明史卷二百五十九 列傳第一百四十七 袁崇煥

東莞の人、字は元素。萬厯四十七年の進士で、老兵に塞上の事を聞いて回るほど辺才を自任した。広寧潰敗の後、単騎で山海関の内外を巡って「軍馬と銭穀さえあれば一人で守れる」と言い、抜擢されて関外の軍を監した。孫承宗の支持を得て寧遠に築城し、高第が関外放棄を命じたときも「ここに官たる以上ここで死ぬ」と拒んで留まり、天啟六年正月の寧遠の戦いで西洋の巨砲を用いて大清の軍を初めて退けた。遼東巡撫として和議を旁着に用いつつ錦州・大凌河などを修築し、寧錦の戦いののち魏忠賢一党に「暮気」と論じられて辞した。崇禎帝の即位で召され、平台の召見で「五年で全遼を復す」と約して薊遼督師となり、毛文龍を独断で誅した。己巳の変では千里を馳せて京師を護ったが、和議と擅殺を口実に離間の計が加わって詔獄に下され、崇禎三年八月に市で磔にされた。天下はこれを冤とし、その死をもって辺事はいよいよ人を欠いた。

年表(16件)
  • 萬厯四十七年1619年進士に及第し、邵武知県に授けられる
  • 天啟二年1622年正月に兵部職方主事へ抜擢され、単騎で山海関を閲して関外の軍を監することとなる
  • 天啟三年1623年九月、孫承宗が寧遠を守ることを決し、崇煥が規制を定めて築城を督する
  • 天啟四年1624年九月に馬世龍らと広寧を巡り、五防の労を叙して兵備副使に進む
  • 天啟五年1625年夏に錦州・松山・右屯などへ将を分け、疆を開くこと二百里を復す
  • 天啟六年1626年正月、寧遠に迫った大清の軍を西洋の巨砲で撃退し、右僉都御史に抜擢される
  • 天啟六年1626年三月に遼東巡撫となり、太祖高皇帝の崩御に使を遣って和を議する
  • 天啟七年1627年五月十一日からの錦州・寧遠の攻防を凌ぎ、寧錦の大捷と称される
  • 天啟七年1627年七月、魏忠賢一党に「暮気」と論じられて帰郷を許される
  • 崇禎元年1628年四月に薊遼督師となり、七月の平台の召見で五年での全遼恢復を約す
  • 崇禎元年1628年八月に関へ着いて寧遠の兵変を鎮め、首謀者らを戮して一方を靖める
  • 崇禎二年1629年閏四月、春秋両度の防の功を叙して太子太保を加えられる
  • 崇禎二年1629年六月五日、雙島で毛文龍を斬り、その衆を四協に分ける
  • 崇禎二年1629年十一月十日に薊州へ入衛し、のち広渠門外に営して大軍と戦う
  • 崇禎二年1629年十二月朔、召対の場で縛られて詔獄に下される
  • 崇禎三年1630年八月、市で磔にされ、兄弟妻子は三千里に流される

出自と関外の任

  • 袁崇煥は字を元素といい、東莞の人。萬厯四十七年(1619年)の進士。邵武知県に授けられた。人となりは慷慨で胆略を負い、好んで兵を談じ、老いた校尉や退いた卒に会えばいつも塞上の事を論じ、その要害の情勢に明るく、辺才をもって自ら任じた。
  • 天啟二年(1622年)正月、朝覲で都にいたとき、御史の侯恂が破格の起用を請い、そこで兵部職方主事に抜擢された。
  • まもなく広寧の師が潰え、廷議は山海関を扼することにした。崇煥はすぐさま単騎で出て関の内外を閲した。部中では袁主事を見失って訝しみ、家人もどこへ行ったか知らなかった。やがて朝に還り、関上の形勢を詳しく述べて「私に軍馬と銭穀を与えてくださるなら、私一人でここを守るに足ります」と言った。廷臣はますますその才を称え、そこで僉事に飛び越えて抜擢して関外の軍を監させ、帑金二十万を発して募兵させた。
  • 当時、関外の地はすべて喀喇沁の諸部に占拠されていたので、崇煥は関内に駐守した。まもなく諸部が款を受けると、経略の王在晉は崇煥を中前所に移駐させて参将の周守亷、遊撃の左輔の軍を監させ、前屯衛の事を経理させた。ついで前屯に赴いて失業した遼人を安置させたところ、崇煥はその夜のうちに荆棘と虎豹の中を行き、四鼓に城に入った。将士でその胆を壮としない者はなかった。在晉は深くこれを頼りにし、寧前兵備僉事に推挙した。
  • しかし崇煥は在晉に遠謀がないとしてこれを軽んじ、その令を全うは遵わなかった。在晉が八里鋪に重城を築くことを議したとき、崇煥は策でないとして争ったが容れられず、首輔の葉向髙に書を送った。
  • 十三山の難民十余万が久しく困って出られなかったとき、大学士の孫承宗が辺を巡った。崇煥は五千人を将いて寧遠に駐し、十三山の勢を壮んにし、別に驍将を遣って救うことを請い、「寧遠は山から二百里、都合よければ進んで錦州に拠り、否なら退いて寧遠を守る。どうして十万の人を度外に置いておけようか」と言った。
  • 承宗が総督の王象乾に謀ると、象乾は「関上の軍はいま気を喪っている」として、関を護る察罕部の兵三千を発して往かせることを議した。承宗も然りとして在晉に告げたが、在晉はついに救えず、衆はついに没して脱れ帰った者はわずか六千人であった。
  • 承宗が重城の議を駁して将吏を集め守るべきところを謀ったとき、閻鳴泰は覚華を主張し、崇煥は寧遠を主張し、在晉および張應吾・邢慎言は不可と持したが、承宗はついに崇煥の議を採った。
  • ついで承宗が関門を鎮するに及び、いよいよ崇煥を頼りにした。崇煥は内は軍民を撫し、外は辺備を整え、労績は大いに著れた。
  • 崇煥はかつて虚しい伍を調べて一人の校尉を即座に斬った。承宗は怒って「監軍が専断で殺してよいのか」と言い、崇煥は頓首して謝した。法を用いるに果断であることはこの類であった。

