出自と山西での戦い
- 榆林の人。もと塞外からの降卒である。勇敢で将帥の謀に習熟していた。従軍して功があり、官を累ねて山西參將となった。
- 崇禎三年(1630年)冬、総兵の尤世祿に従って河曲で王嘉允を撃ち、力戦して傷を負った。
- 崇禎五年(1632年)、総督の張宗衡に従って臨川・潞安・陽城・沁水で賊を勦し、連勝した。
- 翌崇禎六年(1633年)、巡撫の許鼎臣に従って介休で賊を撃ち、その首領の九條龍を殲滅した。当時、賊は山西を去って輝・林・武陟の山中に遁れ拠っており、約二万余であった。鼎臣は曹文詔を黎城から、大威・猛如虎ら諸将を臯落山から入らせ、賊はたびたび敗れた。まもなく大威を移して平陽を守らせた。
- 崇禎七年(1634年)、巡撫の吳甡が着任して諸将を観察したところ、ただ大威と如虎だけが沈毅で軍事を任せられると見て、これを委任した。その冬、如虎とともに賊の渡河を扼した。
- 高加討が岢嵐に拠って四方に略奪した。翌崇禎八年(1635年)三月、二将が忻・代の山中まで追った。加討は馬上で三十斤の長棒を振るって陣に突入したが、大威が射殺し、その手勢五百人を追撃して斬り、残党はことごとく平定された。甡が二人の忠勇を推薦し、大威は副總兵に進んだ。その冬、賊を扼した功で署都督僉事を加えられた。
山西総兵と鉅鹿の敗戦
- 崇禎九年(1636年)八月、畿輔が兵を被ったので、師を率いて入援した。翌崇禎十年(1637年)春、陝西の賊を援勦するよう命じられ、そのまま王忠に代わって山西総兵官となった。上疏して、諸将が賊を討つにあたっては端数の首級を取ってはならず、捕虜を貪ってはならず、管轄の境界に縛られてはならない、と述べ、帝はこれを採用した。
- 崇禎十一年(1638年)、詔して兵部に諸大将を審査させた。大威は職に称うとして秩を増された。その年の冬、京師が戒厳となり、総督の盧象昇に大威および宣府総兵の楊國柱・大同総兵の王樸を統べて入衛するよう命じた。まもなく象昇に従って転戦し、鉅鹿の賈莊に至って幾重にも包囲され、象昇はそこで死んだ。大威らは包囲を破って脱出した。
- 督師の劉宇亮と総督の孫傳庭はともに、大威と國柱は敢勇で身を重囲に投じ他の将とは違うと述べ、功を立てて自ら償わせるよう乞うた。大威も上章して罪を請うた。しかし帝は従わず、ついにその任を解いた。まもなく従軍して賊を処理するよう命じられた。
河南での転戦と戦死
- 崇禎十四年(1641年)正月、李自成が開封を囲んだ。総督の楊文岳は大威と副将の張徳昌にまず五千人を率いて渡河させたが、賊はすでに囲みを解いて去っていた。そこで河南巡撫の李仙風と偃師で会したが、兵が少ないのであえて賊を撃たず、文岳の軍の到着を待った。賊と鳴臯で戦って大破し、また監軍道の任棟とともに平峪で賊を挫いた。
- 七月、自成および張獻忠・羅汝才が鄧州を攻めた。大威は文岳に従ってこれを撃ち破り、斬首千余級。
- 陝西総督の傅宗龍が関を出て賊を討ち、文岳と大威がこれと合流した。九月、新蔡に宿営して孟家莊に至り、まさに戦おうとした時、秦の帥の賀人龍の軍がまず潰え、大威の軍も潰えて沈邱に奔った。賊は続けて河南の鄧・許を陥れ、再び開封を囲んだ。大威は文岳に従って救援し、賊は引き揚げた。
- 翌崇禎十五年(1642年)二月、軍は郾城に宿営した。督師の丁啟睿と総兵の左良玉がちょうど賊と激戦していた。文岳は大威および馮大棟・張鵬翼らを督して合わせて撃ち、賊は大敗した。十一昼夜にらみ合い、俘虜と斬首は数千に及んだ。賊はそこで東に向かって陳州・歸徳を陥れ、その後また開封を囲んだ。
- 七月一日、啟睿・文岳・大威および良玉・楊徳政・方國安の軍がことごとく集結した。啟睿は急襲しようとしたが良玉が従わず先に逃げ、大威の諸軍も逃げた。帝は大いに怒り、ただちに徳政を誅し、啟睿ら諸人を退けて譴責した。大威はこの時、汝寧に奔り、出て賊の砦を攻めて砲に当たって死んだので、罪を免れた。
- 大威は副将であった頃が最も名声があった。大将となってからは賊の勢いがますます強大になり、率いる兵はわずか数千で大きく挫くことができなかった。しかし身をもって数十戦を経て、ついに王事に死んだので、論者はこれを賢とした。