篇首の序
- 韓愈が言うには、蹇の六二に「王臣蹇蹇」とあり、蠱の上九に「髙尚其事」とある。身を置く時が一つでない以上、踏み行う徳も同じではない。聖賢は世に用いられることを心とし、逸民は身を退いて隠れることを節とする。それは生まれつきの性分がそうさせるのではなく、各々がその志を行っているだけである。
- 明の太祖が興ると、儒士を礼遇し文学の士を招聘し、巖穴に人を捜し求め、隠者には席を譲って迎えた。のちには「君に用いられることを拒む者を罰する」規定を置いたが、それでも跡を晦まして自ら遠ざかる者は絶えなかった。
- 中葉に至ると太平が続き教化が浸み渡り、高い科第と顕れた爵位が天網のように英俊をすくい取り、民のうち秀でた者で国家の光を仰いで王廷に賓たらざる者は無くなった。すぐれた材と積んだ学を抱きながら泉石の間に身を枯らし、当世に望みを絶った者は、名を称えられることもない。
- こう見てくると、世の道の昇り降りの端緒は遭遇する時勢に係っている。まさにその時代がそうさせたのではないか。およそ徴聘の及んだ者、文学・行誼で称すべき者はすでに他の諸伝に散見するので、ここでは貞節で世に抜きん出た者数人を取って隠逸伝を作る。
篇首の立伝者一覧
- 張介福
- 倪瓚
- 徐舫
- 楊恒(陳洄)
- 楊引
- 吳海
- 劉閔
- 楊黼
- 孫一元
- 沈周
- 陳繼儒
張介福――張士誠の招きを退ける
- 張介福は字を子祺といい、懐慶から吳中に移り住んだ。若くして許衡に学んだ。両親を早く亡くしたので仕官の意を持たなかった。家は貧しく冬に袷の襦袢も揃えられなかったが、麻や綿入れを贈る者があっても受けず、わずかなやりとりも必ず礼に則った。
- 張士誠が吳に入ったとき、一人の兵がその家を侵したが、介福は端座したまま立とうともしない。刀で顔を斬られて地に倒れたが、意識を取り戻すとまた冠を取って被り、平然と座っていた。兵は怪しんで人ならぬものと思い、走り去った。
- 介福は先祖の墓が暴かれることを恐れて墓に行って廬した。士誠はそれを聞いて招こうとしたが応じない。その弟を遣って問わせると「乱を楽しむな、天の禍を貪るな、国家を忘れるな」と答えた。贈り物をされたが力を尽くして辞した。やがて病が重くなり、友に「私は志して古人に近づこうとしたが及ばなかった。ただ時勢に汚されなかったことだけは、まずまずというところか」と言い、そのまま卒した。
倪瓚――財を散じて江湖に浮かぶ
- 倪瓚は字を元鎮といい、無錫の人。家は資産豊かで、詩に巧みで書画を善くし、四方の名士が日々その門を訪れた。住まいに閣があり「清閟」といって、奥深く塵を絶ち、数千巻の蔵書はみな自ら手を入れて校定したものであった。古鼎・法書・名琴・珍しい画を左右に並べ、四季の草木がその外を取り巻き、高い木と長い竹が蔚然として深く秀でていた。そこで自ら雲林居士と号し、時に客と杯を交わし詩を詠んだ。
- 潔癖で、手を洗うことが絶えず、俗な客が訪ねて来ると帰ったあと必ずその場所を洗い清めた。絹地を持って画を求める者が引きも切らず、瓚も時に応じて描いた。
- 至正の初め、国内がまだ無事だったころ、突然その財を散じて親族知友に与えたので、人はみな怪しんだ。まもなく兵乱が起こり、富家はことごとく禍に遭ったが、瓚は小舟に菅笠で震澤・三泖の間を往来し、独り災いに罹らなかった。
- 張士誠はしきりに手元へ引き寄せようとしたが、漁舟に逃れて免れた。その弟の士信が幣を贈って画を乞うたが、瓚はまた斥けたので、士信は恨んだ。後日、士信が賓客と湖上に遊んだとき、葭や葦の間から異香が漂うのを嗅いで瓚だろうと疑い、漁舟を捜させると果たして見つかった。鞭打ってほとんど死に至らしめたが、瓚は終始一言も発しなかった。
