女(謝氏を附す)
- 出身の邑は分からない。父の石守仁に従って五河に寓居していた。崇禎十年(1637年)、流賊が突然到来し、女を捕らえて汚そうとした。女は槐の木を抱いて、声を張り上げて賊を罵った。賊が数人がかりで引き離そうとしても離れないので、その両手を斬った。女は初めと同じように罵った。さらに足を断つと、いよいよ罵ってやまなかったが、痛みで地に倒れ、死んだふりをした。賊が近寄って衣を剝ごうとすると、女は口で賊の指を噛んで三本を食いちぎり、血を一升ばかり含んで賊に噴きかけ、それから息絶えた。
- 賊は薪を積んで焼いた。その後、焼かれた場所の血痕はいつまでも消えず、雨が降ると乾き、晴れると湿った。村人は怪しんで掘り除いたが、血の色は三尺ばかりも土に染み込んでいた。
- また當塗の挙人呉昌祚の妻の謝氏は、乱れた兵に掠われた。謝氏は手で木を抱いて大いに罵ってやまなかった。兵は怒って木にすがりついた指を切り、謝氏は切れた指を拾って兵の顔に投げつけた。兵は謝氏を切り刻んで殺した。
莊氏
- 周彦敬の妻。彦敬は棲霞の知県であった。莊氏は書を読んで大義をわきまえていた。乱が起こって郷人が皆山の洞穴に逃げ込んだとき、莊氏は男女の別がないことを理由に難色を示した。彦敬が「入らなければ殺されるぞ」と強いると、莊氏は「無礼なことをするくらいなら死ぬほうがよい。あなたは私が死ねないとお疑いか」と言い、ただちに刀を引き寄せて自害した。彦敬はその義に感じて生涯再婚しなかった。
馮氏
- 梁凝禧の妻。凝禧は随州の諸生。崇禎十年(1637年)、賊の警報を聞き、夫婦は舟を雇って難を避けた。西河まで来たとき賊の追撃が急になったので、岸に上がって魏家砦へ走った。
- 夫婦はともに死のうとしたが、馮氏は凝禧に別れを告げて「ともに死ぬのはむろん本望ですが、あなたにはまだ子がなく、老母も家におられます。どうか早くお逃げください。明朝この場所で私を捜してください」と言った。凝禧は逃げ、翌朝、果たして別れた場所で屍を見つけた。
唐烈の妻陳氏(劉氏を附す)
- 唐烈は孝感の諸生。崇禎十年(1637年)、陳氏は夫に従って山砦へ難を避けた。賊が突然到来し、夫と子はともに逃げ散り、陳氏は一人で山谷をさまよった。
- 砦の人が「唐氏のご老女ではないか。事は切迫している。早く入って身を守られよ」と言った。陳氏は夫と子が来たかと尋ね、まだと聞くと泣いて「私は寄る辺なき一人の女で、頼るあてもなくこちらへ参りました。皆さんが憐れんで生かしてくださっても、私は何の面目あってこの地に安んじられましょう。夫の生死も分からぬのに人を頼って生きるのは貞ではなく、夫の危難を見捨てるのは義ではない。貞も義も失っては人として立てません。私は行きます」と言い、ついに入らなかった。
- そこへ賊が来て連れ去ろうと迫ったが従わず、大いに罵って死んだ。
- また劉氏は懐寧の人、応天府丞の顔素の孫の嫁である。崇禎末、乱兵が江辺の市を焼き掠奪した。舅と夫は先に南京にいて、劉氏は一人で逃れ出たが、あわてて行き場がなかった。男女が入り混じって舟に乗り込むのを見て、劉氏は憤然として「私たち婦人は、付き添いの者がいなければ義として帳の外へ出ない。どうして人の群れに紛れ込めようか」と言い、そのまま川に投じて死んだ。
唐氏(顔氏を附す)
- 広済の潘龍躍の妻。崇禎十三年(1640年)、賊を避けて靈果山にいたところ、賊が来て龍躍の首に刃をあて、金を出せと迫った。唐氏は跪いて泣き、身代わりを願ったが許されず、娘の巽も跪いて泣き、父の身代わりを願ったが許されなかった。唐氏は夫が助からないと知って池に身を投げ、娘もこれに従った。賊は憐れんでその夫を釈放した。
