明史卷二百七十六 列傳第一百六十四 朱繼祚

要典の纂修と興化での死

  • 莆田の人。萬厯四十七年(1619年)進士、庶吉士に改まり編修に授けられる。天啓中に三朝要典の編修に与り、まもなく罷めて去った。
  • 崇禎の初めに復官し、累進して禮部右侍郎、実録總裁に充てられた。給事中の葛樞が「繼祚はかつて要典を纂修して清議に罪を得た。国史の總裁とすべきでない」と言ったが、聴かれなかった。繼祚はまもなく病と称して去った。南京禮部尚書に起こされたが、また人の言によって罷め去った。
  • 福王の時に故官に起こされたが、赴かぬうちに南都が失われた。唐王が東閣大學士に召し、汀州まで従った。王が擒えられると、繼祚は郷里に奔り還った。
  • 魯王が監國すると、繼祚は兵を挙げて応じ、興化城を攻め取った。まもなく大清の兵が至って城はふたたび破れ、繼祚および參政の湯芬・給事中の林眉・知縣の都廷諫がともに死んだ。

湯芬・林嵋・都廷諫(附伝)

  • 湯芬は字は方侯、嘉善の人。崇禎十六年(1643年)進士。福王の時に史可法の監紀推官となった。唐王が御史とし、まもなく監司として興泉道を分守した。城が破れると緋衣のまま堂上に坐して殺された。
  • 林嵋は字は小眉、繼祚と同じ邑の人。進士から呉江知縣となった。蘇州が失われて帰り、唐王に仕え、ここに至って自ら縊れて死んだ。
  • 都廷諫は杭州の人、莆田知縣であった。

魯王の一時的な回復と諸県の陥落

  • 王は監國二年正月に長垣に至り、翌年正月までに建寧・卲武・興化の三府、福寧の一州、漳浦・海澄・連江・長樂など二十七縣を続けて克ち、軍の声威はかなり振るった。ところがここに至って得たものをまた失った。
  • 海澄が失われて知縣の洪有文が死に、永福が失われて邑人の給事中の鄢正畿・御史の林逢經がともに水に投じて死に、長樂が失われて邑人の御史の王恩及が毒を服して死に、妻の李氏も同じく死に、建寧が失われて守將の王祈が市街戦をして勝てず、自ら焼け死んだ。