寧遠の築城と守り

  • 三年(1623年)九月、承宗が寧遠を守ることを決した。僉事の萬有孚・劉詔が力をこめて阻んだが聴かず、満桂に命じて崇煥とともに往かせた。
  • はじめ承宗は祖大寿に寧遠城を築かせたが、大寿は中朝が遠くを守れまいと見て、わずか十分の一しか築かず、しかも薄くて規格に合わなかった。崇煥はそこで規制を定め、高さ三丈二尺、雉の高さ六尺、基の幅三丈、上二丈四尺とし、大寿と参将の高見・賀謙が分けて督した。
  • 翌年に工を終え、ついに関外の重鎮となった。桂は良将であり、崇煥は職に勤め城と存亡をともにすると誓い、また将士をよく撫して喜んで力を尽くさせた。これによって商旅が集まり、流民が寄り集い、遠近から楽土と見られた。
  • 父の喪に遭ったが奪情して事を視た。
  • 四年(1624年)九月、大将の馬世龍・王世欽とともに水陸の馬歩軍一万二千を率いて東のかた広寧を巡り、北鎮の祠に謁し、十三山を経て右屯に至り、水路から三岔河を泛って還った。まもなく五防の労を叙して兵備副使に進み、さらに右参政に進んだ。
  • 崇煥は東巡のとき、ただちに錦州・右屯の諸城を回復するよう請うたが、承宗は時期尚早としてやめさせた。
  • 五年(1625年)夏に至り、承宗は崇煥と計って将を分けて錦州・松山・杏山・右屯および大凌河・小凌河に拠らせ、城郭を繕って居らせた。これより寧遠は内地となり、疆を開くこと二百里を復した。
  • 十月、承宗が罷めて高第が代わりに来た。「関外は必ず守れぬ」と言い、錦州・右屯の諸城の守具をことごとく撤して、その将士を関内に移させた。
  • 督屯通判の金啟倧が崇煥に上書して言った――錦州・右屯・大凌の三城はみな前鋒の要地。もし兵を収めて退けば、すでに安んじた民はまた流離し、すでに得た封疆はまた沈む。関の内外、いったい何度退いて守れましょうか、と。
  • 崇煥もまた力をこめて争って言った――兵法には進むことはあっても退くことはない。三城はすでに復した。どうして軽々に撤せようか。錦州・右屯が動揺すれば寧遠・前屯は震え驚き、関門もまた保障を失う。いまはただ良将を択んで守らせれば必ず他の憂いはない、と。
  • しかし高第の意は堅く、しかも寧遠・前屯の二城まで撤そうとした。崇煥は「私は寧前の道である。ここに官たる以上ここで死ぬ。私は必ず去らぬ」と言った。第はどうすることもできず、そこで錦州・右屯・大凌河・小凌河および松山・杏山・塔山の守具を撤し、屯兵をことごとく駆って関に入れ、米粟十余万を委棄した。死者は路に満ち、哭声は野を震わし、民は怨んで軍はいよいよ振るわなくなった。
  • 崇煥はそこで喪に服することを乞うたが許されなかった。十二月、按察使に進み、事を視ることは元のとおりであった。