- 吳が平定されたとき瓚はすでに老いていた。黄冠に野服で庶民に紛れて暮らし、洪武七年(1374年)に卒した。年七十四。
徐舫――薦挙を避けて滄江散人と号す
- 徐舫は字を方舟といい、桐廬の人。幼いころは軽俠で撃剣・走馬・蹴踘を好んだが、やがて悔いて科挙の業を修め、それも棄てて歌詩を学んだ。睦州はもともと詩人が多く、唐には方干・徐凝・李頻・施肩吾、宋には髙師魯・滕元秀があって睦州詩派と称された。舫はことごとくこれに倣った。やがて四方に遊んで名士と交わり、詩はいよいよ巧みになった。
- 行省参政の蘇天爵が薦挙しようとしたとき、舫は笑って「私は詩人にすぎない。官職の飾りで繋ぎ止められようか」と言い、そのまま避け去った。江のほとりに家を築き、日々雲烟の出没する景色の中で苦吟し、翛然として世間から隔たっているかのようであった。そこで自ら滄江散人と号した。
- 宋濂・劉基・葉琛・章溢が召しに応じて赴いたとき、舟が桐江を溯った。突然、黄冠に鹿裘の人が江のほとりに立ち、基を招いて笑い、しかも言葉でからかった。基は望み見てすぐ舟中に迎え入れ、琛と溢は競って戯れ、それぞれ自分の冠と服を取って着せかけ、黟川まで連れて行こうとしたが、その人が承知しないのでやめた。濂は初め見知らず基に問うと「これが徐方舟だ」と答えた。濂はそこで立って共に歓談し笑い、酒を酌み交わして別れた。
- 舫の詩には瑤林・滄江の二集がある。年六十八、病により家で卒した。
楊恒・陳洄――白鹿山と竹溪に隠れる
- 楊恒は字を本初といい、諸暨の人。母方の一族の方氏が義塾を建てて四方の遊学の士を寄宿させていた。恒は幼くして通って諸経を受け、たちどころにその要旨をつかんだ。文は峻厳簡潔で、郡や邑の間に名が知られた。浦江の鄭氏が招いて師とし、十年を経て退いて白鹿山に住み、椶の冠を戴き羊の裘を着て、経書を携えて烟雨の中で耕し、嘯き歌って自ら楽しんだ。そこで自ら白鹿生と号した。
- 太祖が浙東を下し、欒鳳に州の政を執らせた。鳳は州学の師となるよう請うたが、恒は固く辞して起たない。鳳はそこで州中の子弟に命じて家まで道を問いに行かせ、政に欠けたところがあるとそのつど書を贈って諮問した。のち唐鐸が紹興を知り、招いて出仕させようとしたが、これもまた固辞した。宋濂が学士であったとき国子の師に薦めようとしたが、州郡の招きすら受けないと聞いてやめた。
- 恒は性が醇篤で、人と語れば肺肝を見せるように率直で、事が少しでも名義に背けばそのつど厳しい言葉で指弾した。家に一石の蓄えも無かったが、財に臨んでは甚だ潔癖であった。郷人は手本と仰いだ。
- 当時、陳洄という者がいた。義烏の人で、幼くして経を修め、長じて諸子百家の言に通じた。初めは功名で世に顕れようとしたが、やがて隠居し、青霞の冠を戴き白鹿の裘を着て、二度と俗事に接しなかった。住まいは大溪に近く長い竹が多かったので、自ら竹溪逸民と号した。常に小舟に乗って短い簫を吹き、吹き終わると舷を叩いて歌い、悠然と自適した。宋濂は恒と洄の二人ともに伝を作った。
楊引――駙馬の慢りを見て去る
- 楊引は吉水の人。学を好んで詩文をよくし、宋濂・陶安に称された。駙馬都尉の陸賢が従って学び、入朝したときの立ち居振舞いが端正雅正であった。太祖が喜んで誰の教えかと問い、賢が引と答えると、その場で召見して食を賜った。後日、賢が普段着のまま会いに来たので、引は太息して「これは私を軽んじる心だ。長くここに居るべきではない」と言った。あらためて纂修の役で徴されたが、これにも就かなかった。