- また顔氏は長楽の諸生黄應運の妻。城が陥ちて兵がその家に至り、應運の生母の詹氏を殺そうとした。顔氏は泣いて身代わりを願い出た。顔氏がまさに刃を受けようとしたとき、妾の曾氏が走り出て叫び「これは私の主母で子がありません。どうか私を殺して主母の命を全うしてください」と言った。兵はその義に感じて二人とも釈放した。
盧氏
- 穎州の王瀚の妻。家が貧しく、年中機を織って暮らした。崇禎十四年(1641年)、大飢饉があり、夫が疫病にかかった。盧氏は夫に「あなたが死ねば私も従います」と言った。
- 夫が死んだのは蒸し暑い盛りであった。盧氏は親戚に金を出し合って葬るよう求め、「私は死ぬつもりですが、猛暑で経帷子も棺もなくては、かえって親戚のご負担になる。秋の涼しくなるのを待ちます」と言った。聞いた者はこれを笑った。
- 秋になると新穀をすっかり売り払って粗末な布の衣を用意し、余りで酒と野菜を買って夫の墓に供えた。家に帰る途中で梨を数十個買い、姑に進め、あわせて義理の姉妹にも贈った。そして人に「私はもう死ねます」と言い、夜半に首をくくった。
于氏(蕭氏・楊氏を附す)
- 于氏は汝州の張鐸の妻。崇禎十四年(1641年)、賊が城を破ると、于氏は二人の侍女に「私たちは今日必ず死ぬ。それならばいっそ先に打って出て賊を討ち、賊を殺して倒れるほうが、義烈の鬼となれてよいではないか」と言った。
- そこで棒を手に進み出ると、先に入ってきた賊三人は不意を突かれてことごとく打ち倒された。賊たちは怒って寄ってたかって刺し、于氏らは皆死んだ。
- 蕭氏は萬安の賴南叔の妻。夫が早く死んで子はなく、娘一人が残された。賊が大いに起こると、家を築いて娘とともに住んだ。盗賊が突然来ると、娘を率いて鋭い刃を持って門を塞ぎ「かつて寧化の曾氏の婦人は砦を立てて賊を殺した。お前は私の刃が鋭くないと思うか。私を犯せば必ずお前を殺す」と罵った。賊は怒って火を放って焼き、二人とも焼死した。
- また楊氏は安定の挙人張國綋の妾。崇禎十六年(1643年)、賊の賀錦が城を激しく攻めたとき、國鋐は守備の者と議して、壮丁を城壁に登らせ、女子には石を運ばせることにした。楊氏が率先し、城中の女子がこれに従い、たちまち四方の城壁すべてに行き渡った。城が陥ちると楊氏は譙楼のそばで死んだ。事が収まって家人がその屍を得たとき、両手はなお石を抱えたまま離れなかった。
仲氏の女
- 湖州の人。父が漢陽で商いをするのに従っていた。崇禎年間に漢陽が陥ち、婦人たちに従って城を出ようとしたが、門を守る賊に止められた。しばらくして賊は大々的に暴行と掠奪を行い、女の美しさを見て捕らえた。
- 女は顔を切り裂き髪を振り乱して大いに罵った。賊は馬を用意して二人の賊に女を抱えて乗せさせたが、続けて落ちて額に傷を負っても、ついに行こうとしなかった。賊が刃を抜いて迫り「身体が行くのと首が行くのと、どちらがよい」と言うと、女は笑って「首が行くのがよい」と答え、そのまま殺された。
何氏
- 鄺抱義の妻。抱義は臨武の諸生。崇禎末、何氏は賊に捕らえられたが、顔を汚し髪を乱して疫病だと偽ったので、賊は恐れて放免した。賊が退いて家人は皆喜んだが、何氏は泣いて「日ごろ伯父叔父に挨拶するときですら顔を赤らめ汗をかいたものです。いま身を隠しきれず、面と向かって賊に相対し、腕を引かれ裾を引かれました。辱めは免れたとしても、どうして人として生きられましょう」と言い、ついに憤って食を絶ち死んだ。
趙氏