寧遠の戦い

  • 我が大清は経略が与しやすいと知り、六年(1626年)正月、大軍を挙げて西のかた遼河を渡り、二十三日に寧遠に至った。
  • 崇煥は聞くとすぐ大将の満桂、副将の左輔・朱海、参将の祖大寿、守備の何可剛らとともに将士を集めて死守を誓った。崇煥はさらに血を刺して書を作り、忠義をもって激励し、そのために拝した。将士はみな死を効すことを請うた。
  • そこで城外の民居をことごとく焼き、守具を携えて城に入り、清野して待った。同知の程維楧に奸を詰めさせ、通判の啟倧に守卒の食を整えさせ、道を閉ざして行人を通さず、前屯守将の趙率教、山海守将の楊麒に檄して、逃げてきた将士はことごとく斬らせた。人心はようやく定まった。
  • 翌日、大軍が進み攻め、楯を戴いて城を穴とうとし、矢石でも退けられなかった。崇煥は閩の卒である羅立に西洋の巨砲を発たせ、城外の軍を傷つけた。翌日また攻めたがまた却けられ、囲みはついに解けた。啟倧もまた砲を燃やしたことで死んだ。
  • 啟倧は小吏から起こって経歴の官となり、賞功の事を主り、勤勉敏捷で志操があった。承宗が重んじて通判に用い、兵馬・銭糧を核べ、城工を督し、軍民の訴訟を理めさせ、大いに衆心を得た。死んで光禄少卿を贈られ、錦衣試百戸の世廕を賜った。
  • はじめ中朝が警を聞いたとき、兵部尚書の王永光が大いに廷臣を集めて議したが、戦守に善策がなく、経略の高第と総兵の楊麒はともに兵を関上に擁して救わなかったので、中外は寧遠は必ず守れぬと言った。崇煥の書が聞こえると朝廷こぞって大いに喜び、ただちに崇煥を右僉都御史に抜擢し、璽書で奨励し、桂らにもそれぞれ秩を進めた。
  • 我が大清は囲みを解いた初め、兵数万を分けて覚華島を掠め、参将の金冠らおよび軍民数万を殺した。崇煥はちょうど城を完うするのに力を尽くしており、救えなかった。
  • 高第は関門を鎮して大いに承宗の政に反し、諸将を辱めたので諸将はみな解体した。楊麒を副将のように遇したので、麒は至って卒に侮られた。このとき援を失した罪に坐し、第と麒はともに官を褫われて去り、王之臣が第に代わり、趙率教が麒に代わった。
  • 我が大清が兵を挙げてから向かうところ摧け破られぬはなく、諸将は戦守を議しようともしなかった。戦守を議したのは崇煥に始まる。

遼東巡撫と和議の試み

  • 三月、再び遼東巡撫を設け、崇煥を充てた。魏忠賢がその一党の劉應坤・紀用らを遣って鎮に出したが、崇煥は抗疏して諫めたものの容れられなかった。功を叙して兵部右侍郎を加え、銀幣を賚われ、錦衣千戸の世廕を賜った。
  • 崇煥は囲みを解いてから志がしだいに驕り、桂と和せず、他鎮へ移すよう請うたので、桂を召し還した。崇煥は之臣の奏によって桂を留めたが、また和せなかった。中朝は事を仕損じることを慮り、之臣に関内を専ら督させ、関外は崇煥に属させ、関を画して守らせた。
  • 崇煥は廷臣が自分を忌むことを虞れて上言した――陛下は関の内外を分けて二臣に責められた。遼人をもって遼土を守り、守りつつ戦い、築きつつ屯し、屯種の収穫によってしだいに海運を減らせる。要は堅壁清野を体とし、隙に乗じて瑕を撃つのを用とする。戦は足りずとも守れば余りがあり、守って余りがあれば戦って足りぬことはない。ただ勇猛に敵を図れば敵は必ず仇とし、奮迅して功を立てれば衆は必ず忌む。労に任ずれば必ず怨みを召き、罪を蒙ってこそ功があり得る。怨みが深くなければ労は著れず、罪が大きくなければ功は成らぬ。謗書が箱に満ち、毀言が日ごとに至るのは、古よりそうであった。ただ聖明が廷臣とともに終始してくださることを願います、と。帝は優旨で褒めて答えた。
  • その冬、崇煥は應坤・紀用・率教とともに錦州・大凌河・小凌河を巡歴し、大いに屯田を興して、しだいに高第の棄てた旧土を復することを議した。忠賢と應坤らはこれによって錦衣の廕を得、崇煥は廕を指揮僉事に進めた。
  • 崇煥はそこで言った――遼左が壊れたのは人心が固まらぬためでもあるが、有形の険を失って人心を固める手立てがなかったことにもよる。兵は野戦に利あらず、ただ堅城に拠り大砲を用いる一策があるのみ。いま山海の四城は新しくなったので、さらに松山の諸城を修めるべきである。班軍四万人は一人も欠かせぬ、と。帝は従うと報じた。
  • これより先の八月中、我が太祖高皇帝が崩御された。崇煥は使を遣って弔い、あわせて虚実をうかがった。我が太宗文皇帝が使を遣って報じられた。崇煥は和を議しようとして、書を使者に附して返報した。
  • 我が大清の兵が朝鮮を討とうとしていたので、崇煥はこれによってその兵を阻み、一意に南下しようとした。
  • 七年(1627年)正月、再び使を遣って答えたが、大清は大いに兵を興して鴨緑江を渡り南のかた討った。朝議は崇煥と之臣が相い能わぬとして之臣を召し還し、経略を罷めて設けず、関の内外をことごとく崇煥に属させ、鎮守中官の應坤・紀用とともに便宜に事を行わせた。
  • 崇煥は鋭意恢復を図り、大軍の出動に乗じて将を遣って錦州・中左・大凌の三城を繕い、また使を遣って書を持たせ和を議した。
  • ちょうど朝鮮および毛文龍がともに急を告げたので、朝廷は崇煥に兵を発して援けるよう命じた。崇煥は水師で文龍を援け、また左輔・趙率教・朱梅ら九将に精卒九千を将いさせ、先後して三岔河に迫って牽制の勢を作ったが、朝鮮はすでに大清に服したので、諸将は還った。
  • 崇煥が初め和を議したとき中朝は知らなかったが、奏報に及んで優旨で許された。後に計でないとして、しばしば旨を下して戒諭したが、崇煥はこれを藉りて旧疆を修めようとし、持することいよいよ力を入れた。しかし朝鮮および文龍が兵を受けたので、言官は和議の招いたところだと言った。
  • 四月、崇煥は上言した――関外の四城は延び広がって二百里といっても、北は山を負い南は海に阻まれ、広さは四十里にすぎぬ。いま兵六万を屯し、商民は数十万。地は狭く人は稠密で、どこから食を得ようか。錦州・中左・大凌の三城の修築は必ずやめられぬ。すでに商民を移して広く屯種を開いた。もし城が完成せぬうちに敵が至れば、勢い撤して還らざるを得ず、成りかけの功を棄てることになる。ゆえに敵が江東に事あるのに乗じ、しばらく和の説でこれを緩めたのである。敵が知るころには三城はすでに完成し、戦守はまた関門の四百里外にあって、金湯はいよいよ固くなっている、と。帝は優旨で報聞した。