- 学ぶ者を教えるには、まず身の処し方を、次に文芸を説いた。かつて論語の郷党篇を掲げて人に示し「私の教えの中に自ら養生の術がある。偃仰吐納などする必要があろうか」と言った。そこで飲食を節し、動くも休むも時に従い、老いるまで視力も聴力も衰えなかった。
- 歿したのち、安福の劉球はその学が道の根源を探り、その文が後世の範となり、去就出処において卓然として陶潜・徐穉の風があったと称えた。
吳海――異端の書を禁ずべしと説く
- 吳海は字を朝宗といい、閩県の人。元末に学問と行いで称された。四方に盗賊が起こったころ、仕官に望みを絶った。洪武の初め、守臣が朝廷に薦めようとしたが力を尽くして辞して免れ、やがて徴されて史局に赴くよう命じられたが、これもまた力辞した。
- かつてこう説いた。楊朱・墨翟と釈氏・老氏は聖道の賊、管仲・商鞅・申不害・韓非は治道の賊、稗官野乗は正史の賊、飾り立てた艶やかな文辞は文章の賊である。上に立つ者は経に通じた大臣に命じて諸儒を集めさせ、書物の品目を定めて天下に頒ち、民間はこれ以外を蔵することを許さず、書肆もこれ以外を売ることを許さぬようにすべきだ。そうすれば学ぶ者は生い立つ間に異端の説に触れず、徳を養い才を育てるうえで小さからぬ助けとなる、と。そこで一編の書を著して「書禍」と名づけ、この趣旨を明らかにした。
- 永福の王翰と親しかった。翰はかつて元に仕えていたので、海はしばしば死を勧め、翰は果たして自ら命を絶った。海はその子の偁を教え養って一人前に立たせた。
- 平生、心を虚しくして善を楽しみ、過ちを指摘する者があれば欣然としてその場で改めたので、書斎に「聞過」と額を掲げた。文は厳整典雅で一つに理へ帰し、後学はみな宗と仰いだ。『聞過齋集』が世に行われている。
劉閔――布衣のまま東宮の輔導に薦められる
- 劉閔は字を子賢といい、莆田の人。生まれつき純朴誠実で、早く父を失い、科挙に望みを絶ち、古の聖賢が身を修め家を訓えた法を求めて、そのとおりに実行した。祖母と父の喪がまだ果たされていなかったので、酒肉を断ち妻室を遠ざけ、隣の邑で門人を教え、朔日と望日には帰って殯所で号哭した。三年そうし続けた。妻が母に疎まれると離縁し、独り身で母に仕えた。母が病めば衣を解かず、母が怒れば衣を整えて一晩中榻の前に跪いた。祭祀と供物はすべて古礼に従い、郷人で敬い重んじない者は無かった。
- 副使の羅璟は社学を立て養親堂を構えて閔を師に招き、提学僉事の周孟中は俸を割いて養いを助け、知府の王弼は廟社を祭るたび必ず招いて斎居させ「この人が座にあると私心が自ずと消える」と言った。田二十余畝を置いて生活を支えさせ、閔もいずれも受けて辞退しなかったが、母が歿するとただちにその田を官に返し、廬墓三年を勤めた。弟の妻が財産の分割を求めたとき、閔は戸を閉ざして自ら我が身を打った。婦は感じ悟ってやめた。
- 𢎞治年間、僉都御史の林俊が上奏した。「伏して見ますに、皇太子は幼学の年を過ぎておられるのに宮中で過ごされ、外の師傅に接することが稀で、あらかじめ教える道が備わっていないように存じます。今、講読侍従の諸臣はすでに選び用いられておりますが、百司衆職や山林の隠逸にも人が無いわけではありません。臣の知るところでは、礼部侍郎の謝鐸、太僕少卿の儲瓘、光禄少卿の楊㢘が講員に足ります。資序は合わぬが徳行の取るべき者二人は、致仕副使の曹時中と布衣の劉閔です。閔は臣と同県の人で、恭慎醇粹、孝行は高古、日に二椀の粥も無く身に満足な衣も無いのに安らかに構えております。監司の劉大夏・徐貫らも常に敬礼しています。臣は、礼を尽くして時中を宮僚に招き、閔を布衣のまま入侍させれば、必ず育み薫陶して睿智の資質を助けられると存じます」。時に用いられなかった。
