明史卷二百七十五 列傳第一百六十三 左懋第

左懋第は字を蘿石といい、萊陽の人。崇禎四年の進士で韓城知縣として政績を挙げ、父の喪に篤く母に孝を尽くした。户科給事中として民困・兵弱・臣工の疲弊・国計の空費という四弊を論じ、贖罪や塩政に粟を納めさせる策、停刑や停徴の詔を早馬で伝える策を献じ、いずれも採納された。漕運の督催に出ては、静海から臨清まで飢死三・疫死三・盗四という道中の実況、人が屍を食い河が屍で流れない惨状を奏し、練餉の害と淮鳳の折色を麦に換える転輸策を説いた。福王が立つと應天徽州の巡撫を経て、燕で歿した母の柩を迎えることを機に北使を請い、兵部右侍郎兼右僉都御史として陳𢎞範・馬紹愉と遣わされた。かつて弾劾した紹愉との同行や経理の兼任を辞し、出発に臨んで先帝の仇と恥を忘れぬよう諫めた。北京では百人だけの随行を許され、諸陵への祭告と改葬を拒まれて旅宿で哭奠し、いったん帰されたのち滄州から追い還されて抑留された。南京失守を聞いて慟哭し、賊に降った従弟の懋泰を「吾が弟ではない」と叱って追い出し、随行の五人とともに降らずに誅された。

年表(21件)
  • 翌年正月剿餉の停徴を早馬で速行させ遠方の民に恩恵が届くよう請う
  • 崇禎四年1631年進士に及第し韓城知縣として優れた政績を挙げる
  • 十二年1639年户科給事中に抜擢され民困・兵弱など四つの弊を陳べる
  • 十二年1639年贖罪に粟を納めさせ開中の旧法に復して軍食を充てる策を上る
  • 十二年1639年彗星の停刑詔の早馬伝達と都下の飢民の賑給・棄児の収養を請う
  • 三月大風と土埃に際し兵に応じた徴餉と疑わしい獄の軽刑を請う
  • 三月凶荒の州縣に停徴の詔を下し有司を救荒に専念させるよう請う
  • 三月上災七十五州縣は三餉を並べ停め中災は練餉のみ下災は秋後に徴すと定まる
  • 十四年1641年漕運の督催に当たり静海から臨清の飢死・疫死・盗の実況を奏する
  • 十四年1641年魚臺から南陽の村市の荒廃と屍で河が流れぬ状を報じ速やかな救済を求める
  • 十四年1641年荒田の調査と逃散戸の把握で耕作の意欲を興すことを請う
  • 十四年1641年父老の訴えを引いて練餉の害と兵の実体のなさを難ずる
  • 十四年1641年淮鳳の折色を麦に換えて転輸する策を上り議して行うよう命じられる
  • 十六年秋1643年刑科左給事中を経て江防の視察に出る
  • 翌年五月福王が立ち兵科都給事中から應天徽州諸府の巡撫に抜擢される
  • 翌年五月母の柩を迎えることを機に北使を請い兵部右侍郎兼右僉都御史となる
  • 八月白金十万両と兵三千を伴い舟で淮を渡る
  • 十月朔張家灣に宿る
  • 十月二十八日諸陵への祭告と改葬を許されず旅宿で哭奠したのち都を出る
  • 閏月十二日陳用極・王一斌ら随行の五人とともに降らず誅される
  • 順治二年六月1645年南京の失守を聞いて慟哭し降った従弟の懋泰を叱って退ける

