明史卷二百七十四 列傳第一百六十二 姜日廣

字は居之、新建の人。萬厯末の進士から編修に進み、朝鮮への使いで清廉を称えられたが、魏忠賢の一党に東林として籍を削られた。崇禎年間に復官して吏部右侍郎に至り、左遷と起用を経て南京翰林院を掌った。北都の変後は周鑣・雷縯祚の言を用いて潞王擁立を主張したため廷推では退けられたが、のち禮部尚書兼東閣大學士となった。高𢎞圗と心を合わせて政を輔け、阮大鋮の起用に反対して逆案の維持を説いたため、擁立の功を恃む馬士英と鋭く対立した。朱統某や劉澤清らの弾劾を重ねて受け、辞職を乞うて許され、退出の際も士英と朝堂で罵り合った。帰郷後、江西で叛いた金聲桓に迎えられたが、聲桓が敗れると池に身を投げて死んだ。同じ議を唱えた周鑣と雷縯祚も弘光朝で自尽を賜った。

年表(15件)
  • 萬厯末進士に及第し庶吉士を授けられ編修に進む
  • 翌年夏魏忠賢の一党に東林として籍を削られる
  • 崇禎の初め右中允として起用される
  • 九年吏部右侍郎に至るが事に坐して南京太常卿へ左遷される
  • 十五年詹事として起用され南京翰林院を掌る
  • 天啓六年1626年朝鮮に使いして清廉を貫き懐潔の碑を立てられる
  • その年九月重なる誣告に辞職を乞うて許され士英と朝堂で罵り合って別れる
  • 崇禎元年周鑣が進士となり南京戸部主事に授けられ蕪湖で榷税する
  • 十五年周鑣が禮部主事として起用され郎中に進む
  • 崇禎三年雷縯祚が郷試に及第する
  • 十三年夏雷縯祚が庚辰特用の一人として刑部主事を得る
  • 翌年三月雷縯祚が楊嗣昌の六大罪を弾劾して帝の不興を買う
  • 十五年雷縯祚が武徳道兵備僉事に抜擢され徳州を守って詔で奨励される
  • 翌年五月雷縯祚が范志完と周延儒の党を弾劾し志完は誅される
  • 翌年四月雷縯祚が周鑣とともに自尽を賜る

経歴と擁立の議

  • 姜曰廣は字を居之といい、新建の人。萬厯末に進士に及第し、庶吉士に授けられ、編修に進んだ。
  • 天啓六年(1626年)、朝鮮に使いし、中国の物を一つも持って行かず、朝鮮の銭を一文も取って帰らなかった。朝鮮の人は懐潔の碑を立てた。
  • 翌年夏、魏忠賢の一党は曰廣を東林として籍を削った。崇禎の初め、右中允として起用された。九年、官を積んで吏部右侍郎に至ったが、事に坐して南京太常卿に左遷され、そこで病と称して去った。十五年、詹事として起用され南京翰林院を掌った。莊烈帝はかつて「曰廣は経筵で言葉が激切である。朕はその人となりを知っているので、いつも寛く容れている」と言った。
  • 北都の変が伝わり、諸大臣が立てるべき人を議したとき、曰廣と吕大器は周鑣・雷縯祚の言を用いて潞王を立てることを主張したが、諸將は福藩を奉じて江上に至った。
  • そこで文武の官がそろって内官の宅に集まり、韓贊周が各人に名を記させた。曰廣は「慌てるな。まず奉先殿に祭告してから行うべきだ」と言った。翌日、奉先殿に至ると、諸勲臣が言葉で史可法を侵したので、曰廣がこれを叱った。ここに小人どもはみな目で曰廣を睨んだ。
  • 廷推で閣臣を選ぶとき、曰廣は異議を唱えたゆえに用いられず、史可法・髙𢎞圗・馬士英が用いられた。再度、詞臣を推すにあたって王鐸・陳子壯・黄道周の名が上がり、その筆頭が曰廣であったので、曰廣を禮部尚書兼東閣大學士に改め、王鐸とともに命じられた。