- その後、巡按御史の宗彞・饒瑭が詔の例に拠って閔を経明行修として挙げようとしたが、閔は力めて辞した。知府の陳效がその志を遂げさせ、学職をもって栄えとした。正徳元年(1506年)、遥かに儒学訓導を授けられた。
楊黼――桂樓に隠れて孝経に注する
- 楊黼は雲南太和の人。学を好み、五経をいずれも百遍読んだ。篆籕に巧みで、仏典を好んだ。科挙に応じるよう勧める者があると、笑って「性命を修めずに外物を修めるのか」と言った。庭前に大きな桂の樹があり、板を樹上に縛りつけて「桂樓」と題し、その中で寝起きして詩を歌い自得した。自ら数畝を耕して美味いものを供え、ただ親が喜ぶことだけを求め、他は顧みなかった。
- 孝経に数万言の注をつけ、多くの書で証を立て、性命の字はみな小篆で書いた。用いる硯が乾いて樓を下りて水を取ろうとすると、硯の池が忽ち満ちた。以後それが常となり、時の人はみな異とした。
- 父母が歿すると人に傭われて葬儀の費を作り、それが終わると雞足山に入って羅漢壁の石窟山に十余年棲んだ。寿は八十に至り、子孫が迎えて帰らせた。ある日、沐浴して子孫に拝を命じ「明日、私は行く」と言い、果たして卒した。
孫一元――出自を語らず苕溪五隠に列する
- 孫一元は字を太初といい、どこの人か分からない。出身の邑里を問うと「私は秦の人だ」と言うだけであった。かつて太白山の頂に棲んだので太白山人と号した。一説には安化王の一族で、王が謀反に坐して誅されたため姓名を変えて難を避けたのだという。
- 一元は資質が人並みを越え、詩をよくし、風貌は秀でて明朗、その行跡は奇矯であった。烏の頭巾に白い帢をかぶり、鉄の笛と鶴の瓢を携えて中原を遍く遊び、東は齊・魯を越え、南は江・淮を渡り、荊を経て吳越に至った。行く先々で詩を賦し、神仙を談じ、当世の事を論じて、しばしば座中の人を傾倒させた。
- 鉛山の費宏が宰相を罷めて杭州の南屏山に訪ねたところ、ちょうど昼寝の最中で、寝所まで入って語りかけ、門まで送られたが、まったく応答しなかった。宏は出てから人に「私は一生こういう人物を見たことがない」と語った。
- 当時、劉麟は知府を罷めて帰り、龍霓は僉事を辞して政を退き、ともに湖州に客居していた。二人はこの郡の人でもと御史の陸崑と親しく、また長興の吳珫は隠居して客を好んだので、三人ともその家に身を寄せた。珫がそこで一元を招いて仲間に加え、「苕溪五隠」と称した。
- 一元は溪のほとりに田を買ってそこで老いようとした。挙人の施侃は一元と親しく、妻の妹の張氏を娶らせた。一女を生んで卒し、年はわずか三十七であった。珫らが道場山に葬った。
沈周――遯の卦を得て隠遁を決める
- 沈周は字を啟南といい、長洲の人。祖父の澄は永樂年間に人材として挙げられたが就かず、住まいを西荘といい、日々酒を用意して賓客をもてなしたので、人は顧仲瑛に擬えた。伯父の貞吉と父の恒吉はともに世に抗して隠れ、有竹居を構えて兄弟でその中で読書した。詩に巧みで画を善くし、召使いまで文墨を解した。
- 邑人の陳孟賢は陳五経繼の子である。周は若くして従学して手ほどきを受けた。十一歳で南都に遊び、百韻の詩を作って巡撫侍郎の崔恭に上り、面前で鳳凰臺の賦を試されると筆を執ってたちどころに書き上げ、恭は大いに驚嘆した。
- 長じて読まぬ書は無く、文は左氏に摹し、詩は白居易・蘇軾・陸游に擬し、字は黄庭堅に倣って、いずれも世に愛重された。とりわけ画に巧みで、評する者は明代第一と言った。
