明史卷二百七十五 列傳第一百六十三 祁彪佳

祁彪佳は字を𢎞吉といい、浙江山陰の人。祖父の代から清廉の吏で、生まれつき英邁、弱冠で天啟二年の進士に及第し興化府推官となり、明晰な裁断で吏民を服させた。崇禎四年に御史へ起用され、賞罰の乱れ、大臣・小臣・武臣・内臣それぞれについての四つの憂い、天下の全局を籌る二大要と四大勢、里甲・虚糧など民間の十四大苦を次々に論じた。蘇松の按察に出て積年の悪吏四人を杖殺し、首輔周延儒の祖墓を暴いた宜興の民を法どおり処断して延儒に恨まれ、考課で俸を降されて帰郷し、家に居ること九年に及んだ。弘光朝では発喪を終えてから登極の儀を議すよう請い、髙傑の兵に乱れた江上を宣諭して鎮め、江南巡撫として賊に従った郷官の罪と焼き掠めた徒党の処罰をあわせて議した。厰衛の執事官設置の詔には詔獄・緝事・廷杖の三弊を論じ、緝事の官は設けられなかった。京口では四将の兵と浙兵の衝突による兵乱を収めて四将を弾劾し、瓜洲の髙傑には大風を衝いて数人の兵だけで会い、忠義を勧めて心服させた。群小に潞王擁立を図ったと詆られて病と称して去り、南都・杭州の失陥を受けて絶食し、池中に端坐して死んだ。

年表(10件)
  • 天啟二年1622年弱冠で進士に及第し興化府推官を授かる
  • 崇禎四年1631年御史に起用され貴州の叙功の遅滞と山東の失城の不問を論ずる
  • 崇禎四年1631年大臣・小臣・武臣・内臣についての四つの憂いを論じ旨に忤らって叱責される
  • 崇禎四年1631年天下の全局を籌る疏を上り二大要・四大勢と統御の方策を論ずる
  • 崇禎四年1631年里甲・虚糧など民間の十四大苦を陳べ担当官に下される
  • 十六年1643年召されて河南道の事を掌り大計を助け贈答を門に入れない
  • 十六年1643年南畿で刷巻を行い辞職を願うが許されずそのまま家に還る
  • 翌年五月南都が失守する
  • 六月杭州も続いて失われ彪佳はただちに絶食する
  • 閏月四日家人を欺いて先に寝かせ池の中に端坐して死ぬ 年四十四

出自と崇禎朝の建言

  • 祁彪佳は字を𢎞吉といい、浙江山陰の人。祖父の代から清廉の吏であった。彪佳は生まれつき英邁で容姿は人にすぐれ、弱冠で天啟二年(1622年)の進士に及第し、興化府推官を授かった。着任の初め吏民はその若さを侮ったが、事を裁くのに明晰であったので皆大いに畏れ服した。外艱で帰郷した。
  • 崇禎四年(1631年)御史に起用され、賞罰の要を疏に陳べて言った。貴州の戦功では一級を疑って三年もの叙位を遅らせ、しかも恩は督撫・総帥や帷幄の大臣に及んで、敵陣に切り込んだ士は与らない。これでどうして戦列を励ませようか。山東の変では六城が続けて陥ちたのに、いまだ一官も議されない。欺き蒙らせる習わしは打ち破らねばならない、と。帝はただちに議して行うよう命じた。
  • また言った。九卿の長も詰責されることがしばしば聞こえ、四朝の遺老までも重い譴責を蒙る。諸臣は厳しい威に怖れて競って迎合し名位を保とうとする。臣が大臣について憂えるのはこの点である。方伯は一、二考、台員は十余年も遷任を得られず、監司や守令は多く秩を貶され俸を停められる。臣下の精神も才具も発揮する余地がない。功を急ぎ名を求める心が、罪を掩い瑕を匿す心に勝てないのも当然である。臣が小臣について憂えるのはこの点である。国家は戦鼓を聞いて将帥を思うが、その人を得たならば車を推し壇を築くのが礼にもかなう。もし必ず序列に依り年功をたどるのであれば、濫りな抜擢の穴はふさげても、優れた者を抜く道は尽くされない。臣が武臣について憂えるのはこの点である。撫按には中官を監視させるが、会同すれば隙が開いて水火のごとくなりその患は表に現れ、ひそかに交わり結べばその患は深い。臣が内臣について憂えるのはこの点である。旨に忤らって叱責された。
  • まもなく天下の全局を合わせ籌る疏を上り、関寧を策し登州・海路を制することを二大要とし、中州・秦晉の流賊、江右・楚粤の山賊、浙閩・東粤の海賊、滇黔・楚蜀の土賊を四大勢として分析し、統御の方策を極めたうえで、その要点を「行伍を引き締めて餉を節し、衛所を実にして兵を減らす」ことに帰した。
  • さらに民間の十四大苦を陳べた。里甲・虚糧・行户・搜贓・欽提・隔提・訐訟・窩訪・私稅・私鑄・解運・馬户・鹽丁・難民である。帝はその言を善しとして担当官に下した。

蘇松の按察と周延儒との軋轢

  • 蘇松の諸府を按ずるために出て、積年の悪吏四人を連ねて杖殺した。宜興の民が首輔周延儒の祖墓を暴き、また翰林の陳于鼎・于泰の家を焼いてその祖墓も暴いた。彪佳は法どおりに捕らえて処断し、延儒に対して私することがなかった。延儒はこれを恨んだ。
  • 回道の考課で俸を降され、まもなく親の侍養を理由に帰郷した。家に居ること九年、母の服喪が終わって召され河南道の事を掌った。十六年(1643年)大計を助け、贈答の類はあえて門に及ばなかった。南畿で刷巻を行い、辞職を願ったが許されず、ついでに家に還った。

