明史卷二百六十九 列傳第一百五十七 劉國能
劉國能(?–1641年)。延安の人。はじめ李自成・張獻忠らとともに盗となり、闖塌天と号して陝西・山西から河南・湖廣・四川まで十年近く暴れ回った。張獻忠との不和と左良玉への敗戦をきっかけに、崇禎十一年正月、総理熊文燦の招撫に率先して応じて官軍に加わり、降った諸賊のなかでただ一人ほんとうに従軍して功を重ね、副總兵に至った。葉縣を守っていたとき、かつての義兄弟である李自成に囲まれ、降伏を勧められたが「今は王臣である」と罵って殺された。左都督・特進榮禄大夫を贈られ、祠が建てられた。
年表(11件)
- 崇禎三年1630年闖塌天と号して陝西を大いに乱し、河を渡って山西・畿南を掠める
- 崇禎六年冬1633年河南に入り、鄖・襄を犯して数縣を破る
- 崇禎七年正月1634年四川に入って夔州を陥れ、陳奇瑜に追われて車箱峽に閉じ込められる
- 崇禎九年1636年鄖・襄から興安・漢中へ移り、冬に潼闗を窺うが孫傳庭に扼される
- 崇禎十年1637年馬光玉らと合して江北に赴き、河南で參將李春貴の兵を破る
- 崇禎十一年正月四日1638年随州で率先して熊文燦の招撫に応じ、守備に署されて左良玉に隷属する
- 崇禎十二年二月1639年良玉に従って勤王し、詔によって副總兵を授けられる
- 崇禎十二年四月1639年南陽で李萬慶を撃って潰走させ、招いて降らせる
- 崇禎十四年九月1641年李自成に葉縣を囲まれて城が陥ち、降伏を拒んで殺される
- 崇禎八年春1635年李萬慶が滎陽に集まった七十二営の議で西の陝西の兵に当たる
- 崇禎十五年正月1642年李萬慶が総督汪喬年に従って襄城に入り、城が陥ちて屈せず死ぬ
闖塌天としての流賊時代
- 延安の人。はじめ李自成・張獻忠らとともに盗となり、自ら闖塌天と号した。
- 崇禎三年(1630年)、陝西を大いに乱し、その後河を渡って東し山西を寇し、畿南・河北を転々と略奪した。
- 崇禎六年(1633年)冬、河南に入り、そのまま内郷・浙川から湖廣の鄖・襄を犯して数縣を破った。翌崇禎七年(1634年)正月、四川に入って夔州を陥れ、折れて東し鄖陽の境に入ったが、総督の陳奇瑜に追い詰められて漢南に走り、ともに車箱峽に閉じ込められた。その後脱出し、また陝西を大いに乱し、再び河南に入って江北を蹂躙した。官軍が迫ったので整齊王とともに商雒の山間に屯した。
- 崇禎九年(1636年)、また闖王・蝎子塊らとともに鄖・襄から興安・漢中に赴いた。総督の洪承疇は駆け回るのに手一杯であった。まもなく南して荊・襄に走り、総兵の秦翼明としばしば戦った。その冬、蝎子塊ら十七営とともに潼闗をうかがったが、巡撫の孫傳庭に扼されて南に引いた。
- 翌崇禎十年(1637年)、馬光玉らが蘄・黄を犯そうとしていると聞き、衆を率いて合流し、まっすぐ江北に赴いた。官軍が数道から迎え撃ったので、あえて東せず、引き返して黄陂に走り木蘭山に入り、転じて河南を寇して參將の李春貴の兵を破った。まさに開封に迫ろうとしたので、詔して諸将に兵を出して救わせ、そこで南して黄・麻に走った。
帰順と葉縣の戦死
- 当時、総理の熊文燦が着任したばかりで賊はこれを憚っていた。その下した招降令を見て、正道に帰そうとする者がかなりあった。國能はかねて張獻忠と隙があり併呑されるのを恐れており、後にまた左良玉と戦って敗れた。そこで崇禎十一年(1638年)正月四日、率先して随州で招撫に応じ、文燦の前に頓首して「愚民として不義に陥ることほぼ十年、公のおかげで汚れを洗い流し生き直すことができました。願わくは衆をことごとく軍籍に入れ、身は麾下に属して死力を尽くしたい」と言った。文燦は大いに喜んで慰め撫し、守備に署して良玉の軍に隷属させた。國能は約束を守り異心はなかった。
- その後、張獻忠・羅汝才もまた降ったが、みな邑に拠って自ら固め、ただ國能だけが従軍して征討し、たびたび功があった。翌崇禎十二年(1639年)二月、良玉に従って勤王した。詔があって還って賊を討たせ、これを奨励し、兵部に官を授けさせその部下の将士を録し、「獻忠が功を立てられればこれに倣え」と述べた。そこで國能に副總兵を授けた。
- 四月、良玉が南陽に軍を集めて李萬慶を撃ち、國能が分かれて撃つと賊は潰走した。そこで萬慶を招いて降らせた。その秋、獻忠と汝才がともに反したので、文燦は國能に萬慶の兵を率いさせて合同で討たせ、そのままともに鄖陽を守らせた。その後、李自成が河南を騒がせたので、また葉縣の守りに移った。