- 湯祖契の妻。祖契は睢州の諸生。趙氏は書を知り志節があった。崇禎十五年(1642年)、賊が太康を陥れて睢に迫ると、趙氏は家人に「州は兵の要衝で、守り通すのは容易でない。もし変が起これば死ぬだけです」と言った。
- 城が破られると、祖契に母を負って逃げるよう託し、自分は戸を閉ざして首をくくった。家人が解き放つと井戸に身を投げ、これもまた家人に阻まれた。趙氏は怒って「賊が来ても死なないのは節ではない。死ぬべき時に死なないのは義ではない」と言った。賊が来て刃を突きつけ、引き出そうとすると、声を張り上げて賊を叱り、そのまま殺された。
倪氏(王氏・韓氏を附す)
- 蕭來鳳の妻。來鳳は商城の貢生で、気概があり大節を備えていた。賊が官職を受けよと迫ったが屈せず死んだ。倪氏は首をくくって夫に従った。
- また宋愈亨は深澤の挙人で、賊が来ると井戸に投じて死んだ。妻の王氏は「夫がこうなった以上、私が背けようか」と言った。嫁の韓氏は生まれて六日の男児がいたが、死に従うことを願い、二人は向かい合って首をくくった。
邵氏(李氏を附す)
- 鄒県の張一桂の妻。妾の李氏とともに賊に遭い、賊が李氏を連れ去ろうと迫った。邵氏は「亡き夫は妾を私に託した。どうして賊の辱めを受けさせられようか」と罵り、賊は怒って殺した。
- 李氏は逃れられぬと知って偽り「私は簪と耳飾りを裏庭の井戸のそばに埋めてあります」と言った。賊が李氏に従って掘りに行くと、李氏は「主母は私のために死んだ。私が一人生きられようか」と言い、そのまま井戸に身を投げた。賊が井戸に降りて助け起こそうとすると、李氏は髪を振り乱し顔を傷つけて罵ってやまず、賊の衣を引っ張って井戸の底でともに死なせようとした。その叫び声は雷のようであった。賊は強いても無駄と知って刃にかけた。
江氏
- 宗允芳の妻、魯山の人。子の麟祥は進士であった。流賊の乱に、江氏は麟祥の妻の袁氏とともに孫娘・孫の嫁ら九人を率いて楼に登り、みな梁に首をくくらせ、その死んだのを見届けてから、自ら刀を引いて首を刎ねた。
楊氏
- 曺復彬の妻。復彬は江都の諸生。城が破られ、復彬は傷ついて地に倒れた。楊氏は荒れた家に隠れていた。長女の蒨文は十四歳で、母に早く決するよう促した。次女の蒨紅は十二歳で、衣を着替えてから死にたいと願ったが、楊氏は止めた。復彬はどうしても承知しなかったが、三つの輪を作って順に首をくくった。
張氏
- 梁以樟の妻、大興の人。以樟は商邱県を知った。崇禎十五年(1642年)、流賊が商邱を厳しく囲むと、張氏は楼の下に薪を積み、侍女たちを楼上に集めてみな首をくくらせた。子の燮に「お前の父は城を守っていて命がどうなるか分からない。宗祀はお前一人に頼るほかない」と言い、乳母に託して民家に隠れさせ、自らは首をくくって死んだ。家人が火を放ち、屍はみな焼き尽くされた。
石氏(王氏らを附す)
- 鄭完我の妻、甘州衞の人。完我は南陽府同知として赴任し、妻の王氏が石氏に仕えて家にいた。崇禎十六年(1643年)、賊が甘州を囲むと、石氏はあらかじめ家人に室内へ薪を積むよう命じておき、城が陥ちると王氏と孫娘一人を連れて火を放ち焼身した。
- 賊が退いてから灰燼の中から屍を出すと、姑と嫁は手を取り合って離さず、孫娘は三尺ほど離れたところで甕をかぶせられており、開いて見ると顔色は生けるがごとくであった。
郭氏
- 長治の宋體道の妻。崇禎十五年(1642年)、任國琦が乱を起こしたとき、同居の婦人たちは皆並んで跪いた。郭氏は呼ばれても出ず、崩れた垣に一人隠れた。賊が怒って跪かぬ理由を詰問すると、目を見開き声を張り上げて「跪いても死ぬ、跪かなくても死ぬ。もう生きるつもりはない」と言った。賊は数度刃を加え、死ぬまで罵り続けてやまなかった。
