明史卷二百七十八 列傳第一百六十六 詹兆恒

出自と南京御史時代の上奏

  • 詹兆恒は字を月如といい、廣信永豐の人。父の詹士龍は順天府尹である。兆恒は崇禎四年(1631年)の進士となり、甄寧知縣から召されて南京御史を授かった。私鋳の弊害を疏で陳べ、帝は担当官に調査を命じた。
  • 崇禎十四年(1641年)夏、燕・齊の二千里の間は賊が縦横して旅人の往来が絶え、各地の軍餉の金で途中に滞っているものが数百万に達している、急ぎ京軍を発して討ち滅ぼしていただきたい、と述べた。また、楚・豫の地は青い燐火と白骨ばかりで、新たな徴収も旧来の未納も取り立てようがない、多方面から免除と貸与を行っていただきたい、と述べた。帝はいずれも採納した。
  • 翌年、賊が含山を陥れ無為を犯すと、總督の髙斗光を弾劾した。またその翌年秋、賊が廬州・臨江を陥れ渡河しようとしたので、内外を合わせた防衛の策を陳べ、重ねて斗光を弾劾し、史可法を代わりに任じるよう請うた。斗光はついに譴責を受けた。
  • 当時、江北の民は乱を避けてみな南京に逃げ込んだ。兆恒は賊の間諜が紛れ込むことを慮り、これを城外に置いて保伍を厳しくし非常を察したので、悪人は身を隠す所がなくなった。

阮大鋮の起用への反対と殉節

  • 福王が即位すると兆恒は大理寺丞に抜擢された。馬士英が阮大鋮を推薦し、冠帯を着けて謁見させようとした。兆恒は、先皇が自ら定められた逆案は、多くの凶悪を刈り取った第一の美政である、いま大仇はまだ報いられていないのに、突然大鋮を召して冠帯を返すのは、上は先皇の霊を傷つけ、下は忠義の気を挫くものではないか、と述べた。
  • 疏が奏せられると、逆案を取り寄せて閲覧に供するよう命が下った。兆恒はただちに進呈したが、士英もまたその日に『三朝要典』を進呈し、大鋮はついに起用された。
  • その秋、命を奉じて祭告し、ほどなく本寺の少卿に進んだ。使命を果たすとそのまま郷里に帰った。
  • 唐王が即位すると兆恒を兵部左侍郎に拝し、黄道周を助けて廣信を協同して守らせた。廣信が破れると懐玉山に走り、数千人を集めて自ら保った。ほどなく衢州の開化縣を進んで攻めたが、兵は敗れ陣没した。

胡夢泰(詹兆恒の附伝)

  • 胡夢泰は字を友蠡といい、廣信鉛山の人。崇禎十年(1637年)の進士で、奉化知縣に任じられた。
  • 邑の人である戴澳は順天府丞であったが、勢いを恃んで賦税を納めなかった。夢泰がその子を捕らえて裁いたので、その子は京師に走って澳に訴え、夢泰を弾劾して罷めさせよと言った。澳は、州の民が長吏を弾劾するのは筋が通らぬと思ったが、その子に迫られ、ひとまず一通の疏を出して、天下が治まらないのは守令が貪汚だからである、とほのめかして夢泰を非難した。ところが具体的に指摘せよとの旨が下ると、その子はすぐに夢泰を告発しようとしたが、澳は夢泰には弾劾すべき点がないと思い、嘉興推官の文德翼と平遥知縣の王凝命を挙げて事実を埋めた。給事中の沈迅が二人のために冤を訴え、澳の隠していた事情を暴いたので、澳は詔獄に下されて除名され、夢泰の名声はいよいよ高まった。
  • 崇禎十六年(1643年)夏、吏部が朝臣を集めて天下の賢能な地方官十人を挙げたとき、夢泰もその中に入った。都に召し出されたが、帝は畿輔の州県が荒廃しているので廉潔有能な者に治めさせようと考え、召し出された者をみな補任に出した。夢泰は唐縣を得た。
  • 京師が陥落すると南に帰った。唐王のとき兵科給事中を授かり、使命を奉じて郷里に帰った。
  • 順治三年(1646年)、大兵が城下に迫ると、夢泰は家財を傾けて士を募り、巡撫の周定仍らとともに城を守った。数か月囲まれて城が破れると、夫婦ともに縊れて死んだ。

周定仍・萬文英・胡竒偉・胡甲桂・畢貞士(詹兆恒の附伝)

  • 定仍は南昌の人。崇禎十六年(1643年)の進士。萬文英・胡竒偉・胡甲桂とともに兵を挙げて廣信を保った。唐王はそのまま右僉都御史としてその地を巡撫させた。城が破れて死んだ。
  • 文英もまた南昌の人。はじめ鳳陽推官となったが、子の元亨が身代わりに死んだため脱して帰ることができた。福王のとき禮部主事に起用されたが、喪に遭って赴かなかった。唐王は兵部員外郎とし、黄道周の諸軍を監して協力して廣信を守らせた。諸軍が鉛山で敗れると、文英は一家を挙げて水に赴いて死んだ。
  • 竒偉は進賢の人。兵部主事を歴任し、唐王は湖東副使として廣信を守らせた。兵が敗れて死んだ。
  • 甲桂は字を秋卿といい、崑山の人。崇禎十二年(1639年)に郷試の副榜から貢生として國學に入り、南昌通判に任じられ、永州同知に移ったが、道が塞がって廣信に改められた。着いてみると南昌・袁州・吉安はすべて失われ、廣信にはわずか疲れた兵千人しかおらず、士民の多くは逃げ散っていた。おりしも黄道周が兵を募って至り、ともに城を守ることを議した。ほどなく道周が敗れて没し、勢いはいよいよ孤立した。甲桂は死を尽くして去らず、城が破れて捕らえられ、降伏を諭されたが従わず、別室に幽閉されて自ら縊れて死んだ。
  • 畢貞士という者は貴溪の人。郷試に合格し、ともに廣信を守った。城が破れて水に赴いたが家人に救い出された。五里橋まで来て祖先の墓を望んで拝し、橋の柱に頭を打ちつけて死んだ。