寧錦の戦いと辞職

  • 当時、率教は錦州に駐して築城を護っていたが、朝廷は尤世禄を代わりに来させ、また左輔を前鋒総兵官として大凌河に駐させた。世禄がまだ着かず、輔がまだ大凌に入らぬ五月十一日、大清の兵がまっすぐ錦州に至り、四面から囲んだ。
  • 率教は中官の紀用とともに城に籠って守り、使を遣って和を議し、援師を待って救いを求めようとした。使は三度往復したが決せず、囲みはいよいよ急となった。
  • 崇煥は寧遠の兵を動かせぬとして、精騎四千を選んで世禄・大寿に将いさせ、大軍の後ろに回り出て決戦させ、別に水師を東に出して牽制させ、あわせて薊鎮・宣府・大同の兵を東に発して関門を護るよう請うた。朝廷はすでに山海の満桂を前屯に、三屯の孫祖寿を山海に、宣府の黒雲龍を一片石に、薊遼総督の閻鳴泰を関城に移し、また昌平・天津・保定の兵を発して上関に馳せ赴かせ、山西・河南・山東の守臣に檄して兵を整え調を待たせていた。
  • 世禄らが出発しようとしたとき、大清はすでに二十八日に兵を分けて寧遠に趨いていた。崇煥は中官の應坤、副使の畢自肅とともに将士を督して城壁に登って守り、濠の内に営を並べ、砲を用いて拒み撃った。桂・世禄・大寿は城外で大いに戦い、士に死者が多く、桂は身に数矢を受けた。
  • 大軍もまもなく引き去り、兵を増して錦州を攻めたが、蒸し暑さのため克てず、士卒に損傷が多く、六月五日にこれも引き還り、そのついでに大凌河・小凌河の二城を毀った。時に寧錦の大捷と称され、桂と率教の功が多かった。
  • 忠賢はそこで一党に「崇煥は錦州を救わなかった。暮気(気力の衰え)である」と論じさせた。崇煥はそこで休を乞うた。中外がまさに競って忠賢を頌えていたので、崇煥もやむを得ず祠を建てることを請うたが、ついに喜ばれなかった。
  • 七月、ついにその帰郷を許し、王之臣を代わりに督師兼遼東巡撫として寧遠に駐させた。
  • 功を叙するに及び、文武で秩を増し廕を賜った者は数百人、忠賢の子まで伯に封じられたのに、崇煥はただ一秩を増しただけであった。尚書の霍維華は不平として上疏し、自分の廕を譲ろうと乞うたが、忠賢は許さなかった。