姚氏
- 桐城の人。湘潭知県の姚之騏の娘で、諸生呉道震の妻。十九歳で夫を亡くしたが、子の徳堅がまだ襁褓の中にあったので、死をこらえて育てた。二十六年たった崇禎末、流賊が桐城を掠奪すると、兄の孫の姚林が母を奉じて潛山へ避難するのに、姚氏も同行した。
- 賊が突然襲い、孫林は戦って死に、徳堅が姚氏を背負って逃げた。姚氏は「事は急だ。お前は書生の身で、どうして私を負って遠くまで行けよう。もし賊に追いつかれれば二人とも死ぬ。お前は母を全うできぬうえ、かえって父の祭祀まで絶やすのか」と言って叱り退けた。徳堅は泣いて忍びなかったが、姚氏はこれを突いて崖の下へ落とした。
- まもなく賊が来て「金を出せば助けてやる」と怒鳴った。姚氏は「私は遠く流離の身、どうして金があろうか」と言った。賊が衣を脱いで調べよと命じると、「どこの賊奴がこんな口をきくか」と罵った。賊は怒り、刃を交え加えて姚氏は死んだ。
朱氏(徐氏の女を附す)
- 無為の人、徐畢璋の妻。十七歳で璋に嫁いだ。璋には京という名の妹があり、十五歳でまだ許嫁がなかった。崇禎十五年(1642年)、流賊が城を破ったとき、朱氏は身重で、井戸のそばへ走って京に「私は身ごもっているうえ井戸の口が狭い。押して入れておくれ」と言った。京は「はい」と答え、押し入れ終えると、泣いて「父母はどこにおいでか。私は義姉に添って死にます」と叫び、一躍して飛び込んだ。
定州李氏
- 定州の人。広平教授の李元薦の娘で、同じ里の郝生に嫁いだ。崇禎十六年(1643年)、州が兵禍に遭い、郝生は親を奉じて山中に避難することにし、李氏と二人の子を実家に留めた。郝生が馬を引いて出立しようとすると、李氏は泣いて馬前に拝し、庭の井戸を指さして別れを告げ「もし変事があれば、この中で身を潔くします。衣の袂を目印とし、そばに白い糸が一筋通っているのが私です」と言った。
- 城が破られると、二人の子を他所に隠し、井戸に入って死んだ。兵が退いて郝生がその屍を引き上げると、顔色は生けるがごとくであった。
胡敬の妻姚氏
- 敬は孝感の貢生。流賊が孝感を陥れると、姚氏は舟に乗って南湖へ難を避けたが、すすり泣いてやまなかった。隣の舟の婦人が「賊は黄州に入ってからまだ人を殺していない。何を恐れるのか」と慰めた。姚氏は「私は殺されるのを恐れているのではない。殺されないことを恐れているのです」と答えた。賊が湖に入ろうとしていると聞き「賊が来てから死ぬのでは辱めを受ける」と嘆じ、二人の娘と下男を連れて水に投じて死んだ。
熊氏
- 武昌の李臣藎の妻。大名知県の熊正南の娘である。藎臣の父の李周華は贑州知府の官にあり、藎臣は父の任地へ従って行き、妻を家に残した。
- 崇禎十六年(1643年)、武昌が陥ち、熊氏は林の中に隠れていたが賊に見つかり、刀を奪って自ら首を刺した。賊が去った後、隣の老女に助けられて生き返った。
- 翌年、李自成が敗残の兵を率いて南へ逃れたとき、熊氏は単身で山谷に逃げ込んだ。胡姓の者が息子の嫁にしようとすると、熊氏は「私の首は斬れても、前の事を聞いていないのか」と言った。やがて藎臣が江西から帰る途中で賊に遭って殺されると、熊氏は三日慟哭して首をくくって死んだ。
邱氏(乾氏・黄氏を附す)
- 孝感の劉應景の妻。崇禎末、賊に捕らえられ、従えと迫られたが応じなかった。賊が「お前を斬るぞ」と言うと、邱氏は「死ねれば幸いだ」と答えた。賊は甕いっぱいに油を注いでその衣を浸し、仲間に「この女は強情だ。焼いてやろう」と言った。邱氏は嘲笑って「溺れ死ぬのと焼け死ぬのと刃で死ぬのと、何の違いがあるか。官兵が朝夕にも来る。そのときお前たちが私のように死ねると思うか」と言った。賊は怒って木に縛って焼いた。火が盛んになっても罵ってやまなかった。
