出自と密雲巡撫
- 趙光抃は字を彦清といい、九江德化の人。父の贊化は工部郎中。
- 光抃は天啟五年(1625年)の進士に挙げられた。同郷の曹欽程が魏忠賢に父のごとく仕えて急に太僕少卿を得たとき、光抃はこれに「富貴は一時、名節は千古。君は審らかにされぬわけにいかぬ」と語った。欽程は憎み、その日のうちに贊化を南寧知府に出した。南寧は悪地で、贊化は失意のうちに死んだ。光抃は喪に奔って帰った。
- 崇禎の初め、服喪を終えて工部都水主事に除せられ、兵部職方郎中を歴任した。
- 十年(1637年)秋、薊遼の戎務を閲するよう遣わされ、辺塞の形勢と戦守の機宜をことごとく把握し、十二事を列挙して献じた。
- 翌年冬、大清の兵が密雲に入り、総督の吳阿衡が敗れて没した。廷議は巡撫一人を増設して密雲に駐させることにし、光抃を右僉都御史に抜擢してこれに任じた。
- 着任するとすぐ監視中官の鄧希詔の奸謀を暴いた。帝は希詔を召し還し、分守中官の孫茂霖に事実を核べさせたが、茂霖は希詔のために弁解し、光抃はかえって罪を得て広東に遣戍された。
薊遼総督と処刑
- 十五年(1642年)、兵事がいよいよ厳しくなり、廷臣が光抃を薦めて復官させた。光抃の家はもとより富裕で、命を聞くと数万金を持って入都し軍資とした。
- 至って德政殿で召見され、奏対が旨に称ったので、兵部右侍郎兼右僉都御史に拝し、薊州・永平・山海・通州・天津の諸鎮の軍務を総督させた。
- ところが大清はすでに薊州を克ち、兵を分けて四方に出ていた。光抃に諸路の援軍を兼督するよう命じたが、諸援軍は様子をうかがい、河間より南はみな守りを失った。光抃は敢えて救わず、後を追って南へ行き、そのうち塞上の警を聞いてまた駆り立てられて北へ向かった。廷臣は重ねて章を上げて光抃を弾劾し、「列城が攻められても救わず、高陽まで退き返して沈没を坐視した」と言った。
- 翌年、また光抃と范志完を論じた。四月、大清の兵が北へ旋るとき、光抃・唐通・白廣恩ら八鎮の兵が螺山で邀撃したが、みな敗走した。帝は聞いて大いに怒り、戒厳が解けると志完とともに譴めを受けた。
- 帝が雷縯祚を召見したとき、縯祚は志完をそしり光抃を称えた。帝は「志完と光抃は河間で逗留した。ひとり志完だけを罪して、彼が心服しようか」と言い、そこであわせて光抃を逮えた。
- 光抃はかつて廣恩を薦めたが、廣恩は召しに抗って赴かなかった。帝はこれによっていよいよ光抃を憎み、ついに志完と同じ日に西市で斬られた。
- 光抃は才気豪邁であったが、大きな慮りにはやはり疎かった。職方にあったときは尚書の楊嗣昌に深く頼りにされ、「私は光抃に及ばぬ」と言われた。
- これより先、毛文龍が東江に拠って海疆はこれを頼りにしていたが、文龍が死んで陳繼盛・黄龍・沈世魁が代わって以来、その部下はしばしば乱をなし、中朝もまたかねて餉を費やすことを憂えていた。世魁が死んで島中に帥がいなくなったとき、光抃は嗣昌を慫慂して撤させた。二十年の積患が一朝にして除かれたが、辺の計としてはやはり誤りであった。
- 光抃は文士ながら胆決があった。かつて敵に遭って諸将が奔ろうとしたとき、光抃は地に坐して立たず、久しくしてようやく引いて帰った。しかし戍所から起用されたので将士と互いに習熟しておらず、にわかに大敵に遭うと先に胆を落としたため、当たるところ常に敗れた。
- とはいえ破軍の後を承けて事を受け、身をもって先んじて傷を負いながら、志完と同じく誅されたので、人はみな冤としていた。福王のとき太僕の萬元吉が奏してその官を復した。