馬士英との対立と辞職の疏

  • 鐸はまだ着かず、可法は揚州で督師していたので、曰廣は𢎞圗と心を合わせて政を輔けた。しかし士英は擁立の功を頼み、内には勲臣朱國弼・劉孔昭・趙之龍と結び、外には諸鎮の劉澤清・劉良佐らと連なって朝権を専らにしようと謀り、深く曰廣を忌んだ。
  • まもなく士英が特に薦めて阮大鋮を起用したので、曰廣は力めて争ったが容れられず、そこで辞職を乞うて言った。要旨は次のとおりである。
  • さきに文武が互いに競い合うのを見て、調和させる術がないのを恥じた。近ごろ逆案が突然翻されるのを見て、鎮め止められないのを恥じた。こうして先帝十七年の定めた志を棄て、陛下の数日前の明詔を覆すことになった。
  • 臣は前朝の事をもって申したい。臣が見るに、先帝の善政は多いが、逆案を堅持されたことがとりわけ美しい。先帝の害政はまれにあったが、しばしば口宣を出されたことが乱の階となった。閣臣を用いるのも内伝、部臣・勲臣を用いるのも内伝、大將を用い言官を用いるのも内伝であった。そうして得た閣臣は淫貪巧猾の周延儒であり、君に阿り民を削る奸険刻毒の温體仁・楊嗣昌であり、生を偸んで賊に従った魏藻徳であった。得た部臣は陰邪貪狡の王永光・陳新甲であり、得た勲臣は南遷を力めて阻み守りをすべて撤した狂って未熟な李國楨であり、得た大將は放蕩で用をなさぬ王樸・倪寵であり、得た言官は貪欲横暴で無頼の史□(底本欠字)・陳啟新であった。これらはみな衆議を排して中旨から選ばれ、その結果は見てのとおりである。
  • いまはまたそうではない。合議も要らず、ただ面と向かって立ち話をして官を取る。陰では会推の権を奪い、陽では中旨の名を避ける。廉恥の大きな堤を切り、便佞の悪習を助長する。これがどうして手本となろうか。
  • 臣は綸扉に列なっているが、あえて言を尽くせば終には測り知れぬ禍を踏み、ただ位を埋めるだけなら恥知らずの譏りを受ける。願わくは骸骨を乞うて郷里に帰りたい。
  • 旨を得て慰留された。士英・大鋮らはますます不快となり、國弼・孔昭はそこで「先帝を誹謗し、忠臣李國楨を誣い辱めた」ということを理由に、次々に上章して攻めた。
  • 劉澤清はもと東林に附いており、擁立の議が起こったときも潞王を主張していたが、このとき入朝すると東林を力めて詆り自ら弁解し、そのうえ「中興の頼みは政府にある。いま輔臣を用いるには大帥に合議させるべきだ」と言った。曰廣は愕然とした。
  • 数日後、澤清は疏を上って吕大器・雷縯祚を弾劾し、張捷・鄒之麟・張孫振・劉光斗らを薦め、さらに故輔周延儒の贓を免ずるよう請うた。曰廣は「これは次第に朝政に干渉しようとするものだ」と言い、部議に下してついに許さなかった。
  • 曰廣はかつて士英と王の前で互いに詆り合ったことがあった。宗室の朱統□(底本欠字)という者はもとより行いが悪く、士英は官で餌をつけて曰廣を攻撃させた。澤清もまた諸鎮の名を借りた疏で劉宗周および曰廣を攻め、三案の旧事と迎立の異議を持ち出し、捕らえて法司に下し、君父を危うくしようと謀った罪を正すよう請うた。
  • ほどなく統□(底本欠字)はまた曰廣の五大罪を弾劾し、あわせて劉士楨・王重・楊廷麟・劉宗周・陳必謙・周鑣・雷縯祚を裁きにかけるよう請い、必謙と鑣はこれによって逮えられた。
  • 曰廣は続けて誣いを蒙り、たびたび疏を上って辞職を乞い、その年九月にようやく許された。入って辞するとき、諸大臣が列にあった。曰廣は「微臣は権奸に触れ逆らい、万死を覚悟しておりました。上恩は寛大で、なお田に帰ることをお許しくださいました。臣が帰ったのちは、陛下には国事を重んじていただきたい」と言った。士英はじっと曰廣を見つめて「私が権奸なら、お前は老いた賊だ」と罵った。退出してからも朝堂で互いに罵り合って別れた。
  • 曰廣は骨があり剛直であったが、邪佞の者に扼されてその用を尽くせず、そのまま帰った。のち左良玉の部將であった金聲桓が我が大清に降り、やがて江西で叛いて曰廣を迎え、号召の資としたが、聲桓が敗れると曰廣は偰家の池に身を投げて死んだ。