- 同じ邑の乾氏は十七歳で高文煥に嫁いだ。文煥が子のないまま死ぬと、刀を抜いて自害しようとしたが、母と姑に救われた。三日たって蘇生し、以後は生臭を断ち、日に一度しか食事をしなかった。崇禎十六年(1643年)ごろ、賊が徳安を陥れて孝感に及ぼうとしたとき、従子の高騫が助けて山砦へ避けさせようとした。乾氏は「私は年老いた。どうして門を出て生き延びる道を求めよう。四十年前の志を行うまでだ」と言い、裏庭の池に身を投げて死んだ。
- 邑にはまた黄氏があり、張挺然の妻である。崇禎末、賊帥の白旺が徳安を陥れ、挺然に偽の掌旅の職を授けた。黄氏は泣いて止めたが聞き入れられなかった。賊が挺然に妻を人質として連れて来いと命じると、黄氏は十歳の子を連れて青山砦に隠れた。挺然は利益で誘い、兵で脅し、さらに親戚に呼びかけさせたが、いずれにも応じなかった。やがて砦を破り、自分の家を焼き払って黄氏を追い詰めたが、黄氏はいよいよ深く隠れ、ついに見つからなかった。挺然が子に金の簪を送って髪を結わせると、黄氏は怒って抜いて捨て「なぜ賊の物で頭を汚すのか」と言った。しばらくして賊が敗れ、挺然は襄陽へ逃げて死んだ。黄氏は耕し織って子を育て、郷人はその義を称えた。
洗馬畈の婦
- 蘄水の人、某氏。賊に捕らえられて従わず、賊はその腹を刺した。婦は片手で嬰児を抱き、片手で腹を押さえて、すぐには息絶えぬようにして夫を待った。夫が来ると子を渡し、手を放して息絶えた。
向氏
- 黄陂の人。十八歳で王旦士に嫁いだが、まもなく賊が黄陂を陥れ、捕らえられた。賊が刀を突きつけて迫ると、向氏は罵ってやまなかった。賊は人々を指して「あれがお前の父母でなければ舅姑か兄弟だろう。皆殺してからお前を殺す」と言った。向氏は「私は義として辱めを受けないだけだ。家の者に何の関わりがある」と言い、刃を奪って自ら首を刺した。賊は怒ってその場で切り刻んだ。
雷氏
- 劉長庚の妻。長庚は同州の諸生。賊が潼関を陥れて州に及ぼうとしたとき、長庚は家廟を拝し、妻と二人の子を呼んで「お前は年長で子もある。逃げるがよい」と言い、雷氏と生まれた娘を呼んで「お前は年若い。私に従って死ね」と言った。雷氏は田氏の妾であった。
- 長庚は酒を携えて楼に登り、妾に「お前は日ごろ飲まないが、今日はともに酔おう」と言った。妾は喜んで杯を満たした。長庚は飲みながら歌い、夜半に四方の壁に詩を書きつけ、刀を抜いて妾に示し「これで行けるか」と言った。妾は「どうか私を先に」と答え、刀を奪って自ら首を刺した。長庚は腰帯を解いて梁で首をくくった。娘は七歳で、刀を壁に横たえ、首をそこへ当てて死んだ。
商州の邵氏
- 商州の人。布政使の邵可立の娘で、侍郎の雒南の薛國用の子、匡倫の妻である。流賊が迫ろうとしたので実家の商州へ避けたが、商州も陥ちた。賊が炊事をせよと追い使うと、邵氏は「私は名家の娘で大臣の子に嫁いだ身。どうして狗賊のために飯を炊けようか」と罵った。賊は怒って足を斬ったが、罵りはいよいよ激しくなり、舌を切って切り刻んだ。
吕氏
- 闗陳諫の妻。陳諫は雲夢の諸生。一族に夫の關坤に殉じた安氏という婦人がいて、吕氏はその話が出るたびに感激してすすり泣き「婦人の義とはこうあるべきだ」と言った。
