明史卷二百五十八 列傳第一百四十六 吳執御

出自と崇禎初年の建言

  • 吳執御は字を朗公といい、黄巖の人。天啟二年(1622年)の進士。済南推官に除せられ、徳州が魏忠賢の祠を建てたとき赴かなかった。
  • 崇禎三年(1630年)、召されて刑科給事中となった。
  • 翌年、掣籤の法(くじ引きの任官)を廃して人と地を釣り合わせるよう請うたが、議は阻まれて行われなかった。畿輔の加派を免じ、四方に免除の期限を示して肩の荷が下りる日を明らかに知らせ、乱を招かぬようにと請うた。また助餉・捜括を捐てて、貪官が奸を隠す手立てにさせぬよう請うた。帝は「名を売り徳を市る」として責めた。
  • 吏部尚書の王永光を弾劾した――道ならぬ者に親しんで王元雅を用いたために封疆を誤り、張道濬の賄賂を聴いて尹同臯を挙げたために祖制が乱れた。国家は法を立てて貪を懲らすのに、永光は貪を教えている。官の邪はいつ正され、寵と賄はいつ清まるのか、と。帝は永光を清慎とみて容れなかった。
  • 黄克纘・劉宗周・鄭鄤を召すことを請うたが旨に忤らって叱責された。
  • また言った――先に辺警のとき、袁崇煥・王元雅は金銭数百万・士馬数十万を擁しながら狼狽して守りを失い、史應聘・王象雲・張星・左應選は一邑をもって強敵に抗した。ゆえに辺を計るのは兵餉を増すことではなく人を択ぶことにある。畿輔の東北および秦・晉の辺沿いの州県には精敏な科挙出身者を選んで授け、璽書を賜って現地の租賦を委ね、軍民を撫し練って自ら寇を防がせるべきだ。辺関の文武の吏には戦守の修繕のほか理財も責め、かつての臣王翺・葉盛らのようにさせれば、客兵は撤せられ、餉は数百万を節約できる、と。
  • 帝はこのとき執御が論じたのが畿輔と秦・晉のことだと見極めず、「歳賦を現地に留めては国用は何によるのか」と言って聴かなかった。

周延儒弾劾と削籍

  • また首輔の周延儒が権を攬り、その姻戚の陳于泰および幕客の李元功らが結託して奸利を図っていると弾劾した。もともと執御が選考を受けて入都したとき、延儒は元功を遣って招いたが応じなかった。そしてついに延儒を弾劾したのである。
  • さらに内外の陰陽の説を陳べ、九辺・中原から廟堂の上に至るまで陰気ならざるはなく、心膂の大臣もみな君子とは限らないとした。帝は「陽剛の君子」に名指しがないとして実名を指させた。執御はかねて薦めていた劉宗周ら三人のほか、姜曰廣・文震孟・陳仁錫・黄道周・倪元璐・曹于汴・恵世掦・羅喻義・易應昌を挙げて答えた。
  • 御史の吳彥芳が「執御の挙げた者はまことに真の君子である。ほかに侍郎の李瑾・李邦華・畢懋康・倪思輝・程紹もみな忠良で用いるべきだ。通政使の章光岳は邪媚で斥けるべきだ」と言った。
  • 帝はその朋比を怒り、執政もまた内から構えたので、ついに二人を削籍して法司に下して訊問させた。
  • そのとき御史の王績燦がちょうど李邦華・劉宗周らを薦めたことで下獄しており、執御・彥芳が続いたので、朝廷こぞって震え驚き、言官が救いを申し立てたが、結局三人とも贖徒三年に処された。

附伝・吳彥芳と王績燦

  • 彥芳は字を延祖といい、歙縣の人。御史となり、大凌河が囲まれたとき孫承宗を論じ、また逆案の呂純如の冤を弁ずる非を駁した。登州で用兵のとき、島中に監軍の中官を置くよう請うた。この件で譴めを受けて帰った。
  • 績燦は字を偉奏といい、安福の人。給事中の鄧英とともに奸吏が私に賦を割り当てる弊を陳べ、また「賜環(追放者の召還)」「起廃」「容諫」の三説を進め、張鳳翔・李邦華・劉宗周・恵世掦を薦めて罪を得た。福王のとき復官した。
  • 彥芳・績燦の二人はともに天啟五年(1625年)の進士。彥芳は莆田知県、績燦は興化知県に任じられ、ともに治績が高等で崇禎四年(1631年)に御史に抜擢され、ともに声望があった。免官も、ともに人材を薦めて容れられなかったためで、吳執御と同時に譴めを論じられたのであった。