- 郡守が周を賢良に薦めようとしたとき、周が易を筮って遯の九五を得たので、隠遁を決意した。住まいには水と竹の亭館の勝景があり、図書や鼎彝が満ち満ちて並び、四方の名士の往来が絶える日も無く、風流と文彩が一時を照らした。
- 親に孝を尽くし、父が歿して仕えるよう勧める者があると「母上が私を頼りに生きておられるのを知らないのか。どうして膝下を離れられよう」と答えた。常に城市に入るのを厭い、城外に仮の庵を置いて用があればそこへ出向いた。晩年は跡を隠すのがなお足りぬかと恐れるほどであった。先後の巡撫の王恕・彭禮はいずれも礼敬して幕下に留めようとしたが、ともに母が老いていることを理由に辞した。
- ある郡守が画工を徴して屋の壁に絵を描かせたとき、周を憎む里人がその姓名を差し出したので召し出された。有力者に会って免れるよう勧める者があったが、周は「使役に赴くのは義だ。有力者に取り入るほうがかえって辱ではないか」と言い、結局役を務めて帰った。
- やがてその守が入覲したとき、銓曹が「沈先生はお変わりないか」と問うた。守は答えようがなく、いい加減に「お変わりありません」と応じた。内閣の李東陽に会うと「沈先生からの書状はあるか」と言われ、守はいよいよ驚き、また適当に「ございますが、まだ届いておりません」と応じた。守は退出して慌てて侍郎の吳寛に謁し、沈先生とは何者かと問うた。寛がつぶさにその人となりを語り、守が左右に尋ねてみると、まさにあの壁を描かせた男であった。帰ってから周の家に謁して再拝して詫び、飯を求めて食べて去った。
- 周は母のゆえに生涯遠くへ遊ばなかった。母は九十九歳で終わり、周もすでに八十であった。さらに三年して、正徳四年(1509年)に卒した。
陳繼儒――二十九で儒服を焼き棄てる
- 陳繼儒は字を仲醇といい、松江華亭の人。幼くして穎異、文章をよくし、同郡の徐階がとくに器重した。長じて諸生となり、董其昌と名を並べた。太倉の王錫爵が招いて子の衡とともに支硎山で読書させ、王世貞もまた繼儒を雅重した。三吳の名だたる士は争って師友としようとした。
- 繼儒は通達明晰で気概が高く、年わずか二十九のとき儒者の衣冠を取って焼き棄て、崑山の南に隠居し、二陸を祀る廟を構え、数間の草堂で香を焚いて静座し、心は豁然としていた。当時、錫山の顧憲成が東林で講学して招いたが、謝して行かなかった。親が亡くなると神山の麓に葬り、そのまま東余山に室を築き、門を閉ざして著述し、そこで生涯を終える志を抱いた。
- 詩に巧みで文を善くし、短い書翰も小詞もみな風致を極め、あわせて絵事もよくした。また博識強記で、経史・諸子・術技・稗官から仏老の家の言に至るまで比べ検めないものは無く、あるいは瑣末な言や珍しい事を抜き出して順序を整えて書物とし、遠近が競って買い写した。詩文を求める者の絶える日は無かった。性として士類を引き立てることを好み、履が戸外に常に満ち、一言の応答も意にかなわぬものは無かった。
- 暇があれば道士や老僧と峯や泖の勝景を窮め、吟じ嘯いて帰るのを忘れ、足跡が城市に入ることは稀であった。其昌は来仲樓を築いて招き寄せた。黄道周は疏で「志尚が高雅で博学多通なことは繼儒に及ばない」と称した。その推重ぶりはこのようであった。
- 侍郎の沈演および御史・給事中ら朝廷の顕官が先後に論薦し、繼儒は道が高く年歯も長けているので吳與弼の故事にならって聘すべきだと言った。しばしば詔を奉じて徴用されたが、みな病を理由に辞した。卒したとき年八十二。自ら遺言を作り、細かなところまで残らず備えていた。