- 崇禎末、賊が隣郡を陥れると、吕氏は夫に「賊の勢いはいま盛んです。早く身の処し方を決めておくほうがよい」と言い、魚網を取って身体に固く結わえつけた。まもなく賊が来て衣を縫えと命じると、吕氏は鋏を投げつけて賊の顔を傷つけ「賊め、私の針仕事まで辱めるのか。手は斬られても衣は縫わぬ」と罵った。賊は怒って切り刻み、水に投げ込んだ。
曲周の邵氏
- 曲周の李純盛の妻。賊が来ると、姑や姉妹はみな洞穴に避難した。邵氏は賊に捕まり、洞のありかを問われたので、偽って案内した。賊が喜んで従っていくと、井戸のそばまで来て井戸に身を投げて死んだ。洞の中の五十余人はみな難を免れた。
王氏
- 宛平の劉應龍の妻。十六歳で應龍に嫁ぎ、家が貧しかったので針仕事で舅姑を養った。應龍父子が相次いで死ぬと、王氏は姑に仕え子を育てること二十年に及んだ。賊が都城を陥れると、姑を泣いて拝し「長孫を残して祖母にお仕えさせます。嫁の死ぬ覚悟はすでに決まっております」と言い、幼い子を連れて井戸に投じて死んだ。
呉之瑞の妻張氏
- 之瑞は宿松の諸生。福王のとき(1645年)城が破られ、軍士が張氏を汚そうとした。張氏は禍が夫と子に及ぶのを恐れ、偽って「これは我が家の塾師で、その子とともにここにいるだけです。私は彼を嫌っています。追い出してくださるなら、あとは仰せのままに」と言った。夫と二人の子が遠ざかってから、張氏は声を張り上げて唾を吐いて罵り、石に頭を打ちつけて死んだ。
韓鼎允の妻劉氏
- 鼎允は懐寧の諸生。福王のとき(1645年)城が破られたが、舅姑二つの柩が堂に安置されていたので、劉氏は守って離れなかった。賊が棺を割こうとすると、劉氏は棺を抱いて号哭し、賊はいったん手を引いた。
- 娘は十三歳であった。賊が火を放とうとしながら、しきりにその娘に目を向けるので、劉氏は偽って「先祖の柩さえ驚かせずにおいてくれるなら、娘は惜しくありません」と言った。賊は喜んで松明を投げ捨て、娘を連れて行こうとした。劉氏は娘を送り出しながら門外の池に目をやって示すと、娘はそのまま池に投じて死んだ。賊は怒って劉氏に刃を加え、劉氏は罵ってやまぬまま死んだ。
江都の程氏六烈
- 程煜節は江都の諸生である。その祖父の姉妹で林某に嫁いだ者、その父の姉妹で李某に嫁いだ者、その叔母である劉氏・鄒氏・胡氏、そして煜節の妹で許嫁のない程娥、この六人である。
- 城が囲まれると、程娥は劉氏とともに死ぬことを約し、それぞれ大帯を袖の中に入れておいた。城が破られると、程娥は髪を整え衣を着替え、再拝して母に別れを告げ、首をくくって死んだ。劉氏には生まれて一歳の娘があり、ひどく激しく泣いた。劉氏は乳を与え、さらに菓子を一器、娘のそばに置いてから死んだ。鄒氏と胡氏もともに死んだ。林に嫁いだ者は井戸に投じて死に、李に嫁いだ者は掠奪に遭ったが、兵を偽って井戸のそばまで来ると、大いに罵って井戸に投じて死んだ。当時これを「一門六烈」と称した。
江都の張氏(蘭氏らを附す)
- 江都の史著馨の妻。二十六歳で夫を亡くした。城が破られると、子を抱いて泣き「これまでは孤児を育てるのが難儀であったが、いまは節を全うするのが大事だ。お前は自分でうまく生きよ。私はもう面倒を見てやれない」と言い、そのまま水に赴いて死んだ。
- また蘭氏は孫道升の後妻。道升の前妻の娘は四蘭といい、蘭氏の生んだ娘は七といい、ともに古氏に嫁いだ。次に存という娘、巽という娘があり、いずれもまだ嫁いでいなかった。道升の弟の道乾・道新はともに先に死んでいた。道乾の妻は王氏、その子の天麟の妻は丁氏、道新の妻は古氏、その従弟の子の啓先の妻は董氏であった。
