篇首の立伝者一覧
- 賀世賢(附・尤世功)
- 童仲揆(附・陳䇿、周敦吉ら、張神武ら)
- 羅一貫(附・劉渠、祁秉忠)
- 滿桂(附・孫祖夀)
- 趙率教(附・朱國彦)
- 官惟賢(附・張竒化)
- 何可綱
- 黄龍(附・李惟鸞)
- 金日觀(附・楚繼功ら)
出自と遼東での戦功
- 賀世賢は榆林衛の人。若いころは厮養(軍中の下働き)で、のちに従軍して功を積み瀋陽遊撃に至り、義州參將に移った。
- 萬厯四十六年(1618年)七月、清河が包囲され、副將鄒儲賢が固守したが城は破れた。鄒儲賢は手勢を率いて城南で激戦し、參將張斾とともに戦死、部將二十人と兵民一萬餘が全滅した。
- 世賢は靉陽に駐屯していたが変を聞いて塞外へ疾駆し、首功百五十四級を得て副總兵に進んだ。
- 翌年、楊鎬の四路出師では、世賢は李如栢に副として清河から出た。劉綎が深入りして伏兵にかかったため、世賢は如栢に救援を勧めたが従われず、綎はついに戦死した。まもなく都督僉事に抜擢され總兵官を兼ね、虎皮驛に駐屯した。鐵嶺が包囲されると馳せ援けたが城はすでに破れており、迎え撃って首功百餘級を得た。
- 泰昌元年(1620年)九月、灰山・撫安堡で連戦し、首功二百餘級を得た。
同僚の讒言と瀋陽の陥落
- 当時、各地の宿將が遼左に集まっていたが、みな萎縮して戦おうとせず、ただ世賢だけがしばしば戦って功を立てたため、同僚の多くが彼を妬んだ。
- 瀋陽に移鎮したころ、經畧袁應泰が降人受け入れの令を下した。廣寧總兵李光榮が、世賢の受け入れた者が多すぎると疑って上申し、巡撫薛國用も三つの懸念を奏した。兵部尚書崔景榮は、受け入れを拒み、すでに受け入れた者は別の場所に置くよう請うた。しかし世賢が受け入れた者は結局解散させられず、同僚たちは彼に異心ありと謗った。
- 天啟元年(1621年)三月、大清が重兵をもって瀋陽に迫った。世賢と總兵尤世功は塹壕を掘り濠を深くし、大木を立てて柵とし、楯車・火器・木石を城の周囲に並べ、兵を配して守り、城を守る備えはきわめて整っていた。
- 大清はまず数十騎を偵察に出し、世功の兵がこれを追って四人を殺した。世賢は勇猛だが軽率で酒を好み、その日の朝も酒を飲み、手勢千人を率いて出城して迎撃し、敵を殲滅して帰ると称した。
- 大清兵は偽って敗走し、世賢は勢いに乗って進んだが、たちまち精兵に四方から囲まれた。戦いながら退いて西門に至ったときには身に十四本の矢を受けていた。城中では世賢の敗報を聞いて各人が鳥獣のように逃げ散り、降ってきた兵はふたたび叛いて城外の吊橋を断った。
- ある者が遼陽へ逃れるよう勧めたが、世賢は「自分は大將でありながら城を保てなかった。どの面目で袁經畧に会えようか」と言い、鐵鞭を振るって囲みの中へ突入し、数人を撃ち殺したが、矢に当たって落馬し死んだ。世功も兵を率いて援けに向かい、やはり戦死した。
尤世功
- 尤世功も榆林の人。萬厯年間に武鄉試に及第し、瀋陽遊擊を歴任した。張承廕の敗戦のとき脱出して帰り、そのかどで官を剥奪された。經畧楊鎬が「身に重傷を負い、才は励ますに足る」と言上し、武精營遊擊に補された。
- 鎬の四路出師では世功は李如柏の麾下に属して無事を得、まもなく副總兵として瀋陽を守った。熊廷弼が鎬に代わるとその才を愛し、副將朱萬良とともに任用した。廷弼が罷免されて袁應泰が代わり、三路出師を議して世功を總兵官としたが、出発しないうちに瀋陽が攻められ、戦死した。
- 少保・左都督を贈られ、世廕を三級加えられ、さらに指揮僉事の世襲を廕され、祭葬を賜り、愍忠と名づけた祠が建てられた。
- 世賢は死んだあと、叛いて降ったのではないかと疑う者があり、そのため恤典が及ばなかった。四川副使車樸が冤を訴えたが、衆議に阻まれて実現しなかった。