明史卷二百六十 列傳第一百四十八 楊鶴

武陵の人、字は修齡。萬厯三十二年の進士で、御史として壅蔽を論じ、貴州巡按としては土官の籍を整えて簿牒を明らかにした。サルフの敗後には熊廷弼らを薦めて遼事の失を経略・輔臣・樞部・至尊に分けて論じ、そのため天啟年間に魏忠賢から廷弼を庇う党と見なされて除名された。崇禎元年、「治を図る要は元気を培うにあり」と説いて時人に名言とされ、武之望に代わって陝西三邊總督となったが、清望はあっても兵を知らず、流賊にはもっぱら招撫で臨んだ。神一魁ら諸賊の降を受け入れて赦し官を与えたが、賊は佯降で總督を児戯のように見なし、中部・耀州で再叛して撫局は破綻した。吴甡に「撫を主として国を誤った」と覈奏され、逮えられて袁州に戍され、崇禎八年冬に戍所で死んだ。子は楊嗣昌。

年表(9件)

篇首の立伝者一覧

  • 楊鶴(從弟の鶚を割注で附す)
  • 陳奇瑜(元黙を割注で附す)
  • 熊文燦(洪雲蒸を割注で附す)
  • 練國事
  • 丁啓睿(從父の魁楚を割注で附す)
  • 鄭崇儉(方孔炤・楊一鵬を割注で附す)
  • 邵捷春
  • 余應桂
  • 髙斗樞
  • 張任學

出自と言官・巡按の時代

  • 字は修齡、武陵の人。萬厯三十二年(1604年)の進士。雒南知縣を授かり長安に調される。
  • 四十年(1612年)御史に擢せられ、東宮の講学を請う疏を上げ、あわせて言った。このごろ愛女は宮奴に躙られ、館甥は朝市で撻を受け、閽を叩いても聞かれず上書しても達しない。壅蔽はきわまっている、と。時に壽寧公主の壻の冉興讓が、掌家宮人の梁盈女・内官の彭進朝らに毆辱され、三たび奏したが達せず、興讓は長安門に冠を掛けて去っていた。それで鶴が言い及んだのである。
  • まもなく出て両淮の塩法を督し、貴州を巡按した。貴州は烏撒に接壤し、川南の敘州を去ること千里で節制が難しい。土官の安雲龍が死ぬと、その族人が霑益の安效良と印を争って兵を構え、三十年ののちついに效良に拠られ、その父の紹慶がまた霑益州に拠った。いずれも川・雲・貴の咽喉である。鶴は烏撒を割いて貴州に隷させれば地が近く節制に便で後患を弭められると請うたが、朝議は決せず、まもなく效良が乱をなして、その言のとおりになった。
  • 貴州の土官は百を数え、水西の安氏が最大であったが、土地・戸口・貢賦の類は籍がなく稽べようがなかった。鶴は宣慰の安位に檄してことごとく籍に著させ、あわせて首領・目把の主名と承襲の源委を悉く列して上らせた。有司はこれより簿牒が明らかになり、奸弊を核べやすくなった。事が竣わると命を待たずに直帰した。
  • 久しくして還朝。楊鎬の四路の師が敗れると、鶴は熊廷弼・張鶴鳴・李長庚・薛國用・袁應泰を薦め、遼事の失を言った。彼我を料らずに師を喪い国を辱めた誤りは経略が機宜に諳んじなかったことにあり、馬上に戦を催した誤りは輔臣にあり、調度を聞かず束手無策であった誤りは樞部にあり、至尊が優柔不断であったのはまた至尊の自誤である、と。当事者はその直を悪み、他事にかこつけて逐おうとしたので、疾と称して去った。
  • 父の喪。天啟初、太僕少卿に起用され、右僉都御史に擢せられて南贛を巡撫することとなったが、未任のうちに母の喪に遭った。そのうえ廣寧がまた敗れると、魏忠賢は鶴が党して廷弼を護ったとして鶴の名を除いた。

元気を培うの上言と三邊總督

  • 崇禎元年(1628年)召されて左僉都御史を拜し、左副都御史に進んだ。上言して言った。治を図る要は元気を培うにある。大兵大役と加派が頻仍して公私ともに罄き、小民の元気が傷んだ。遼左・黔蜀で師を喪い律を失い、暴骨が丘をなして、封疆の元気が傷んだ。搢紳が党を構えて互いに傾け、逆奄がこれに乗じて善類を誅鋤し、士大夫の元気が傷んだ。たとえば重病の初め、百脈がまだ調わず風邪が入りやすいようなもので、道は培養にある、と。時人はこれを名言とした。
  • 先に遼左の用兵で逃げた軍は憚って伍に帰らず、相聚まって剽虜していた。ここに至って關中は年ごとに凶作なのに有司が下を恤まず、白水の王二という者が衆を鳩めて面を墨し、澄城に闖入して知縣の張耀采を殺した。これより府谷の王嘉允、漢南の王大梁、階州の周大旺と、群賊が蜂起し、三邊の飢えた軍がこれに応じた。流氛の始まりである。当時は太平が久しく、卒然と兵を被って人に固い志がなく、大吏は賊のことを聞くのを悪んで「これは飢えた民だ、そのうち自ずと定まる」と言っていた。
  • 翌年、總督の武之望が死ぬ。久しく廷臣に往こうとする者がなく、群議が鶴を推した。帝が召見して方略を問うと、「清慎に自ら持し、將卒を撫恤するのみです」と対えた。そこで鶴を兵部右侍郎とし、之望に代えて陝西三邊の軍務を總督させた。至ってみると大梁・大旺・王二はすでに誅滅されていたが、継いで起こる者はいよいよ多かった。
  • 鶴は素より清望があったが兵を知らない。その冬、京師が戒厳となり、延綏・寧夏・甘肅・固原・臨洮の五鎮の總兵官がことごとく勤王に行った。延綏の兵は中道で逃げ帰り、甘肅の兵も譁り、誅を懼れてともに賊に合し、賊はいよいよ張った。