- 江都が囲まれると、婦女たちはめいめい刃一振りと縄一筋を手に携えていた。城が破られると、巽が先に首をくくって死んだ。蘭氏はこのとき五十四歳で、縄を引いて首をくくって死んだ。王氏と丁氏は家の裏の汪中に身を投げて死んだ。古氏もまた五十四歳で、節を守ること三十年、頭はすっかり白くなっていたが、井戸に投じて死んだ。その娘は呉生に嫁ぎ、生んだ娘の睿は八歳で、たまたま母の実家にいて、ともに井戸で死んだ。董氏は帯を門の枢に結んで首をくくって死んだ。存は足を病んでいたが、力を振り絞って井戸に投じて死んだ。董氏の妹には陳氏という祖母があり、たまたま寄寓して董氏と同じ所にいたが、これも首をくくって死んだ。四蘭と七は同じ寝台で首をくくって死んだ。
- 同じころ張廷鉉という者があり、その妻の薛氏は城が破られると首をくくって死んだ。廷鉉の妹の五は、兵に鞭打たれて従えと迫られ、大声で「殺すなら殺せ。なぜ鞭打つのか」と叫び、そのまま殺された。
張秉純の妻劉氏
- 秉純は和州の諸生。家はもとより貧しかったが、劉氏は水汲みや臼つきをして楽しげに暮らした。国が亡びると秉純は食を絶って死に、劉氏も一勺の水も口にせず、十六日を経て肌も骨も痩せ細った。子に命じて柩の前へ扶けさせ、祭り拝して痛哭したまま息絶えた。
陶氏
- 當塗の孫士毅の妻。節を守ること十年。南都が覆ると兵に掠われ、手を縛られ、二本の指の間に刃を挟まれて「私に従えば無事だ、さもなくば裂く」と言われた。陶氏は「義として身を辱めない。早く殺してくれるのが情けだ」と言った。兵は殺すに忍びず、少し指を傷つけると血が手いっぱいに流れた。「従うか」と問われ「従わぬ」と答えた。兵は怒ってその手を裂いて落とし、さらに胸をえぐって切り刻んで殺した。陶氏の母が駆けつけて守ろうとし、これも殺された。
田氏
- 儀真の李鍛冶屋の妻。容姿がたいそう美しかった。高傑の歩卒が江上を掠奪して田氏を捕らえ犯そうとしたが、田氏は死をもって拒んだ。馬上に抱えられて城南の小橋まで来ると、馬が渡れなかった。田氏は偽って兵の衣を引いて歩かせ、流れの急な中ほどを見はからって二人の兵を引きずり込み、ともに溺れて死んだ。
和州の王氏
- 和州の諸生張侶顔の妻。南都が守り切れず、劉良佐の部下の兵がほしいままに掠奪した。王氏は母とともに潮陽洞に隠れたが、兵の攻撃が急になった。王氏は子を母に託し「賊の勢いは激しい。私は若い妻の身、たとえ命を免れても、何の面目あって夫の家に帰れましょう。これは張家の血筋を継ぐ一本の糸です。よくお育てください」と言い、言い終わると身を躍らせて洞の外へ飛び出した。洞は数十仞の高さで、乱れた岩が刃のように尖っており、身は砕けて死んだ。
方氏
- 桐城の錢秉鐙の妻。賊を避けて南都に寓居した。凶作の年で粥もままならず、針仕事で米に換えて夫に食べさせ、自分は下女や下男とともに糠を食べていた。客が来れば茶を清め馳走を調え、その費用は簪や耳飾りを売ってまかなったので、秉鐙と交遊した者はその貧しさを知らなかった。
- 秉鐙は阮大鋮と同郷で仲が悪く、呉中へ避難した。方氏は子女を連れて追い、ようやく探し当てた。まもなく呉中も乱れた。方氏は逃れられぬと知り、上下の衣をひそかに縫い合わせ、娘を抱いて水に投じて死んだ。
陸氏(子の道𢎞の妻を附す)
- 嘉定の黄應爵の妻。若くして夫を亡くし、家は貧しく、紡ぎ織って自活すること三十年余り、ようやく没した。嘉定の城が破られると、子の道𢎞の妻(姓は伝わらない)は二人の娘を連れ、あわてて井戸に赴こうとした。長女が「もし母上が先に飛び込めば、必ず私たち二人を心残りに思うでしょう。私たちが先に入るのがよい」と言い、妹を引いて急いで入った。道𢎞の妻もこれに続き、みな溺れて死んだ。
于氏