- はじめ國能が盗であった時、自成・汝才らと結んで兄弟となっていた。國能が正道に帰すると自成らは深くこれを恨んだ。崇禎十四年(1641年)九月、その城を囲んで四面から激しく攻めた。國能は支えきれず城はついに陥ち、捕らえられた。賊はなお好意的に「お前は我が旧友だ、なぜ降らぬ」と言った。國能は目を見開いて罵り、「私は初めお前と同じく賊であったが、今は王臣である。何ゆえ賊に降ろうか」と言い、そのまま殺された。事が聞こえ、左都督・特進榮禄大夫を贈られ、祠が建てられた。
附伝・李萬慶(射塌天)
- 李萬慶は延安の人。崇禎の初め、張獻忠・羅汝才らとともに反した。賊中で射塌天と称される者がこれである。陝西に起こって山西・畿南・河北に広がり、河を渡って河南を荒らし、湖廣・四川に出没し、引き返して鄖陽に赴き、西安に入って車箱峽に閉じ込められ、険を脱してますます暴れ回った。
- 崇禎八年(1635年)春、賊の七十二営が滎陽に集まり、兵を分けてそれぞれの方向に向かうことを議し、萬慶と許可變に馬進忠・横天王を助けて西の陝西の兵に当たらせた。その後、諸方面の賊がことごとく陝西に集まり、総督の洪承疇は年を越えても平定できず、賊はますますほしいままに河南・湖廣に出没した。全部で十五家であった。
- 崇禎十一年(1638年)春に至り、國能と獻忠が降ると、萬慶らは大いに騒いで去り、十三家と改称した。勢いはかなり衰えたが、文燦が兵を徳安に擁したままあえて撃たなかったので、萬慶らはまた大いに振るった。李自成が関中に向かうと、萬慶および馬光玉・馬進忠・羅汝才・恵登相・賀一龍・藺養成・順天王・順義王の九家が最も著しかった。
- 八月、進忠と光玉が潼關で大いに挫かれた。九月、鄖・襄の賊がまた雙溝で大敗した。汝才は九営を率いて均州に走り、萬慶は三営を率いて光・固に走った。十一月、汝才もまた降った。自成もまた関内で大敗し、勢いはますます衰えた。ただ萬慶・光玉・一龍・順天王が最も強かった。しかも萬慶は馬士秀・杜應金が左良玉から奪った賄賂を得て、富みかつ強く、麻城に営し、信陽に移った。
- 崇禎十二年(1639年)正月、戦って敗れ、應山・徳安に移った。折しも光玉・進忠らがみな大敗し、進忠は恐れて降った。順天王はすでに死に、一龍と養成は深山に潜み、登相は遠く秦・蜀を掠めた。萬慶の勢いはますます孤立した。
- 文燦は良玉に唐縣で撃つよう檄した。姚梁が三営に分けて賊を追い立て、三山に追い込んだ。禆将の王修政は利を追って戦死した。文燦は二営の兵を収め、良玉に内郷で追い詰めさせた。萬慶らは赤眉城・四平岡にあって山に依って塁を構え、降伏を請うた。良玉はその偽りを疑い、文燦に相談した。文燦はさらに諸将の陳永福・羅岱・金聲桓の兵を調えて賈宋に集め、萬慶および光玉・可變を大いに討った。副将の國能も到着し、張家林・七里河から分かれて撃ち、賊は大いに敗走した。
- 良玉は國能に二十騎で偵察に行かせ、あわせて萬慶に降伏を諭させた。萬慶は馳せ参じて心情を打ち明けた。國能はそのまま許州の叛党の于汝虎を捕らえた。内郷城下で降伏した者は四千人。士秀・應金は進忠・萬慶が降ったのを見て恐れ、また帰順した。劉喜才という者が夜に順義王の首を取って献じた。残党は可變を推して主とし、胡可受とともにみな降った。これより群盗は大いに衰えた。
- 五月に至って獻忠が再び叛き、汝才がその一党九営を率いてこれに応じ、また大いに盛んになった。しかし萬慶と進忠は手勢がすでに散っていたので二心はなかった。萬慶は従軍して自ら効すことを願い、國能と同じく餉を給されて、副總兵を授けられ、國能とともに鄖陽を守った。獻忠らがまさに蜀中を大いに乱していたが、鄖の境は無事であった。
- 崇禎十四年(1641年)、獻忠が突如襄陽を陥れたが、鄖の守りは元のままであった。翌崇禎十五年(1642年)正月、総督の汪喬年が賊を討つのに萬慶を従えて襄城に至った。軍が潰えて城に入り、賊が攻め囲んだ。五日固守したが城は陥ち、喬年は死に、萬慶もまた屈せず死んだ。事が聞こえ、都督同知・榮禄大夫を贈られ、襄城に祠が立てられた。
史論
- 贊に曰く。明は末期に至って流賊が蔓延し、国勢はそのまま行き詰まった。威を奮って敵を防ぐ臣がいても、兵は弱く軍費は乏しく、いたずらに賊にその疲弊につけこまれ、敗北と陥落が相次いで、乱と滅亡を救えなかった。艾萬年らのように身を捨てて節義を尽くしたのは悲しむべきことである。これは彼らに勇がなく謀略に習熟していなかったからではない。兵力が消耗して疲れ果て、その上に統率が適切さを欠き、応援が間に合わなかったからである。敗北しないことを求めても、得られようか。