崇禎帝の召見と五年復遼の約

  • まもなく熹宗が崩じ、莊烈帝が即位して忠賢は誅せられ、功を冒した者は削られた。廷臣は争って崇煥を召すよう請い、その年十一月、右都御史に抜擢して兵部添注左侍郎の事を視させた。
  • 崇禎元年(1628年)四月、兵部尚書兼右副都御史として薊遼を督師し、あわせて登莱・天津の軍務を督するよう命じられ、担当官が促して道に上らせた。
  • 七月、崇煥が入都してまず兵事を奏陳した。帝は平台に召見して慰労すること至れり尽くせりで、方略を諮った。崇煥は「方略はすでに疏中に具えております。臣は陛下の格別のご眷顧を受けました。便宜を許していただければ、五年で全遼を復せる計算です」と答えた。帝は「遼を復すれば朕は侯に封ずるのを惜しまぬ。卿よ努めて天下の倒懸を解け。卿の子孫もまたその福を受けよう」と言い、崇煥は頓首して謝した。
  • 帝が退いて少し憩ったとき、給事中の許譽卿が五年の策を問うた。崇煥は「聖心が焦り労しておられるので、まあこれで慰めたまでだ」と言った。譽卿は「上は英明であられる。どうして漫然と答えられようか。後日、期を按じて効を責められたらどうなさる」と言った。崇煥は憮然として自失した。
  • ほどなく帝が出ると、崇煥はすぐ奏して言った――東の事はもともと容易に終えられませぬ。陛下がすでに臣に委ねられた以上、臣がどうして難を辞せましょう。ただ五年のうちは、戸部が軍餉を転じ、工部が器械を給し、吏部が人を用い、兵部が兵を調え将を選ぶ、この中外の事々が相応じてこそ済うところがあります、と。帝はそのために四部の臣を整えさせた。
  • 崇煥はまた言った――臣の力で全遼を制するには余りがありますが、衆口を調えるには足りませぬ。ひとたび国門を出れば万里を隔てます。能を忌み功を妬む者がどうしていないと申せましょう。たとえ権力で臣の肘を掣かずとも、意見で臣の謀を乱すことはできます、と。帝は立ち上がって傾聴し、「卿は疑い慮ることはない。朕に自ら主持がある」と諭した。
  • 大学士の劉鴻訓らが之臣・満桂の尚方剣を収め還して崇煥に賜り、便宜を許すよう請い、帝はことごとくこれに従った。崇煥に酒饌を賜って退出させた。
  • 崇煥は、これ以前に熊廷弼・孫承宗がみな人に排され構えられてその志を遂げられなかったことを思い、上言した――恢復の計は、臣が昔年に申した「遼人をもって遼土を守り、遼土をもって遼人を養う」「守を正着とし、戦を奇着とし、和を旁着とする」の説の外に出ませぬ。法は漸にあって驟にあらず、実にあって虚にあらず。これは臣と諸辺臣のなし得るところ。ただ人を用いる人と人に用いられる人については、みな至尊がその鍵を司られます。どうすれば任せて二心なく、信じて疑わずにいただけるか。そもそも辺臣を馭するのは廷臣とは異なり、軍中には驚くべく疑うべきことが甚だ多い。ただ成敗の大局を論ずべきで、一言一行の微瑕を摘まれるべきではありませぬ。事の任が重ければ怨みも実に多く、およそ封疆に利ある事はみなこの身に利なきものです。まして敵を図ることが急であれば敵もまた従って離間する。ゆえに辺臣たるは甚だ難い。陛下は臣を愛し臣を知られる。臣がどうして過度に疑い懼れましょう。ただ心に危ぶむところがあり、申し上げずにいられませぬ、と。帝は優詔で答え、蟒玉と銀幣を賜った。崇煥は疏を上げて蟒玉を辞して受けなかった。

寧遠の兵変処理と将領の再編

  • その月、寧遠に戍していた四川・湖広の兵が餉を四か月欠いたことで大いに騒ぎ、残り十三営がこれに応じて起こり、巡撫の畢自肅、総兵官の朱梅、通判の張世榮、推官の蘇涵淳を譙楼の上に縛った。自肅は傷が重かった。
  • 兵備副使の郭廣は着任したばかりであったが、身をもって自肅を庇い、撫賞および朋椿の二万金をかき集めて散じたが満足せず、商民から借りて五万に足してようやく解けた。自肅は疏を上げて罪を引き、中左所に走って自ら縊れて死んだ。
  • 崇煥は八月初めに関に着き、変を聞いて馳せつけ、廣と密かに謀った。首悪の張正朝・張思順を宥し、十五人を捕らえて市で戮させ、謀を知る中軍の吳國琦を斬り、参将の彭簪古を責め、都司の左良玉ら四人を黜け、正朝・思順は前鋒に出して功を立てさせた。世榮・涵淳は貪虐で変を招いたとしてこれも斥けた。ひとり都司の程大樂の一営だけが変に加わらなかったので、特に奨励した。一方はこれで靖まった。
  • 関外の大将は四、五人おり、事はしばしば掣肘された。後に二人を設けることに定め、朱梅に寧遠を、大寿になお錦州を鎮させた。このとき梅が解任されようとしていたので、崇煥は寧遠と錦州を一鎮に合わせ、大寿はなお錦州に駐し、中軍副将の何可剛に都督僉事を加えて梅に代えて寧遠に駐させ、薊鎮の率教を関門に移し、関の内外にただ二大将を置くよう請うた。そして極力この三人の才を称え、「臣が自ら五年を期するのは専らこの三人に藉る。臣と終始をともにすべき者たちである。期に至って効がなければ、臣は手ずから三人を戮し、身は死んで司敗(司法官)に帰します」と言った。帝はこれを可とし、崇煥はそこで寧遠に留まり鎮した。
  • 自肅が死んだのち、崇煥は巡撫を停めるよう請い、登莱巡撫の孫國楨が免ぜられたときも、崇煥はまた罷めて設けぬよう請い、帝もこれを可と報じた。
  • 喀喇沁の三十六家はかねて撫賞を受けていたが、後に察罕に迫られ、しかも年が飢えて叛く志があった。崇煥は辺まで召して親しく撫慰し、みな命を聴いた。
  • 二年(1629年)閏四月、春秋両度の防の功を叙して太子太保を加えられ、蟒衣・銀幣を賜り、錦衣千戸に廕された。