出自と崇禎朝の建言

  • 左懋第は字を蘿石といい、萊陽の人。崇禎四年(1631年)の進士。韓城知縣に任じられて優れた政績を挙げた。父の喪に遭って三年のあいだ内寝に入らず、母には孝を尽くした。
  • 十二年(1639年)户科給事中に抜擢された。四つの弊を疏に陳べ、民が困窮し兵が弱く、臣工が疲弊し国計が空しく費やされていると言った。また粟を貴ぶ策を陳べ、天下の贖罪者にはみな粟を納めさせ、塩の政策では開中の旧法に復して粟を辺塞に納めさせ軍食に充てよと述べた。
  • 彗星が現れて停刑の詔が出ると、懋第は早馬で速やかに伝えることを請うた。また将士の掠奪と有司の搾取を厳禁し、米銭を配って都下の飢民を賑わし、捨てられた嬰児を収養することを請うた。
  • 翌年正月、剿餉の徴収が止められたときも早馬で速行することを請い、遠方の吏が知らずに先に徴収してしまい民が実際の恩恵に浴さないことを恐れた。帝はいずれも採納した。

大風霾の対策と三餉の停徴

  • 三月、大風と土埃が起こり、帝は布の袍で斎居して祈ったが止まなかった。懋第は言った。去秋の星変では朝に停刑して夕には消えたのに、今はそうならない。陛下はその文だけあって実を修めていないのではないか。臣はあえて実をもって申し上げる。練餉の加徴はもとよりやむを得ないものだが、明旨で兵を減らして餉を省くと天下が皆知っているのに、餉がなお省かれないのはなぜか。今後は兵に応じて餉を徴し、あらかじめ天下に加増すべき数を知らせ、官吏に不正の余地を与えず、陛下の明詔を信あるものとされたい。刑獄については、陛下の御考えの疑うか信ずるかで囚人の死生が決まるのだから、心に疑わしいもの、疑いと信が半ばするものはすべて軽い刑に従わせよ。停刑によって彗星が止められるのに、法網を解いて風を返せないことがあろうか。
  • また言う。陛下はしばしば大恩を降されたのに、四方の死者はなお折り重なり、盗賊は衰え止まない。それはなぜか。免除・停止されたのは一つ二つの存留の賦だけで、有司は考課に追われて催徴を緩められないからである。だから凶作を救えない。ひどい凶荒の州縣には詔を下して速やかに停め、有司には訴訟を止めさせて専ら救荒に努めさせられたい。帝は「そのとおりだ」と言った。
  • そこで、上等の災害の七十五州縣は新旧の練など三餉を並べて停め、中等の災害の六十八州縣は練餉だけを徴し、下等の災害の二十八州縣は秋の収穫後に督徴することとした。

漕運督催と飢饉の実況報告

  • 十四年(1641年)漕運の督催に当たり、道中から疏を馳せて言った。臣が静海から臨清まで来る間に見たところ、人民は飢えて死ぬ者が三、疫病で死ぬ者が三、盗となる者が四である。米は一石が銀二十四両で、人が死ぬとその屍を取って食う。ただ聖明の御心にかけていただきたい、と。
  • また言う。臣が魚臺から南陽に至る間、流賊の殺戮で村や市は廃墟となり、そのほか飢えと疫で死んだ者は屍が水際に積もって河が流れないほどである。救済は速やかでなければならない、と。
  • また民を安んじ盗を息める策を陳べ、荒田を調べ逃散した戸を把握して生きる楽しみを与え、耕作の意欲を鼓舞するよう請うた。
  • また言う。臣は河のほとりで一年職務に当たり、父老に会うたびに疾苦を尋ねたが、皆が練餉の害を言う。三年来、農民は野で怨み、商人は道で嘆いている。これほど重く課しておきながら、練るところの兵は何か、兵はどこにいるのか、賊を討ち辺を守る効果はどこにあるのか。どうして人心をこれほどまでに瓦解させるのか、と。
  • また言う。臣は去冬に宿遷に至り、督漕臣の史可法が「山東の米は一石二十両だが河南は百五十両にもなる」と言うのを聞いた。漕運の備蓄は未納が多く、朝議は折色を収めず本色を求めているが、いま淮・鳳のあたりは麦が大豊作なので、この両地の折色を収めて麦に換えて転輸すれば大きな利ではないか。昔、劉宴に転易の法があった。今年は河北が大豊作で、山東の東・兖二郡にも収穫がある。まことに内帑から二三十万を出して担当官に分配し、時機を逃さず買い上げれば国計に便宜である、と。帝はただちに議して行うよう命じた。
  • しばしば遷って刑科左給事中となった。十六年(1643年)秋、江防の視察に出た。