周鑣――崇禎朝の直言

  • 周鑣は字を仲馭といい、金壇の人。父の秦峙は雲南布政使である。鑣は郷試に第一で及第し、崇禎元年に進士となり、南京戸部主事に授けられて蕪湖で榷税した。喪で帰り、喪が明けて南京禮部主事に授けられた。
  • 内臣と言官の二事を極論して言った。「張彞憲が用いられて髙𢎞圗・金鉉が罷められ、王坤が用いられて魏呈潤・趙東曦が斥けられ、鄧希詔が用いられて曹文衡が罷めて閑居し、王𢎞祖・李曰輔・熊開元が罪に遭った。邸報を読むたび半ばは内侍のための温かい詔である。今後、臣子を厳しく鍛え、天子の言を委ねて汚し、ただ中貴の心に従うのであれば、臣にはどこまで行くのか分からない。言官は言えば禍が随う。黄道周ら諸臣は賢を薦めて効なく、恵世揚・劉宗周は進むことができず、華允誠ら諸臣は奸を駆逐して効なく、陳于廷・姚希孟・鄭三俊はみな譴責を蒙った。厳しい詔が下るたび、それはたいてい直臣の上書に対してである。今後、忠良を捨て去り、宵小を助け成すのであれば、ただ奸人の計を快くするだけで、臣にはますますどこまで行くのか分からない」。帝は怒って庶民に落としたが、鑣はこれによって名が天下に聞こえた。
  • はじめ鑣の伯父の尚書應秋、叔父の御史維持が魏忠賢に附いてともに逆案に連なったので、鑣はこれを恥じ、官籍に登録されてからはただちに東林と交わり、際立って名節を立てた。放逐されると宣城の沈夀民とともに茅山で読書した。廷臣の多くが薦めたので、十五年に禮部主事として起用され郎中に進み、吏部尚書鄭三俊に頼られた。しかし人となりは名を好み、かなり偽りを飾ったので、給事中韓如愈が疏を上って論じ、罷めて帰った。

周鑣――弘光朝での賜死

  • 福王が南京で立つと、馬士英は吕大器を追い出したのち、鑣および雷縯祚がかつて潞王擁立の議を主張したことを理由に、朱統□(底本欠字)に曰廣を弾劾させ、そのついでに「鑣・縯祚らはみな曰廣の私党である。ことごとく裁きにかけていただきたい」と言わせ、そこで逮捕して治罪させた。士英はまた鑣の従弟の鍾が逆に従ったと弾劾し、あわせて鑣にも及ぼし、鍾も逮捕された。
  • 阮大鋮が金陵にいたころ、諸生の顧杲らが「留都防亂公揭」を出して討ったが、これを主導したのが鑣であった。大鋮はそのため鑣を恨んでいた。
  • 鑣の獄が急となり、御史陳丹衷に頼んで士英に解いてもらおうとしたが、密偵に押さえられ、丹衷は長沙知府に出された。ここに察處御史羅萬爵が大鋮の意を汲んで疏を上って鑣を痛烈に詆り、光祿卿祁逢吉は鑣の同郷でありながら人に会うたび鑣を罵ったので、戸部侍郎になることができた。
  • ほどなく左良玉が兵を挙げて檄を飛ばし、士英の罪を討った。大鋮を用い、鑣・縯祚を陥れ、罪を鍛え上げて周到に仕組んだと言ったので、士英と大鋮はいよいよ怒り、大鋮は鑣こそが良玉の兵を招いたのだと言った。王はそこで鑣と縯祚に自尽を賜り、鍾は棄市とした。