- 丹陽の荆潹の妻。潹の父の大澈が乱兵に殺された。于氏は変を聞いて逃れられぬと知り、潹に「まず妾を殺してください」と言った。潹が忍びないでいると、于氏は怒って「あなたが自ら手を下さないのは、私を残して乱兵に汚させようというのですか」と言った。潹は慟哭してその通りにした。
項淑美(王氏を附す)
- 淳安の人。方希文に嫁いだ。希文は書物を集めるのを好んだ。杭州が守り切れず、大軍の方國安の敗兵が江辺数百里を掠奪して安んずる場所がなくなると、希文は書物を積んで山中に避難した。
- たまたま幼い子が疹を患い、希文が医者を迎えに出て、淑美は老女一人と侍女一人といた。その夕、乱兵が突然到来し、火を放ってほしいままに掠奪した。侍女が淑美の衣を引いてともに出ようとすると、淑美は色を正して叱り「出れば兵に殺され、出なければ火に死ぬ。同じ死ぬのなら、火に死ぬほうが辱めを受けない」と言った。老女はすでに先に去っていたが、火が盛んなのを見て引き返し「火が来た、どうして出ないのか」と呼んだ。淑美は答えず、急いで書物を取って左右に身の丈ほどに積み上げ、その中に坐った。まもなく火が迫り、書物はことごとく焼けて、そのまま死んだ。
- 賊が退いて希文が帰ると、燃え残りが渦を巻いて堆をなし、その骨を守るかのようであった。ひとしきり慟哭すると灰は散り、骨を収めて先祖の墓域に葬った。
- これより先、慈谿の王氏が同じ里の方姓の家に嫁いで一月余りたったとき、火事が起こってその家に燃え移った。夫はたまたま外出しており、王氏は小楼に固く坐って下りず、そのまま焼かれた。骸骨はことごとく灰となり、ただ心臓だけが残った。夫が帰ってこれを捧げ持って長く号泣すると、まもなく消え去った。
甬上四烈婦
- 銭塘の張氏は鄞県の挙人楊文瓚の妻。国変の後、文瓚と兄の文琦、友人の華夏・屠獻宸がともに罪に坐して死んだ。張氏は針を執ってその首をつなぎ合わせ、棺に納め終えると、そのまま礼装して絶命の詩を書きつけ、一族・親戚をあまねく拝し、脳子(竜脳)を呑んだが死ねず、佩び帯で首をくくって死んだ。
- 文琦の妻の沈氏もまた首をくくった。
- 華夏の後妻の陸氏は手ぬぐいを梁に結び、首をかけてくくろうとしたが、身が肥えて重く、手ぬぐいが切れて地に落ちた。折しも炎暑で汗が流れて衣を濡らしたので、坐って扇を揺らしながら、そばの者に「私はしばらく涼んでから」と言い、ふたたび手ぬぐいを取って結び直し、果てた。
- 役所は楊家・華家の三人の婦人が首をくくったと聞き、乞食の女四人を屠獻宸の家へ遣わして、その妻の朱氏を厳しく見張らせた。朱氏は隙が得られないので、表向きは笑って応対し、しきりに三人の婦人が無駄に自ら苦しんだとそしってみせた。数日たって見張りが緩んだので、「私はこれから湯を使う。お前たちはしばらく退がっていよ」と言った。乞食の女たちがこれに従うと、戸を閉めて自害した。当時これを甬上四烈婦と称した。
夏氏
- 黔国公沐天波の侍女である。沙定洲の乱に天波は出奔し、母の陳氏と妻の焦氏も外の家に避難した。焦氏は賊に迫られるのを恐れ、姑に「私たちはみな命婦の身、賊の手に陥ってよいものでしょうか」と言い、火を放って焼身して死んだ。
- 夏氏は実家に帰って難を免れた。のち天波が永昌から戻ると、夏氏はふたたび府に戻ったが、すでに髪を落として尼となっていた。天波はその義に感じて内政を助けさせた。天波が緬甸へ亡命するに及び、夏氏はついに首をくくった。
- そのとき城中は大いに乱れ、死者が道に満ち、屍は烏や犬に食われて血肉が散乱していたが、夏氏の屍は十余日棄て置かれても、ただ一つ犯される者がなかった。