撫局の破綻と失脚

  • 三年(1630年)正月、王左掛らが宜川を攻めたが知縣の成材に却けられ、転じて韓城を攻めた。軍中に帥がなかったので鶴は參政の洪承疇に命じて禦がせ、俘斬三百餘人で囲みは解けた。賊は清澗に走る。鶴は連疏して諸將を鎮に還すよう請うたが果たされず、故將の杜文煥を起こして任じた。
  • 二月、延安知府の張輦と都司の艾穆が賊を延川に蹙め、その魁の王子順・張述聖・姬三兒を降した。別の賊の王嘉允が延安・慶陽を掠めたが、鶴は匿して奏せず、降った賊の王虎・小紅狼・一丈青・掠地虎・混江龍らに免死の牒を給して延綏・河間・曲に安置した。賊の淫掠は元のままで有司は敢えて問えず、寇の患いはここに成ったのである。
  • 七月、嘉允が黄甫・清水・木瓜を陥し、ついで府谷を陥した。文煥が撃って走らせると賊は山西に流入した。すでに撫されていた王左掛が白汝學とともに綏徳州を攻めて内応を謀ったが、事が覚れ、巡按の李應期が承疇と計って左掛らを誅し、綏徳の五十七人がみな死んだ。
  • 十二月、賊の神一元が新安・寧塞・柳樹澗などの堡を攻め陥した。寧塞は文煥の居るところで、宗人が多く死んだ。
  • 翌年(四年、1631年)正月、賊は寧塞を棄てて保安を陥した。一元が死に、弟の一魁が慶陽を囲み合水を陥した。鶴は聞いて寧州に移駐する。一魁は撫を求めて合水知縣の蔣應昌を送り返した。別の賊の拓先齡・金翅鵬・過天星・田近菴・獨頭虎・上天龍らも先後に降った。鶴は城楼に御座を設け、賊が跪拜して万歳を呼び、鶴が聖諭を宣べて誓いを立てさせ、伍に帰るか農に帰るかを命じた。賊は佯って応じ、その場で罪を赦された。群盗はこれより總督を児戯のように見た。
  • 鶴はまた一魁が最も強いというので、その壻を帳中に致して寝起きを共にした。一魁が果たして来ると十の罪を数え、稽首して謝ったのでただちに詔を宣べて赦し、官を与え、その衆四千餘人を寧塞に処して守備の呉宏器に護らせた。文煥は聞いて歎じた。寧塞の役では賊は我を畏れて逃げたが、今は賊が偽って降り、楊公はこれを信じて名城を借して盗の資としている。私の宗人がこの土地で賊と逼って処せようか、と。ついに一族を挙げて去った。
  • 五月、鶴は耀州に移駐。賊が金鎖關を攻め破って都司の王廉を殺した。七月、別の賊の李老柴・獨行狼が中部を攻め陥し、田近菴が六百人で馬欄山を守ってこれに応じたのちに降った。渠の一魁の党の茹成名という者がとりわけ桀驁だったので、鶴は一魁に命じて耀州で誘殺させた。その党は猜疑し懼れて一魁を挟んで叛いた。
  • 御史の謝三賓が「鶴は、慶陽の撫局はすでに畢わり賊は散じ遣られて尽きたと言った。中部の賊はまさか天から降ったのか」と言った。疏が巡按御史の吴甡に下されて覈奏させると、甡は鶴が撫を主として国を誤ったと奏した。帝は怒って鶴を逮えて下獄し、袁州に戍した。
  • 七年(1634年)秋、子の嗣昌が宣大山西總督に擢せられると、疏して辞し「臣の父の鶴は總督として譴めを蒙ってすでに三年、臣はどのような心でまたこの職に居られましょう」と言った。帝は優詔で答えたが鶴の罪は赦さない。八年(1635年)冬、鶴は戍所で卒した。嗣昌が恤を請い、帝は鶴の官を復したが恤は与えなかった。
  • 鶴は初め尤世祿の寧夏大捷の功で兵部尚書・太子少保に進み、世々錦衣千戸を廕んだ。十年、賀虎臣の寧夏破賊の功を叙して太子少傅を追加され、十三年、甘肅の叙功でまた一子を官に任じた。
  • 從弟の鶚は崇禎四年(1631年)の進士。官は御史で才名があり、順天巡撫に擢せられた。京師が陥ちて南に帰り、福王は兵部右侍郎として川湖の軍務を總督させた。