雷縯祚――楊嗣昌・范志完の弾劾

  • 雷縯祚は太湖の人。崇禎三年に郷試に及第した。十三年夏、帝は格を破って人を用いようと思ったが、考選は進士にしか及ばなかったので、特に舉人・貢生で教職の試を受けた者をことごとく部寺の司属・推官・知縣に用いるよう命じた。その数は二百六十三人、庚辰特用と呼ばれた。縯祚は刑部主事を得た。
  • 翌年三月、楊嗣昌の六大罪は斬るに値すると弾劾し、鳳陽總督朱大典・安慶巡撫鄭二陽・河南巡撫髙名衡・山東巡撫王公弼は急ぎ替えるべきだと言ったが、帝は不快であった。
  • 十五年、武徳道兵備僉事に抜擢された。山東が兵を受けたとき縯祚は徳州を守り、詔で奨励された。そこで疏を上って督師范志完が兵を放って淫掠させ、軍餉を差し引き、大きな党を結んでいると弾劾した。帝は内心その言を善しとし、淫掠の件は兵部を責め、縯祚にはさらに詳しく陳べさせた。
  • 志完は首輔周延儒の門生である。縯祚は憚るところがあって長く奏さなかった。翌年五月、延儒が廷議に下されると、縯祚はそこで奏して言った。「志完は二年で僉事から急に督師に上った。大きな党がなくてどうしてそこまで行けようか。大官では尚書范景文ら、詞林では諭徳方拱乾ら、言路では給事中朱徽・沈允培・袁彭年らがみなその党である。徳州が攻囲されて落ちず、敵が臨清へ転じて略奪し、さらに五日たってから志完はようやく到着した。後続の部隊が景州を破ったと聞くと大いに懼れて徳州城に避け入ろうとし、夜三更に臣を招いて議した。臣は聴かなかった。志完はそこで流寓の詞臣拱乾とともに南城の古廟で臣に会った。臣は、督師は入城する官ではなく、薊州の失態は降丁が内から潰えたことによると告げると、志完は不快な様子で去った。そもそも座主が朝廷にあって利を貪り曲庇し、一手で燎原の勢いを持ち、一言で生死を操り、功を称え徳を頌える者が官の列にあまねくいる。臣は陛下が周公・召公の礼で大臣を待たれるのに、その大臣が厳嵩・薛國觀をもって自ら任じているのを見るに忍びない。臣は外藩の小吏、乙榜の孤独な身であり、言わなければあえて言い尽くすこともなく、感じなければあえて言うこともないが、陛下が虚心に受け容れられるので、首輔延儒に挙国が媚び附いて時局を進めていることを避けずに申し上げる。中枢が計を主って餉を請えば必ず常例の贈り物があるのは天下が知るところであり、そのほかの横領は数え切れない」。
  • 疏が入ると帝はいよいよ心を動かし、旧計臣の李待問・傳淑訓、樞臣の張國維および戸科の荆永祚、兵科の沈迅・張嘉言の罪を議するよう命じ、縯祚を召して陛見させた。
  • 数日で京に着き、さらに数日して入対した。志完・拱乾を召して前の疏中の語を質した。拱乾が志完のために弁じると帝は頷いた。縯祚に「功を称え徳を頌えた者は誰か」と問うと、答えて「延儒は権を招き賄を納れ、廃された者を起用し獄を清め租を蠲めるといったことをみな自分の功とし、臺諫を考選してはことごとく門下に収めた。総兵・巡撫を求める者は必ずまず幕客の董廷獻に賄賂した」と言った。帝は怒って廷獻を逮え、志完を誅し、縯祚には任地へ帰るよう命じた。
  • 縯祚はまもなく喪により去った。福王のとき統□(底本欠字)が曰廣を弾劾したついでに縯祚にも及び、そのまま逮捕されて治罪された。翌年四月、鑣とともに自尽を賜った。旧例では小臣に自尽を賜ることはないが、良玉の兵が東下したため、大鋮らが急いで殺したのである。

史論

  • 贊に曰く。史可法は国歩の多難を憫れみ、忠義を奮い起こして兵を提げて江のほとりに拠り、南北の要衝に当たった。四鎮を碁石のように配し、連絡して声援し、力めて興復を図った。しかし天がまさに害を下し、権臣が内で足を引っ張り、悍將が外で跋扈したため、ついに兵は行き詰まり餉は尽き、領土は日々狭まり、孤城を保てず、志を決して身を殲した。悲しむべきことである。髙𢎞圗と姜曰廣はいずれも忠実な謀を蓄え、心を合わせ力を尽くしたが、権奸に扼されてその位に安んじられなかった。思うに明の命運の傾き移るのは、もとよりわずか一人二人の力で挽き戻せるものではなかったのである。