出自と河北の賊の討伐
- 石埭の人。崇禎年間に昌平副總兵となった。なお、篇首の目次では「易九州」と記すが、本文の表記は「湯九州」である。
- 崇禎六年(1633年)夏、流賊が河北・畿南を大いに騒がせたので、九州に協同で討つよう命じ、左良玉らとともにたびたび賊兵を破った。賊はことごとく河を渡って南下した。その冬、吳城鎮で過天星を大敗させ、斬首四百二十級。闖大王らを五華集まで追ってこれも破り、斬首六百四十余級を得た。
- 崇禎七年(1634年)、嵩縣の潭頭で賊を撃ち、斬首三百二十級。賊は商雒に駐まって再び山西に入ろうと謀った。左良玉が商南で迎え撃ち、九州は部将の趙柱・周爾敬を雒南に遣わして迎え撃たせた。賊は商州まで来て引き返し、その後また閿郷を侵した。九州は病であったので部将の淩元機・胡良翰らを遣わして山狩りをさせたが、みな敗れて戦死した。九州はまもなく山西に救援に赴いた。ほどなく河南での討賊の功により署都督僉事を加えられた。
登封の戦死
- 崇禎八年(1635年)春、弾劾されて官を剥奪され、従軍して功で償うこととなった。洪承疇が入関すると、吳村・瓦屋が商南の賊が内郷・淅川へ抜ける要地であるとして、九州に良玉とともにここを扼させた。まもなく洛陽に移駐した。
- 崇禎九年(1636年)二月、賊が登封の石陽闗に走り、伊・嵩の賊と合流した。九州は良玉と挟撃を約束したが、良玉は途中で引き返した。九州は孤軍千二百人で嵩縣から深く進入し、賊はたびたび敗れた。四十余里を追い詰めたところで誤って深い崖に入り込み、険阻に拠る数万の賊に遭って包囲攻撃を受けた。九州は勢いかなわず、夜に陣を移そうとしたところを賊に乗じられ、ついに戦死した。従孫の文瓊が宮門に伏して三度上書し恤典を請うたが返答はなく、文瓊も後に殉難した。
附伝・楊正芳
- 楊正芳という者は、天啓年間に下級将校として従軍し、たびたび貴州の賊を討ち、功を積んで副總兵に至った。桃紅壩の功を叙されて署都督同知を加えられた。崇禎三年(1630年)、定番の叛いた苖を撃破した。
- 崇禎七年(1634年)、賊が當陽を陥れると、正芳は鎮筸の兵を率いて班鳩灘で賊を破り、その城を回復した。湖廣巡撫の唐暉は献陵と恵藩を重んじ、正芳と総兵の許成名に荊州・承天を専ら護らせた。正芳は金沙鋪・蓮花坪・白溝坪・官田・石門山の勝利を続けて奏上した。陳竒瑜が鄖陽に出師すると、正芳は成名・鄧圯とともに竹山・竹谿・白河から道を分けて進み、いずれも大きな戦果を得た。
- 十月に至り、正芳は筸の兵千余を率いて雒南を救援したが敗れ、部将の張上選とともに戦死し、一軍はことごとく壊滅した。太子少師・左都督を贈られ、指揮同知を世襲の廕とし、さらに一子に守備を廕し、祭葬を賜り、役所が祠を建てた。
附伝・楊世恩
- 楊世恩という者は、崇禎年間に湖廣副總兵を歴任した。崇禎七年(1634年)春、竹谿で賊を破った。大雨で山の水が急激に出て賊の多くが流されて溺死し、残りは潰走した。世恩は素早く撃って鎮山虎ら四十余人を斬った。その後、石河口まで賊を追い、康家坪・蚋溪で連戦して功が最も高かった。
- 崇禎八年(1635年)、孝感で賊を破った。崇禎九年(1636年)春、祖寛が滁州で賊を大破すると、世恩は盧象昇に従って馳せつけ、さらに大破した。崇禎十年(1637年)春、秦翼明とともに細石嶺で劉國能を破り、その首領の新來虎を捕らえた。賊が随州を陥れたため、罪を負って自ら償うよう責められた。
- 崇禎十二年(1639年)冬、督師の楊嗣昌が宜城を守らせた。折しも賊の羅汝才・恵登相が興山・逺安に分屯し、夷陵が急を告げた。嗣昌は世恩と荊州守将の羅安邦に救援を檄したが、洋坪・猴兒洞まで来ると道がはなはだ険しく、嗣昌は再び檄を出して召還しようとした。しかし安邦は祚峪から、世恩は重陽坪から、すでに二方向に深く進入しており、馬良坪で合流する約束であった。汝才・登相は香油坪でこれを包囲した。嗣昌は数道の兵を続けて出して救援させたが、いずれも道が遠くて進めなかった。世恩らは長く囲まれ、包囲を突いて黄連坪に走ったが、そこは水のない絶地で、兵は飢えと渇きに苦しんだ。賊が至って両軍ともことごとく壊滅し、世恩と安邦はともに死んだ。