用将の失を論ずる
- 字は雨殷、餘姚の人。崇禎四年(1631年)進士、同安知縣に授けられ、戸科給事中に抜擢された。
- 疏して用将の失を陳べた。偏裨から副將まで歴任して功があってこそ節鉞を授けるべきなのに、今は足がまだ戦陣を履まぬうちに幕府がすでに首功を上げ、胥吏が精鋭を提げ、紈袴の子が兵符を握っている。これでどうして敵愾心を奮い立たせられよう。大將の選は、副將で功のある者を召し、時に面対を賜って才ある者を択んで用いるべきである。廷臣の推挙に誤りがあれば、文吏の保挙連坐の法を用いるべきだ。帝はその言を納れた。
- 続けて言った。楊嗣昌がまだ罪せられず、盧象昇がまだ褒められていないのは、忠義の気を著しく挫くものである。嗣昌のために練餉を画策して中原の万姓を駆り立てて盗にしたのは原任給事中の沈迅であり、嗣昌のために策を運らし三千人で襄陽に駐まりながら城が破れると走ったのは監紀主事の俞爵であり、嗣昌に引き立てられ襄藩の陥落に遭って陳新甲に重く賄って鄖撫の袁繼咸に禍を転嫁したのは今任を解かれて交代を待つ宋一鶴である。いずれも国を誤った臣であり罪すべきだ。報ぜられなかった。
- 京師が戒厳したとき、汝霖は東直門を分守した。召対で言った。「将は戦わず、敵が南北に往き返るのを謹んでその後に随い、下僕が貴人に対するように弩を負って前駆するが、塵を望むばかりで及ばない。何をもって将と名づけ、何をもって督師と名づけるのか」。帝は深く然りとした。
- また、有司で察処された者を辺才として濫りに挙げてはならず、監司で察処された者をにわかに巡撫に飛び越えさせてはならない、そうすれば封疆の重任が不良の徒の足がかりにされずに済むと言った。
- また言った。「戒厳以来、臣の疏はおよそ二十上ったが、援剿の機宜は百に一つも行われず、推し量った敵情は不幸にも言い当ててしまった。このごろ外県の難民が紛々と都に入るが、みな兵を避けると言い、敵を避けるとは言わない。霸州が破れたときは敵はまださほど殺掠しなかったが、官軍が続いて至って初めて生き残る者が無くなった。朝廷は年に数百万の金銭を費やして兵を養っているが、我が赤子を毒しようというのか」。帝はその中に「飲泣地下」の語があるのを憎み、福建按察司照磨に謫した。
福王朝での上疏
- 福王が立って召し還した。上疏して言った。「臣は丹陽から来て、浙兵が辺兵に撃たれ民家十余里が焼かれたことを知った。辺帥は『四鎮は殺掠によって封爵を得た。我らが何を憚って同じことをせぬのか』と言っていた。臣は四鎮が必ず毅然と北征してこの恥を雪ぐと思っていたのに、今なお淮揚に恋々としているのはなぜか。まして一鎮の餉は多くて六十万に至り、勢いとして必ず供しきれない。仮に古の藩鎮の法に倣うにしても、大河以北に屯を開き府を設けるべきなのに、奥深い内地に集めておいて遽かに藩籬扱いするのはどうしたことか」。
- ほどなく言った。「目前の大勢をひそかに観るに、恢復ができないのは言うまでもなく、偏安すら必ずしも保てない。日々兵餉と戦守を討究すべきなのに、専ら恩怨と異同にかかずらい、勲臣・方鎮は舌鋒筆鍔を逞しくしている。近ごろは匿名の帖で旧臣を逐い、疎遠な宗人が宰輔を弾劾し、中外は紛々として厰衛が復活すると言う。そもそも厰衛は威を樹て利を貪るもので、小民は鶏犬に至るまで寧日が無い。先帝はただこの一節だけは怨みを積むことを免れなかった。前事は遠からず、後事の師である。かつ先帝は宗藩を篤く念じたが、寇を聞いて先に逃げた者ばかりで社稷に死んだ者は誰か。先帝は武臣を重んじたが叛降と跋扈が肩と背を接して続いた。先帝は勲臣に委任したが京営の精鋭はいたずらに寇の名簿に載った。先帝は内臣を頼りにしたが門を開いて敵を引き入れたと衆口が喧伝した。先帝は文臣を次第によらず抜擢したが、辺才の督撫で誰が防ぎ守ったか。宰執に超遷された者が賊の庭に並び拝した。前日に失った理由を知れば、今日を得る理由も知れる。今やらずしていつを待つのか」。疏を奏して俸を停められた。
- まもなく吏科右給事中に補せられた。初め馬士英が阮大鋮を薦めたとき汝霖は争って不可とし、大鋮が兵部を佐けるに及んで、また「大鋮は兵を知るというので用いるなら有用の地に置くべきで、朝廷の中枢に置くべきでない」と言ったが、聴かれなかった。
- 月を越えて奉使の陛辞のとき言った。「朝廷の議論は日々新しく、宮府の腹の探り合いは日々熟している。少宰・枢貳に至るまで廷推をことごとく廃し、四品の監司がついに詹尹に晋んだ。抜け道が次々に出て讒言が繁く興り、一人がまだ用いられぬうちに満朝を党人と目し、一官が外に遷されればすぐ当事者を謗る。殺すことをせず、国の喪を聞かぬことにし、私図を逞しくして志を得て、黄金白銀が庭に満ち青紫の綬が路を塞ぎ、六朝の佳麗が今の世にふたたび現れている。他日どこに車を停めるのかを思わないのか」。報ぜられなかった。
- まもなく南京が破れ、士英が杭州に逃げ込んだ。汝霖はその主君を棄てたことを責め、士英は応える言葉が無かった。
魯王への仕官と暗殺
- 杭州も破れ、孫嘉績とともに兵を起こした。魯王監國が右僉都御史に抜擢し、督師して江を防いだが、戦いはたびたび敗れ、海寧に入って兵一万を募り、兵部右侍郎に退いた。
- 唐王が閩中で立ち、劉中藻を遣わして詔を頒たせたが、汝霖は檄を出して厳しくこれを拒んだ。
- 順治三年(1646年)兵部尚書に進み、魯王に従って海に泛かんだ。翌年、本官のまま東閣大學士を兼ねた。さらにその翌年の春、鄭彩が汝霖を恨んで兵を遣わし密かに殺害し、その幼い子ともども海中に投じた。