明史卷二百四十九 列傳第一百三十七 王三善

字は彭祖、永城の人(?–1624年)。萬厯二十九年の進士で、吏部の考功・文選郎中を歴任し、太常少卿から貴州巡撫に抜擢された。安邦彦に囲まれた貴陽へ「同じ死ぬなら敵に死のう」と説いて二万の兵で強行進撃し、十万の賊を破って三百日の囲みを解いた。その勝利で敵を軽んじ、二度にわたって水西の大方へ深入りしたが、糧が続かず退却する途上の内莊で、偽降していた陳其愚に馬から突き落とされ、自刎に失敗して捕らえられ、罵り続けて殺された。性は倜儻で権謀に富んだが短気で慎重さを欠いたと評される。崇禎の改元後に兵部尚書を贈られた。

年表(9件)
  • 萬厯二十九年1601年進士に及第し、荆州推官から入って吏部主事となる
  • 天啟元年1621年十月、右僉都御史に抜擢され、李橒に代わって貴州を巡撫する
  • 天啟二年1622年十二月一日、兵二万を三分して貴陽救援に発し、龍里城を奪う
  • 天啟二年1622年貴陽城下に至って囲みを解き、入城せず南門の外に営する
  • 天啟三年1623年正月、陸廣を渡った劉超の軍が大敗し、楊明楷が捕らえられる
  • 天啟三年1623年龍里・青巖への路を回復し、偽降した宋萬化を捕らえる
  • 天啟三年1623年閏十月、六万を率いて烏江を渡り、漆山の賊を破って大方に入る
  • 天啟四年1624年正月、退軍の途上の内莊で陳其愚に謀られ、罵りながら殺される
  • 崇禎九年1636年冬、貴陽の囲みを解いた功をあらためて叙され太子少保を贈られる

出自と貴州巡撫への就任

  • 王三善は字を彭祖といい、永城の人。萬厯二十九年(1601年)の進士。荆州推官から入って吏部主事となった。齊・楚・浙の三党が李三才を攻撃したとき、三善は自ら単騎で赴いて取り調べることを願い出、そのためその党に推された。考功・文選の郎中を歴任し、太常少卿に進んだ。
  • 天啟元年(1621年)十月、右僉都御史に抜擢され、李橒に代わって貴州を巡撫した。当時、奢崇明はすでに重慶を陥れていた。翌年二月には安邦彦も反いて貴陽を囲み、橒および巡按御史の史永安が続けざまに章を上げて急を告げ、三善に馳せ援けるよう促した。
  • 三善ははじめ沅州に駐して兵と糧を調え集め、次いで鎮遠に、さらに平越に進んだ。貴陽まで百八十里の地である。知府の朱家民を遣わして四川に出兵を乞うたが、四川の兵が来ないので進もうとしなかった。便宜行事の許しと、空名の部牒(白紙の任命書)を給して才に応じて任用できるようにと疏請し、帝は許した。

貴陽の囲みを解く

  • 天啟二年(1622年)十二月一日、貴陽の囲みがますます窮迫していると知り、衆を集めて「城を失えば法によって死に、援けに進めば敵に死ぬ。同じ死ぬのなら、敵に死のうではないか」と言った。
  • そこで兵を三つに分け、副使の何天麟らを清水江から進ませて右部とし、僉事の楊世賞らを都匀から進ませて左部とし、自ら二万人を率い、參議の向日升、副總兵の劉超、參將の楊明楷・劉志敏・孫元謨・王建中らとともに中路から賊の鋒に当たった。
  • 舟で新安に泊まり龍頭營に至ったとき、超の前鋒が賊に遭って退こうとしたが、二人を斬って落ち着かせた。賊酋の阿成は驍勇であったが、超は兵卒の張良俊を率いて真っ直ぐ進んでその首を斬り、賊の衆は靡いた。三善らの大軍もまた到着し、ついに龍里城を奪った。
  • 諸将は軍を駐めて情勢を見ようと議したが、三善は不可として馬を進めて先頭に立った。邦彦は三善に数十万の衆があると疑って逃げ、残った賊は退いて龍洞に屯した。官軍はそのまま七里冲を奪い、畢節舖へ兵を進めた。元模・明楷は続けて賊を破り、その渠帥の安邦彦は砲に当たって死に、邦彦の弟の阿倫を生け捕った。そのまま貴陽城下に至り、賊は囲みを解いて去った。
  • 橒と永安は三善に入城を請うたが、三善は「賊兵は遠くない。私は安んじてはおれぬ」と言い、南門の外に営した。翌日、澤溪で賊を破り、賊は陸廣河を渡って逃げた。

