明史卷二百四十九 列傳第一百三十七 李橒

字は長孺、鄞の人。萬厯二十九年の進士で、御史から地方官を歴任し、萬厯四十七年に貴州巡撫となった。安邦彦の反心を早くから見抜いて兵と軍糧の増強を求めたが容れられず、退官が許された直後に奢崇明の乱が起こって留任した。巡按御史史永安・提學僉事劉錫元らと貴陽に籠城し、三百日にわたって安邦彦の大軍を防ぎ、王三善の来援まで孤城を保った。十万戸の城で生き残ったのは千余人という惨状であったが、「金盆をねだって釁を開いた」という讒言のために功は長く叙されず、崇禎九年になってようやく守城の功が認められて一秩を進められ、久しくして家で没した。

年表(10件)

出自と貴州巡撫への就任

  • 李橒は字を長孺といい、鄞の人。曽祖の李循義は衡州知府、祖父の李生威は鳳陽推官。橒は萬厯二十九年(1601年)の進士に及第し、行人を授かり、御史に抜擢され、例により廣東鹽法僉事に転じ、山東參議、陝西提學副使、山東參政、按察使を歴任した。
  • 萬厯四十七年(1619年)秋、右僉都御史に抜擢されて貴州を巡撫した。
  • 貴州宣慰同知の安邦彦は、宣慰使の安堯臣の一族の子である。堯臣が死んで子の安位が幼かったので、その母の奢社輝が代わって事を領した。社輝は永寧宣撫の奢崇明の妹である。邦彦はそこで兵権を専らにした。
  • 折しも朝議で西南の兵を徴して遼を援けることになった。邦彦はもともと猛々しく狡猾で、これに乗じて事を起こそうと橒のもとへ来て出征を請うたが、橒は諭して止めた。邦彦は帰るとますます反逆を謀った。
  • 橒はたびたび疏して兵と軍糧の増加を請うたが、朝廷は遼の事に追われて顧みなかった。折しも橒は弾劾され、六度も疏を上げて退官を乞い、天啟元年(1621年)にようやく許され、王三善が代わりとなった。しかしすでに奢崇明が反いて重慶を陥れ、遵義も陥ちて貴陽が大いに震えたので、橒はそのまま留まって事に当たった。

貴陽籠城の準備

  • 当時、城中の兵は三千に及ばず、倉庫は空であった。橒は巡按御史の史永安とともに雲南・湖廣から銀四万余を借り、兵四千を募り、米二万石を蓄え、攻守の具を整えた。
  • そして急ぎ總兵官の張彦芳、都司の許成名・黄運清、監軍副使の朱芹、提學僉事の劉錫元らを四川の援けに遣わし、たびたび勝って遵義・綏陽・湄潭・真安・桐梓を回復した。
  • 天啟二年(1622年)二月、崇明が成都を陥れたと伝える者があり、邦彦はついに安位を擁して反き、みずから「羅甸王」と称した。四十八支および他の部の頭目である安邦俊・陳其愚らが蜂起して応じ、烏撒土目の安效良もまた通じた。
  • 邦彦はまず畢節を襲い、都司の楊明廷が固守して数百人を撃ち斬ったが、效良が邦彦を助けてその城を陥れ、明廷は敗れて死んだ。賊はそのまま兵を分けて安順・平壩を陥れ、效良もまた西へ霑益を陥れた。
  • 邦彦は自ら水西の軍および羅鬼・苗・仲の数万を統べ、東へ陸廣河を渡って直ちに貴陽へ向かい、別に王倫らを遣わして甕安を下し偏橋を襲って援兵を断ち、洪邉土司の宋萬化は苗・仲の九股を糾合して龍里を陥れた。