毛文龍(附伝)――東江の鎮

  • 崇煥は事を受けた初めから毛文龍を誅そうとしていた。
  • 文龍は仁和の人。都司として朝鮮に援じ、遼東に逗留した。遼東が失われると海道から遁れ還り、虚に乗じて大清の鎮江守将を襲い殺し、巡撫の王化貞に報じて経略の熊廷弼には及ばなかった。二人の隙はここから開いた。事を用いる者がちょうど化貞を主としていたので、文龍に総兵を授け、累加して左都督に至り、将軍印を掛け、尚方剣を賜り、皮島に軍鎮を設けること内地のごとくにした。
  • 皮島はまた東江ともいう。登莱の大海の中にあって八十里にわたり、草木を生ぜず、南岸から遠く北岸に近い。北岸の海面八十里でただちに大清の界に至り、その東北の海は朝鮮である。
  • 島上の兵はもと河東の民である。天啟元年(1621年)に河東が失われてから民の多くが島中に逃げ、文龍はその民を籠絡して兵とし、哨船を分布して登州と連ね、掎角の計とした。中朝はこれを是とし、島の事はここから起こった。
  • 四年(1624年)五月、文龍は将を遣って鴨緑江に沿い長白山を越えて大清国の東偏を侵したが、守将に撃ち敗られて衆はことごとく殲された。
  • 八月、兵を遣って義州城の西から江を渡らせ、島中に入れて屯田させたが、大清の守将が□(底本欠字)の師を覚り、襲撃して五百余級を斬り、島中の糧はことごとく焼かれた。
  • 五年(1625年)六月、兵を遣って耀州の官屯寨を襲ったが敗れて帰った。
  • 六年(1626年)五月、兵を遣って鞍山駅を襲ったが卒千余を喪い、数日を越えてまた兵を遣って薩爾滸を襲い城の南を攻めたが、大清の守将に却けられた。
  • 七年(1627年)正月、大清の兵が朝鮮を征し、あわせて文龍を討ち払うことを図った。三月、大清の兵が義州を克ち、兵を分けて夜に鉄山の文龍を衝いた。文龍は敗れて島中に遁げ帰った。
  • 当時、大清は文龍が後ろから付け狙うのを憎み、そのために朝鮮を討ったのであって、朝鮮が文龍を助けたことを兵端としたのである。
  • しかし文龍の居る東江は形勢こそ牽制に足りたが、その人はもとより大略なく、往くたびに敗れ、しかも年ごとに費やす餉は数知れなかった。さらにもっぱら広く商賈を招いて禁物を販売させ、名は朝鮮を済うというが実は勝手に塞を出るもので、事なきときは人参を鬻ぎ布を販ぐのを業とし、事があってもその用に立つことは稀であった。
  • 工科給事中の潘士聞が「文龍は餉を浪費し降を殺した」と弾劾し、尚宝卿の董茂忠が文龍を撤して関寧で兵を治めさせるよう請うたが、兵部は不可と議した。しかし崇煥は心中これを善しとしなかった。
  • かつて部臣を遣って餉を理めさせるよう疏請したが、文龍は文臣の監制を憎んで抗疏して駁したので、崇煥は喜ばなかった。文龍が来謁したとき賓礼で接したのに、文龍はまた譲らなかったので、崇煥の謀はいよいよ決した。