大方への進撃と敗北

  • 数日して左右二部の兵および湖廣・廣西・四川の援兵が前後して到着した。三善は二万人で賊十万を破ったので敵を軽んずる心が生じ、敵地で糧を得ようとした。
  • 超を總兵官に挙げ、陸廣を渡って大方へ向かい安位の巣を衝かせ、世賞にこれを監させた。總兵官の張彦芳には鴨池を渡って邦彦の巣を衝かせ、天麟にこれを監させた。漢兵・土兵は各三万。別將の都司の線補衮は黄沙渡へ出、期日を定めてともに進むこととした。
  • 超らは陸廣に至って連戦して皆勝ち、彦芳の部將の秦民屏もまた賊の五大寨を破ったので、諸将はますます敵を軽んじた。
  • 邦彦は先に崇明・效良の兵を合わせ、官軍を誘って深く入らせた。天啟三年(1623年)正月、超が陸廣を渡ると賊が迫り、独山土官の蒙詔が先に逃げ、官軍は大敗して争って河を渡り、超は逃れ、明楷は捕らえられ、諸将の姚旺ら二十六人が殲滅された。
  • 賊はそのまま鴨池の軍を攻め破り、部將の覃𢎞化がまず逃げて諸営はことごとく潰えた。彦芳は退いて威清を保ち、ただ補衮の軍だけが無事であった。
  • 諸苗は王師が敗れたのを見てまた蜂起し、土酋の何仲尉は進んで龍里に拠った。邦彦は李阿二に青巖を囲ませて定畨の兵糧路を断ち、宋萬化と呉楚漢を左右翼とし、自ら貴陽へ向かったので、遠近が大いに震えた。

貴陽周辺の反撃

  • 三善は急ぎ遊擊の祁繼祖らを遣わして龍里を取り、王建中・劉志敏に青巖を救わせた。繼祖は上・中・下の三牌および賊の百五十砦を焼き、建中もまた賊の四十八莊を焼いて、龍里と定畨への路はいずれも通じた。
  • 三善はさらに夜、建中と繼祖を遣わして楚漢の八姑蕩を衝かせ、莊砦二百余を焼き、迫って攻めたので賊の溺死者は数知れなかった。
  • 萬化は楚漢の敗を知らずに偽って降ろうとした。三善は偽って許し、諸将に甲を巻いて急行させ、萬化は慌てて出戦して捕らえられた。邦彦は気を挫かれ、群苗はまた帰順した。三善は黄い旗を給して営中に立てさせ、邦彦は望み見て出ようとせず、兵を増して鴨池・陸廣の諸要害を守った。
  • 当時、崇明父子はたびたび敗れ、邦彦がこれを救ったが四川の軍に敗られて逃げ、總理の魯欽らが討って何仲尉を捕らえ、彦芳もまた鴨池まで賊を追った。しかし賊はまた隙に乗じて普安を陥れた。
  • 総督の楊述中は沅州に駐して賊を畏れ、朝命がたびたび促してようやく鎮遠へ移ったが、議は三善と食い違った。三善はたびたび退官を求めたが許されなかった。

再度の大方遠征

  • 折しも崇明が四川の軍に窮められて貴州の龍場へ逃げ込み邦彦を頼ったので、三善は軍を合わせて討ちに進むことを議した。述中および諸将の多くは不可としたが、三善は衆議を排し、閏十月に自ら六万人を率いて烏江を渡り、黒石に泊まって続けて賊を破り、先に逃げた將の覃𢎞化を斬って見せしめとした。
  • 賊は漆山に柵を構え、日々遊騎を出して薪を採る者を襲った。軍中は食に乏しく、諸将は退軍を請うたが、三善は怒って「おまえたちが退きたいなら、いっそ私の首を斬って賊に降ればよい」と言い、諸将はもう言い出せなかった。
  • 三善は壮士を募って漆山に迫り、緋の衣に高い冠、輿に乗り蓋を張って自ら軍を督し、将士に「戦って勝てねば、ここが我が身を捧げる場所だ」と言った。傍らの一山がかなり険しいので、左軍にその頂を占めさせた。賊は慌てて柵を抜いて山を争い、将士は決死で戦って賊は大敗し、邦彦は狼狽して逃げた。
  • 三善が渭河を渡ると降る者が相次いだ。軍は大方に至り、安位の邸に入って居した。位は母の奢社輝とともに火灼堡へ走り、邦彦は織金へ逃げ、先に捕らえられていた將の楊明楷はこうして帰ることができた。
  • 位は窮して使者を述中のもとへ遣わして降を請うた。述中は崇明父子を縛って罪をあがなえと命じたが、三善は邦彦も併せて献ぜよと責めた。そのやりとりのあいだに賊は計を用いて備えを固めた。
  • 三善は賊がまさに平らぐとして、その地を郡県にしようと議した。諸苗および土司は皆恐れ、いっそう邦彦と結んだ。
  • 三善は先に四川總兵官の李維新と賊を滅ぼす約を交わしていたが、維新は軍糧が乏しいと言って辞退した。三善は大方に長く屯して食が尽き、述中も援けとならず、やむなく退軍を議した。