弘光朝の江南巡撫

  • 北都の変を聞いて南京で福王に謁した。王が監国し、登極を請う者があったが、彪佳は発喪して服喪を終えてからその儀を議することを請い、聴き入れられた。
  • 髙傑の兵が揚州を騒がせ、民は江南へ逃れ、奸民が機に乗じて略奪した。彪佳に往って宣諭させ、乱を唱えた者数人を斬ったので、一帯は安定した。大理寺丞に遷り、まもなく右僉都御史・巡撫江南に抜擢された。
  • 蘇州の諸生が郷官のうち賊に従った者を檄文で討とうとし、奸民がこれに同調した。少詹事項煜、および大理寺丞錢位坤・通政司叅議宋學顯・禮部員外郎湯有慶の家はみな焼かれ略奪された。常熟ではまた給事中時敏の家を焼き、三代四棺を焼いた。彪佳は逆に従った諸臣の罪を議し、あわせて焼き掠めた徒党を等を加重して処罰することを請い、聴き入れられた。

詔獄・緝事・廷杖の三弊を論ずる

  • 厰衛の執事官を設ける詔が出ると、彪佳は上言した。洪武の初め、官民に犯罪があれば錦衣衛に収監することもあったが、高皇帝は非法の凌虐を見てその刑具を焼き、囚人を刑部に送られた。祖制にはもとより詔獄はないのである。後には罪をこじつけて織り上げることを事とし、朝廷の爪牙と称しながら実は権奸の鷹や狗となった。朝廷じゅうがその冤を知っていながら法司はあえて雪がず、その惨酷さは来俊臣・周興に等しく、冤を晴らす徐有功・杜景佺のような者はいない。これが詔獄の弊である。
  • 洪武十五年に儀鑾司を錦衣衛に改めたのは、もっぱら直駕侍衛などの事を掌らせるためで、探索を命じたことはない。永樂の間に東厰を設立して初めて密告の門が開かれ、兇悪な者が下働きに入り込んで素手で巨万を得、根拠のない誣告は善良の民にまで及び、自白は私的な拷問から出て、怨みと憤りは京畿に満ちた。賄賂を絶とうとして賄賂はいよいよ盛んになり、悪人を清めようとして悪人はいよいよ増えた。これが緝事の弊である。
  • 古くは刑は大夫に及ばなかったが、逆臣の劉瑾が権を握って初めて衣を脱がせて杖を受けさせた。もとより殺すべき罪もない者が必死の刑を蒙り、朝廷は諫を拒む名を負い、天下はかえって忠直の誉れを(受けた者に)帰す。これが廷杖の弊である。
  • 疏が奏されると、五城御史に実地の調査をさせることが命じられ、緝事の官は設けられなかった。

京口の兵乱と髙傑との会見

  • 督輔の部将である劉肇基・陳可立・張應夢・于永綬が京口に駐し、浙江から入衛した都司黄之奎も水陸の兵三、四千を率いてその地に戍った。之奎は軍を厳しく統率したが、四将の兵は勝手気ままで刃で民を傷つけたので、浙兵はこれを縛って江に投げ入れ、そこから隙が生じた。まもなく守備の李大開が浙兵を率いて鎮兵の馬を斬り、鎮兵と撃ち合って大開を射殺し、乱兵は大いに焼き掠めて死者は四百人に上った。彪佳が至ると永綬らは逃げ去った。彪佳は四将を弾劾して処断し、被害の家を救恤したので民は大いに悦んだ。
  • 髙傑が瓜洲に駐して横暴が甚だしく、彪佳は日を定めて会いに行くことにした。当日、大風が起こったので、傑は彪佳は来るまいと思ったが、彪佳は数人の兵を連れて風を衝いて渡った。傑は大いに驚き、兵衛をすべて撤して大観楼で彪佳に会った。彪佳は肝胆を開いて忠義を勧め、共に王室を助けようと説いた。傑は感嘆して「傑は多くの人を見てきたが、公のような方のためなら傑は甘んじて死のう。公が一日呉の地におられる限り、傑は一日公との約を守る」と言い、共に食事をして別れた。

辞任と殉節

  • 群小は彪佳を憎み、競って詆って、登極を阻んで潞王を立てようとしたと言った。彪佳はついに病と称して去った。
  • 翌年五月に南都が失守し、六月に杭州も続いて失われた。彪佳はただちに絶食し、閏月四日、家人を欺いて先に寝かせ、池の中に端坐して死んだ。年四十四。唐王は少保・兵部尚書を贈り、忠敏と諡した。

史論

  • 贊に言う。張慎言・徐石麒らはみな北都以来の旧臣で、剛直で実務に通じ、建言はいずれも時政の助けとなった。もし太平の朝で職に当たっていたなら、ゆったりと才を発揮して列卿の良臣に近かったであろう。しかし遇った時勢が不運で、内外が互いに乱れ、動くたびに食い違って、老練な臣といえどもどうして施策を行い事を成し遂げられようか。左懋第は節に拠って貞を全うし、死を踏んで悔いず、使いを奉じる者の義において恥じるところがない。