毛文龍の誅殺

  • そこで閲兵を名として海を渡って双島に至った。文龍が来会すると、崇煥は宴飲をともにし、いつも夜半に及んだが、文龍は気づかなかった。
  • 崇煥が営制を改め監司を設けることを議すると、文龍は不機嫌になった。崇煥が帰郷を勧めて動かそうとすると、文龍は「かねてその意はあるが、東の事を知るのは私だけだ。東の事が終われば朝鮮は衰弱している。襲って取れる」と言った。崇煥はますます喜ばなかった。
  • 六月五日、文龍を招いて将士の射を観せた。まず幄を山上に設け、参将の謝尚政らに甲士を幄の外に伏せさせた。文龍が至ると、その部下の卒は入れなかった。
  • 崇煥は「私は明朝出立する。公は海外の重寄を担う身、私の一拝を受けられよ」と言い、交拝を終えて堂に登った。崇煥が従官の姓名を問うと毛姓が多かった。文龍が「これはみな私の孫だ」と言うと、崇煥は笑い、「そなたたちは海外で労を積みながら月の米はわずか一斛と聞く。言うだに心が痛む。これも私の一拝を受けよ。国家のために力を尽くせ」と言った。衆はみな頓首して謝した。
  • 崇煥はそこで文龍の令に違った数事を詰った。文龍が抗弁すると、崇煥は色を厲しくして叱り、冠帯を去らせて縛らせた。文龍はなお倔強であった。
  • 崇煥は言った――そなたには十二の斬罪がある。承知しているか。
  • 祖制では大将が外にあれば必ず文臣に監させる。そなたは一方を専制し、軍馬・銭糧の査核を受けぬ。斬罪の一。
  • 人臣の罪は君を欺くより大きいものはない。そなたの奏報はことごとく欺罔で、降人・難民を殺して功を冒した。斬罪の二。
  • 人臣に将(謀反の心)はあってはならず、あれば必ず誅す。そなたは奏に「登州で馬を牧し南京を取るのは手のひらを返すごとし」の語があった。大逆不道である。斬罪の三。
  • 毎年の餉銀は数十万なのに、兵に給せず、月にわずか米三斗半を散ずるだけ。軍糧を侵盗した。斬罪の四。
  • 擅に馬市を皮島に開き、私かに外藩と通じた。斬罪の五。
  • 部将数千人にことごとく自分の姓を冒させ、副将以下に濫りに劄付を給すること千に及び、下働きや輿夫まで金緋を着けている。斬罪の六。
  • 寧遠から還ってのち商船を剽掠し、自ら盗賊となった。斬罪の七。
  • 民間の子女を強いて取ること際限を知らず、部下も倣って人は室に安んじられぬ。斬罪の八。
  • 難民を駆って遠く人参を盗ませ、従わねば餓死させ、島上に白骨が草むらのように積まれた。斬罪の九。
  • 金を京師に運んで魏忠賢を父と拝し、冕旒の像を島中に塑った。斬罪の十。
  • 鉄山の敗で軍を喪うこと数知れぬのに、敗を掩って功とした。斬罪の十一。
  • 鎮を開いて八年、寸土も復せず、傍観して敵を養った。斬罪の十二。
  • 数え終わると、文龍は魂魄を喪って言葉が出ず、ただ頓首して免を乞うた。
  • 崇煥はその部将を召し諭して「文龍の罪状は斬るべきか否か」と言った。みな恐れてただ唯々と応じた。中に文龍の数年の労苦を称える者がいたので、崇煥は叱って言った――文龍は一介の布衣であった。そなたたちの官は極品に至り、一門が封廕された。労に酬いるに足りよう。どうしてこれほど悖逆なのか、と。
  • そこで頓首して旨を請うて言った――臣は今、文龍を誅して軍を粛します。諸将の中に文龍のような者があればことごとく誅されよ。臣が功を成せねば、皇上もまた文龍を誅した者として臣を誅されよ、と。
  • ついに尚方剣を取って帳前でこれを斬った。そして出てその将士に諭して「誅すのは文龍だけ、他に罪はない」と言った。
  • このとき文龍の麾下には健校・悍卒が数万いたが、崇煥の威を憚って一人も動く者がなかった。
  • そこで棺を命じて文龍を斂め、翌日、犠牲と甘酒を具えて拝奠して言った――昨日そなたを斬ったのは朝廷の大法。今日そなたを祭るのは僚友の私情である、と。そして涙を落とした。
  • その卒二万八千を分けて四協とし、文龍の子の承祚、副将の陳繼盛、参将の徐敷奏、遊撃の劉興祚にこれを主らせた。文龍の勅・印・尚方剣を収め、繼盛に代わって掌らせ、軍士を犒い、諸島に檄して撫し、文龍の虐政をことごとく除いて鎮に還った。
  • その状を上聞し、末尾に「文龍は大将で臣が擅に誅せる者ではありませぬ。謹んで藁に席して罪を待ちます」と言った。時に崇禎二年(1629年)五月であった。
  • 帝は突然聞いて意はことのほか驚いたが、すでに死んだことと、しかも崇煥を頼りにしているところであったので、優旨で褒めて答え、ほどなく諭を伝えて文龍の罪を暴いて崇煥の心を安んじ、京師に潜む文龍の爪牙は担当官に捕らえさせた。
  • 崇煥は上言した――文龍は一匹夫でありながら不法がここに至った。海外は乱をなしやすいからである。その衆は老幼を合わせて四万七千、妄りに十万と称し、しかも民が多く兵は二万に及ばぬのに、妄りに将領を設けること千。いま改めて帥を置くべきではなく、繼盛に摂らせるのが計として便宜です、と。帝はこれを可と報じた。
  • 崇煥は文龍を誅したものの、その部下が変を起こすことを慮って餉銀を十八万に増した。しかし島の弁は主帥を失って心がしだいに離れ、いよいよ用いられなくなり、その後には叛き去る者まで出た。
  • 崇煥は言った――東江の一鎮は牽制に必ず要るものである。いま二協に定め、馬軍十営・歩軍五営、歳の餉銀四十二万、米十三万六千とする、と。帝は兵が減って餉が増すのを疑ったが、崇煥のことなので特にその請いのとおりにした。
  • 崇煥は遼にあって率教・大寿・可剛と兵制を定め、しだいに登莱・天津にも及ぼした。東江の兵制を定めるに及び、四鎮の兵は合わせて十五万三千余、馬八万一千余、歳の費は度支四百八十余万で、旧より百二十余万を減じた。帝はこれを嘉して奨めた。

