明史卷二百六十 列傳第一百四十八 張任學

文吏から河南總兵へ

  • 安岳の人。天啟五年(1625年)進士、太原知縣を授かり、才によって榆次に調された。崇禎四年(1631年)治行卓異に挙げられ、入って御史となり、蜀中の私税・催科・訟獄の三大苦を陳べ、帝は飭めてこれを行わせた。出て両浙の塩法を視、数条にわたって利弊を奏した。
  • 八年(1635年)流賊が鳳陽を陥すと、詔して巡按の吴振纓を逮え、任學に往って代われと命じた。還朝してまた河南を按じ、監軍して賊を討った。当時、群盗は縦横し、諸將は縮朒して敢えて撃たなかった。任學は慨然として「事に難を辞さぬのが臣の職だ。賊の勢いがこうなのに、我らが雍容として坐鎮していられようか」と言った。
  • 十一年(1638年)二月、上疏して諸將を極めて詆り、武階に易えて自ら干戈を執り国のために賊を平げたいと請うた。帝は壮として吏部・兵部および都察院に下して議させた。諸議臣は「文吏で武職に改まった者はない」として、なお監軍御史のまま總兵の事を兼ねさせるよう請うたが、帝は従わず、署都督僉事を授けて河南總兵官とした。
  • 河南には元来總兵がなく、左良玉・陳永福が客兵として援剿に備えていたが、ここに至って大將が特設された。ところが麾下に一人の官兵もない。兵部はそこで署鎮の許定國の兵を授け、參將の羅岱を中軍とさせた。岱は健將でしばしば戦功があり、任學はこれを倚みとして自ら強めた。

中原の転戦と免職

  • 時に熊文燦は専ら撫を主とし、劉國能・張獻忠はともに降ったが、羅汝才・馬進忠・李萬慶らは元のとおり中原を躙った。河南の人で塢壁に拠って自ら保つ者が数十あったが、賊はことごとく摧破し、息縣・光州に踞って人を磔して汝水に投じ、水は赤くなった。任學は大きな痛手を与えられなかった。進忠は勢いが衰えると佯って撫を求め、文燦および巡撫の常道立が許したので、隙に乗じて逸れ去った。事が聞こえて任學は文燦・道立とともに秩を鐫られた。
  • 七月、任學は岱らを督して羅山に赴き、左良玉の軍と合して汝才・萬慶および紫微星・順義王を撃って大敗させ、五十里追奔して斬首一千四百餘、黑虎狼・滿天星を獲た。賊は遂平へ奔った。
  • 九月、進忠が開封を寇して瓦子坡に至ると、岱が奮撃し、賊はことごとく輜重を棄てて大隗山に遁れ、その妻子を獲た。
  • その冬、京師が戒厳となり、任學は入衛の途中で文燦に謁して「獻忠は狼子野心、ついには国の患いとなる。勤王を名として出れば不意を突いて立ちどころに縛れる」と言ったが、文燦は用いることができなかった。畿南に抵ると却り還れとの詔があった。巡撫の道立が良玉の兵を陝州に調え、賊が盧氏の虚に乗じて内郷・浙川に遁れ入ったので、文燦に劾された。翌年、道立の名を除き、任學も一秩を鐫られた。
  • 遊擊の宋懷智・都司の孔道興が再び賊を陳州で破り、部將の王應龍・尤之龍らが賊を襄城で破って五戦みな勝ち、副將の岱が應龍・懷智らとともにまた賊を葉縣で破り、十日に八捷を奏した。帝は所司に核実させた。ついで賊を裕州で挫いたが、このとき總兵の孫應元・黄得功が京軍を統べて賊を討ちしばしば大捷を奏し、凱旋して功を録したので、任學も叙して二秩を復した。
  • ついで左良玉・陳洪範とともに李萬慶を内郷に蹙めた。萬慶がまさに降ろうとしたとき獻忠がすでに叛いたので、文燦は河南の軍をことごとく調えて援剿させ、独り任學だけが汝南に留まった。川貴總督の李若星が文燦の撫を主とする謬りを論じ、任學の原官を復して大將を摂行し軍事を督察させよと請うたが、従われなかった。
  • 七月、獻忠が汝才と合して房縣から西へ走り、岱は良玉とともにこれを追った。良玉は岱を前鋒とし、自らはその後に随った。羅□(底本欠字)山に至って軍は食を乏しくし、賊が要害に伏兵を置いた。岱は副將の劉元捷と鼓勇して直上したが、伏が四方から起こった。岱の馬は足を藤に絓られ、刀を抽いて断ち、蹶いてまた進み、馬を棄てて歩闘したが、久しくして矢が尽き賊に陥った。良玉の軍もまた大敗した。事が聞こえて任學は坐して職を褫われた。十五年、言官が廃を起こすよう請い、任學もその中にあったが、用いられぬうちに卒した。

史論

  • 贊に曰く。流賊が毒を肆にしたのは、禍が楊鶴に始まり、陳奇瑜で成り、熊文燦・丁啓睿で熾んになった。しかも練國事・鄭崇儉が先にその罰に罹り、邵㨗春・俞應桂(余應桂の誤りか)もあるいは死にあるいは戍された。疆場では剿と撫が乖き、廟堂では賞罰が当たらず、師を僨し寇を玩んで賊勢は日ごとに張った。これを人の謀の臧からぬところが実にそうさせたのではない、と言えようか。