内莊の敗死

  • 天啟四年(1624年)正月、大方の家屋をことごとく焼いて東へ向かった。賊が追尾し、中軍參將の王健中、副總兵の秦民屏が戦死した。官軍は進みつつ戦い、内莊に至って後軍が賊に断たれた。三善が引き返して救うと士卒の多くは逃げた。
  • 陳其愚は賊の腹心で、先に偽って降っていた。三善はこれを信じて兵事を相談していたので、軍中の内情は賊にすべて知られていた。ここに至って賊に遭うと、其愚はわざと手綱を放って三善に突き当たり、三善は馬から落ちた。
  • 三善は変事を知り、急ぎ印綬を解いて家人に託し、刀を抜いて自刎したが死にきれず、賊がこれを擁して去った。罵って屈せず、ついに殺された。同知の梁思泰、主事の田景猷ら四十余人が皆死んだ。賊は監軍副使の岳具仰を捕らえて招撫を求め、具仰は人を遣わして蝋書を外へ届けさせたが、殺された。

人となりと死後の顕彰

  • 三善は倜儻で気概を負い、権謀が多かった。中州に家し、四方の奇士・俠客と交わることを好み、後にはその力を得た。貴陽を救うとき、朝廷の官報が届いても見ず、「私は今、賊を片づけるのに忙しい。こんなものを見る暇はない。しかも朝議は戦だ守だと紛々としており、読めばいたずらに人の心を乱すだけだ」と言った。堅く決したことはこの通りであったが、性は短気で慎重に構えることができず、ついに敗れた。
  • 先に囲みを解いた功で兵部右侍郎を加えられていた。没した後、巡按御史の陸獻明が手厚い恤みを請うたが、担当の役所が阻んで行われなかった。崇禎に改元して兵部尚書を贈られ、錦衣僉事の世廕を与えられ、祠を立てて祭られた。崇禎九年(1636年)冬、あらためて囲みを解いた功を叙して太子少保を贈られた。
  • 大方の役に際し、貴陽の御史の徐卿伯が上言していた。「邦彦は四方の悪党を招き、狡い計が多い。撫臣はどうして急に進み、愚かな苗など平らげるに足りぬと見るのか。澤溪より西、陸廣河を渡ればいずれも鳥道の深林・叢藪であり、彼らが我を誘って深く入らせ、木石で道を塞ぎ、書信を断ち、糧道を阻み、援軍を遮れば、彼は一兵も労せず一矢も費やさずに我が兵は坐して困ることになる」と。後にすべてその言のとおりになった。

附・岳具仰

  • 岳具仰は延安の人。郷試に及第し、瀘州知州、戸部郎中を歴任した。貴州が乱れると、朝議は具仰が兵を知るとして監軍副使に用いた。
  • 内莊の敗で監軍は四人いたが、三人は脱して帰り、ただ具仰だけが死んだ。

附・田景猷

  • 田景猷は貴州思南の人。天啟二年(1622年)に及第したばかりであったが、邦彦の反乱に憤り、勅を携えて宣諭に赴くことを請うた。廷議はこれを壮とし、その日のうちに職方主事に抜擢した。
  • 賊がまさに貴陽を囲んでいたとき、景猷は単騎で赴いて禍福を説き、兵を解いて朝廷に帰順するよう命じたが、邦彦は聞かなかった。景猷を屈させようとして日々宝玩を並べて誘ったが、心を動かさなかった。賊は景猷を留め置き、手下を遣わして危害をちらつかせて脅した。景猷は怒って刀を抜いて撃ち、その者は逃れた。賊中に繋がれること二年、ここに至って殺された。
  • 具仰には光祿卿、景猷には太常少卿を贈り、いずれも子一人を官に取り立てた。

附・楊明楷

  • 楊明楷は銅仁烏羅司の人。内莊の敗で明楷は中軍であったが死を免れた。後に魯欽に従って長田の賊を討ち、功が最も多かった。副總兵で終わった。

附・朱家民

  • 朱家民は字を同人といい、曲靖の人。萬厯三十四年(1606年)に郷試に及第し、涪州知州となった。天啟二年(1622年)に貴陽知府となり、三善の命を奉じて四川に援兵を乞い、また河南の兵を借りて、ともにその囲みを解いた。
  • そこで傷つき残った者を撫し、流民を招き、徭役を寛くしたので、遠近が悦服した。父の喪に遭ったが服喪を解かれて安普監軍副使に抜擢され、右參政を加えられた。崇禎年間にその地で按察使、左布政に遷り、寇を平らげた功で俸一級を加えられた。久しくして致仕して帰り、没した。
  • 邦彦が乱を起こして以来、雲貴の諸土酋はことごとく反き、安南など上六衛を攻め陥れて雲南への路が断たれた。その後、路は通じたものの群苗はなお出没して患いとなっていた。家民は參將の許成名らを率いて盤江の外の阿野・魯頗の諸砦を討ち平らげ、そこで盤江・西坡・板橋・海子・馬場の諸要害を見計らって石城五つを築き、兵を宿らせ民を衛らせ、その山あいに六つの城を築き、役所・住居・井戸を残らず備えた。群苗は息をひそめ、旅人は安らかとなった。
  • 盤江は雲南と貴州の境にあり、両山が寺を挟んで一水が中を断ち、流れは激しく速く、舟で渡る者は多く溺れた。家民は瀾滄橋の制に倣い、鉄を鋳て綱三十六本、長さ数百丈を作り、両岸の岩に貫いて懸け、板を覆った。蜀の桟道のようなもので、道ははじめて通じた。