北使の任と条件の陳述

  • 翌年五月、福王が立つと兵科都給事中に進み、まもなく右僉都御史・巡撫應天徽州諸府に抜擢された。
  • このころ大清の兵が続けて李自成を破り、朝議は使者を遣わして通好しようとしたが、その人選が難しかった。懋第の母陳氏は燕で歿していたので、懋第はこれを機に柩を持ち帰って葬りたいと願い出て、使いに行くことを請うた。そこで懋第を兵部右侍郎兼右僉都御史に拝し、左都督陳𢎞範・太僕少卿馬紹愉とともに遣わし、懋第には河北を経理し関東の諸軍を連絡させることとした。
  • 馬紹愉はもと兵部の郎官で、かつて陳新甲のために和議を通じ、義州まで行って還った者である。新甲が誅されると、紹愉は督戦・恤典の件で懋第に弾劾されて罷免された。このとき紹愉はすでに郎中に復官しており、少卿に進めて懋第の副とした。
  • 懋第は言った。臣のこの行は先帝と后の梓宮に祭りを致し、東宮と二王の行方を訪ねるためのものである。臣が使臣を務める以上、勢い封疆を兼ね理めることはできない。かつ紹愉は臣が弾劾して罷めさせた者であり、再び臣と共に事に当たるべきではない。どうしても臣に経理させるのであれば、𢎞範を紹愉と共に出使させ、臣には一軍を仮して山東の撫臣とともに山東を収拾して待たせていただきたい。あえて北行を言わない。臣と𢎞範を北行させるのであれば臣の経理の任を解き、ただ命を銜んで往かせ、紹愉は罷めて遣わさないでいただきたい、と。
  • 閣部の議は紹愉を止めて、もとの薊督王永吉に改命したが、王は前の諭のとおりにせよと命じた。
  • 懋第は出発に臨んで言った。臣のこの行は生死のほど測り難い。闕を辞する身をもって一言を献じたい。願わくは陛下、先帝の仇と恥を心に置かれよ。高皇の弓剣を仰ぐときは成祖以下列聖の陵寝がどこにあるかを思い、江上の生き残った民を撫するときは河北・山東の赤子を誰が恤むのかを念われよ。さらに常に士馬を整え、河を渡って戦えてこそ河を扼して守れ、河を扼して守れてこそ江を境として安んじられる、と。人々はその言を正しいとした。
  • 王は白金十万両、幣帛数万匹を持たせ、兵三千人に護行させた。八月、舟で淮を渡り、十月朔に張家灣に宿った。

北京での抑留と殉節

  • 本朝は令を伝えて百人だけの随行を許した。懋第は喪服のまま都門に入り、着くと鴻臚寺に泊められた。諸陵に祭告し先帝を改葬することを請うたが許されず、そこで太牢を旅宿に陳べ、哭して奠じた。その月の二十八日に帰されて都を出た。
  • 𢎞範は自ら江南に赴いて諸将の劉澤清らを招いて降附させたいと請い、懋第らは留めて帰さないよう請うた。そこで滄州から懋第を追い還し、太醫院に宿を改めた。
  • 順治二年(1645年)六月、南京の失守を聞いて慟哭した。その従弟の懋泰は先に吏部員外郎であったが賊に降り、後に帰って本朝から官を授けられており、来て懋第に謁した。懋第は「これは吾が弟ではない」と言って叱って追い出した。
  • 閏月十二日、随行の兵部司務陳用極、游撃王一斌、都司張良佐・劉統・王廷佐とともに、いずれも降らずに誅された。紹愉は免れた。