西辺での戦功
- 官惟賢は萬厯末に甘肅斐家營守備となった。天啓二年、都司僉書として鎮番參將の事を署し、宣府遊擊・延綏西路參將を歴任し、ふたたび鎮番に移った。
- 五年春、河套・松山の諸部が侵入すると、惟賢は參將丁孟科とともに大いに破り、首級二百四十餘級を斬った。
- 翌年春、巴勒濟喇嘛台吉がふたたび松山の伊勒敦達春および威摩蘇・薩喇台吉を糾合し、三千騎で侵入した。惟賢は再びこれを破り、首功二百餘級を得て、薩喇台吉は傷を受けて死んだ。惟賢は副總兵に進んだ。
- その冬、伊勒敦らは薩喇台吉の死を恨んで報復を図り、さらに河套の圖巴台吉らを糾合して道を分けて侵掠した。惟賢と鎮將徐永夀らも道を分けて拒み、あわせて首功百六十を得た。
- 七年春、伊勒敦・必圖・威摩蘇・巴勒濟喇嘛が土黙特・浩爾齊らと合して黒水河から入ると、惟賢と西路副將陳洪範がこれを大破し、首級百八十餘級を斬った。当時、西の部族はしきりに辺を侵したが、惟賢はたびたびその鋒をくじいた。
官惟賢・張竒化――遵化での戦死
- その秋、王之臣が遼東を督師し、惟賢を關門に赴かせるよう乞うた。翌年、崇禎と改元して惟賢が着任すると、山海北路副總兵に用いられた。
- 二年冬、京師に警報があり、惟賢は入衛した。總理馬世龍は急ぎ寳坁・漷縣を援けるよう命じた。
- 翌年正月九日、大清兵が撫寧から山海に向かい、翌日鳳凰店に至った。関を離れること三十里に三営を並べ、惟賢は參將陳維翰らとともに二営を設けて待ち、合戦して互いに殺傷があった。
- やがて大清兵が撫寧に返ると、世龍は惟賢に維翰および遊擊張竒化・李居正・王世選・王成らを率いて遵化を襲わせた。城西の波羅灣に至ると城中の兵が出撃してきて、前鋒は死力を尽くして戦った。
- 大清兵が城に収まると後隊が勢いに乗じて攻めたが、城上からの矢石が雨のようであった。まもなくまた兵を出して戦い、惟賢は陣に陥って矢に当たり死に、士卒の殺傷された者は三百餘人、竒化もまた戦死した。