己巳の変と磔死

  • 文龍が死んでわずか三か月を越えたころ、我が大清の兵数十万が道を分けて龍井関・大安口から入った。
  • 崇煥は聞くとすぐ大寿・可剛らを督して入衛し、十一月十日に薊州に至った。経てきた撫寧・永平・遷安・豊潤・玉田の諸城にはみな兵を留めて守らせた。帝はその到着を聞いて甚だ喜び、温旨で褒め勉め、帑金を発して将士を犒い、諸道の援軍をことごとく統べさせた。
  • ほどなく率教が遵化で戦没し、三屯営もみな破れ、巡撫の王元雅、総兵の朱國彦が自尽したと聞こえた。
  • 大清の兵が薊州を越えて西へ向かうと、崇煥は懼れて急ぎ兵を引いて京師を護りに入り、広渠門外に営した。帝はただちに召見して深く慰労し、戦守の策を諮い、御饌と貂裘を賜った。崇煥は士馬が疲弊しているとして城中に入って休むことを請うたが、許されなかった。出て大軍と鏖戦し、互いに殺傷があった。
  • このとき敵が入った隘口は薊遼総理の劉策の管轄であり、崇煥は変を聞くやただちに千里を赴いて救ったのであるから、自ら功があって罪はないと考えていた。しかし都の人は突然兵禍に遭ったため怨謗が紛々と起こり、「崇煥は敵を縦して兵を擁している」と言った。朝士は以前の和議のことから、「敵を引き入れて和を脅し、城下の盟をなそうとしている」と誣いた。帝もかなりこれを聞き、惑わずにはいられなかった。
  • ちょうど我が大清が間を設け、「崇煥はひそかに成約がある」と言い、捕らえていた宦官にこれを知らせ、ひそかに縦して去らせた。その者が帝に奔って告げ、帝は信じて疑わなかった。
  • 十二月朔、再び召対して、ついに縛って詔獄に下した。大寿は傍らにいて戦慄し措置を失い、出るや兵を擁して叛き帰った。大寿はかつて罪があり、孫承宗が殺そうとしたが、その才を愛して密かに崇煥に救い解かせたことがあったので、大寿はそれで崇煥を徳としていたが、あわせて誅されるのを懼れて叛いたのである。帝は崇煥の獄中の手書を取って往って大寿を召したので、ようやく命に帰した。
  • 崇煥が朝にあったころ、大学士の錢龍錫とかすかに毛文龍を殺そうとする状を語ったことがあり、また崇煥が和議を成そうとしたとき、龍錫は書を送って止めたことがあった。龍錫はもと逆案を定めることを主張していたので、魏忠賢の遺党である王永光・高捷・袁𢎞勲・史□(底本欠字)の輩が大獄を興して逆党のために讐を報いようと謀り、崇煥が吏に下されたのを見て、擅に和議を主導したことと専ら大帥を戮したことの二事を両人の罪とした。捷がまず疏を上げて力をこめて攻め、史□(底本欠字)・𢎞勲がこれに続き、必ず龍錫もあわせて誅そうとした。
  • 法司は崇煥を謀叛に坐し、龍錫もまた死罪に論じられた。
  • 三年(1630年)八月、ついに崇煥を市で磔にし、兄弟妻子を三千里に流し、その家を籍した。崇煥に子はなく、家にもまた余財はなかった。天下はこれを冤とした。
  • 崇煥が縛られてのち大寿が潰えて去り、武経略の満桂は戦いを促されることが急で、大清の兵と戦ってついに死んだ。崇煥が縛られてからわずか半月であった。
  • はじめ崇煥が妄りに文龍を殺し、ここに至って帝が誤って崇煥を殺した。崇煥が死んでから辺事はいよいよ人がいなくなり、明が亡ぶ徴はここに決した。