貴陽の攻防

  • 橒と永安は変を聞いてただちに城守を議した。ちょうど藩・臬・守令はみな入覲しており、彦芳は銅仁に鎮し、運清は遵義に駐して、城中に文武の人はほとんどいなかった。
  • そこで兵を五つに分け、錫元および參議の邵應禎、都司の劉嘉言、元副總兵の劉岳に四門を分け守らせ、橒は自ら要衝の北門に当たり、永安は譙楼にあって街市の兵をまとめて内変を防いだ。学官と諸生もまた民兵を督して城壁を分け守った。
  • 賊が来て精鋭をあげて北城を攻めると、橒は迎え撃って破り、賊は東門へ転じて攻めたが錫元に退けられた。そこで朝夕に交代で駆け寄せて官兵を疲れさせ、三丈の楼を作って城に臨み、婦人と鶏犬を用いる厭勝の術を行った。橒と永安は豚を煮て斗米の飯に混ぜて鶏犬に投げ与え、虎豹の皮を城楼に張ってこれを祓い、そのうえで砲石を用いることができた。夜には決死の兵を縄で降ろしてその楼を焼いた。
  • 賊はまた竹籠を万余作り、土を積んでその高さは城の凹壁を越えた。永安は急ぎ大寺の鐘楼を取り壊して城上に建て、賊は籠を棄てて去り、官軍は出てこれを焼いた。たびたび城を出て賊の糧を奪った。賊は怒って城外の塚をことごとく暴き、村砦をあまねく焼き、さらに前後して廣州・普安・威清・普安・安南の諸衛を攻め陥れた。貴陽の西数千里はことごとく賊の占拠するところとなった。
  • はじめ囲まれたとき、彦芳と運清が救いに来て新添で賊を破ったが、賊は誘って龍里へ入れ、二将はともに敗れた。そこで賊はわざと入城させ、「おまえたちの糧を減らさせてやる」と言った。城中は果たして大いに困窮した。
  • 川貴総督の張我續、巡撫の王三善は兵を擁して進まず、橒と永安は続けざまに疏を上げて急を告げ、詔旨がこれを督責した。
  • 彦芳らが出戦してしばしば利を得ると、賊は退いて澤溪を保った。そこで禆將の商士傑らに九千人を率いさせて威清・新添の二衛を分け押さえさせ、あわせて援兵を乞うた。賊は城が必ず落ちると思い、山沿いに営柵を並べて内外を隔て、十日ごとに一度来て攻めては敗れ去った。
  • 副總兵の徐時逢、參將の范仲仁が援けに赴き、城の濠のあたりで賊に阻まれた。仲仁は戦って不利となったが、時逢は兵を擁して救わず、ついに大敗し、諸将の馬一龍・白自强らが殲滅された。援けはついに絶えた。
  • 賊は三善が兵を進めると聞き、いよいよ日夜攻撃し、長梯で蟻のように取り付き、城は幾度も落ちかけた。橒が腕を振るって一声呼ばわると、士卒は疲れ切っていても皆奮い立って賊を斬り、賊は皆つまずき倒れて城下に死んだ。
  • 王三善はたびたび厳しい旨を受けて、ついに軍を率いて重囲を破って進み、天啟二年(1622年)十二月七日に貴陽城下に至って、囲みははじめて解けた。橒はそこで兵事を辞して官を解いて去った。

張我續と籠城の惨状

  • 三善が賊を破ったのに我續には寸功もなく、軍資六十万を横領していたので、言官が次々と弾劾し、職を解かれて取り調べを待った。我續は邯鄲の人で、刑部尚書の張國彦の子である。その後、魏忠賢に取り入って戸部侍郎に起用され、尚書に進み、名は逆案に載った。
  • 官の蓄えが尽きたときには、米一升の値は二十金となり、糠や籾殻、草木、腐った革を食い尽くし、死人の肉を食い、後には生きた人を食い、親族が互いに食い合うに至った。彦芳・運清の部下の卒は市中で公然と人を屠り、一斤が銀一両で取引された。
  • 橒は書籍や冠服をことごとく焼き、あらかじめ家人に「急となれば自害せよ」と戒め、皆に刀と縄を渡した。城中の戸は十万、囲まれること三百日、生き残った者はわずかに千余人であった。孤城がついに保たれたのは、みな橒および永安・錫元の功である。
  • 熹宗は都御史の鄒元標の言を用い、橒を兵部右侍郎、永安を太僕少卿、錫元を右參政に進めた。

金盆の讒言と功の埋没

  • 囲みが解けてあらためて功を叙すべきときになって、御史の蔣允儀が「安位が職を襲いだとき、橒はその金の盆をねだり、それが釁を開くもととなった」と言った。章は貴州巡撫の侯恂に下されて調べられ、まだ返答のないうちに、御史の張應辰が力を尽くして橒の功を称えた。恂の調査の上申もまたその誣告であることを明らかにし、帝は允儀を責めた。
  • はじめ永安が運清を新添・平越へ遣わして援兵を急がせたとき、それが成らぬのを恐れて自ら城を出て督そうとした。錫元は永安に去る意があるのではと疑い、橒に相談した。橒は永安を止めた。食が絶えたころ、兵を出して橒と永安を護って城を出させ、自分は残って死守しようと議した。永安もまた錫元を疑い、運清がその間を取り持って仲を裂いたため、三人はついに離反した。永安は錫元を「城に残って守ると議したのは、城を賊に渡そうとしたのだ。橒もまた謀に与した」と誹謗した。二人は章を上げて弁じた。
  • 吏部尚書の趙南星、左都御史の孫瑋らが力を尽くして三人を弁解し、「永安は功が第一で、順を超えて大いに用いるべきである。橒はすでに官を進めたので召し還すべきである。錫元はすでに參政に進めたので、さらに手厚く叙すべきだ」と言った。詔はこれを許した。
  • しかし橒はついに召されず、錫元にも他の抜擢はなく、二人はともに郷里に帰った。ひとり永安だけが朝廷にあって、続けて太常卿・右僉都御史に抜擢されて寧夏を巡撫し、さらに兵部右侍郎として三邉を総督した。橒および諸将吏の功はついに叙されなかった。
  • 天啟六年(1626年)秋、御史の田景新が橒の功を称えたが容れられなかった。崇禎元年(1628年)、給事中の許譽御が再び金盆の件で橒を弾劾した。帝は廷臣を召して諮り、ひとり御史の毛羽健だけが橒のために弁じ、吏部尚書の王永光らも羽健の言のとおりに議した。給事中の余昌祚は羽健が曲庇していると誹謗し、帝は川貴総督の朱燮元らに下してあらためて調べさせた。
  • 羽健はそこで上疏していう。「安・奢は代々姻戚で、共謀は久しかった。奢寅が蜀を寇せば邦彦もまた黔を寇したはずで、激変させる必要などない。貴陽が急を告げたのは、まさに廣寧が破られたばかりの日で、朝廷はこぞって慌てふためき、すでに顧みなかった。後に橒が死なず孤城がなお存すると知って、はじめて王三善に救援を命じたが、着いたときには囲まれて十か月であった。安酋がはじめ難を起こしたとき、崇明は成都を取って本拠にしようとし、邦彦は貴陽を図って巣穴にし、西は雲南を取り東は偏沅・荆襄を騒がそうとしていた。橒がその要衝を扼さなければ、東南はことごとく塗炭に落ちていた。それなのに按臣の永安は二三年もたたぬうちに卿貳に上って三邉を督師し、橒は林野に打ち捨てられている。しかも永安の誹謗の書をもって橒の罪案としている。金盆の件は允儀の言い出したことで、当時すでに自ら風聞だと認めていた。どうして今なお事実として持ち出すのか」と。
  • 貴州の人もまた争って橒のために冤を訴えた。燮元は巡按御史の趙洪範とともに次々と章を上げてその枉を雪ぎ、橒の事ははじめて明らかになった。
  • 崇禎九年(1636年)冬、守城の功を叙して一秩を進め、銀と幣を賜わった。久しくして家で没した。
  • 錫元は長洲の人。崇禎年間に寧夏參政となった。永安は武定の人。橒とともに城守の功が多かったが、辺境にあったとき魏忠賢の生祠を建てたため、後に御史の甯光先に論じられて罷められ、人に重んじられなかったという。