明史卷二百四十八 列傳第一百三十六 徐從治

字は仲華、海鹽の人(?–1632年)。萬厯三十五年の進士で、桐城知縣から濟南知府・兵備副使を歴任した。天啟元年の徐鴻儒の乱では楊肇基の起用と賊の中堅を衝く策を献じて平定に導き、剿を主として撫を用いない方針で知られた。崇禎五年、孔有徳の乱で登州が陥ちると余大成に代わって登萊の巡撫となり、青州ではなく萊州に入って城を守った。兵部尚書熊明遇らが進めた招撫策を賊の緩兵の計だと繰り返し訴えたが容れられず、半年に及ぶ籠城のさなか城壁で砲に当たって死んだ。兵部尚書を贈られ、「忠烈」の祠が建てられた。

年表(12件)
  • 萬厯三十五年1607年進士に及第し桐城知縣となり、のち濟南知府に至る
  • 天啟元年1621年妖賊徐鴻儒の乱に楊肇基の起用と剿の策を献じ、鴻儒を滅ぼす
  • 崇禎四年1631年起用されて武徳兵備を整え、孔有徳の乱に監軍を命じられる
  • 崇禎五年1632年右副都御史に抜擢されて余大成に代わり、萊州で謝璉とともに任に就く
  • 崇禎四年1631年十月晦日に出発した孔有徳の軍が呉橋で兵変を起こす
  • 崇禎五年1632年正月、登州が陥落し、張可大は戦死、孫元化は捕らえられる
  • 崇禎五年1632年楊御蕃らと城壁を分けて守り、西洋砲による攻城を凌ぐ
  • 崇禎五年1632年三たび疏を上げ、張國臣らの招撫が賊の緩兵の計だと訴える
  • 崇禎五年1632年三月、劉宇烈の援軍が沙河で輜重を焼かれて総崩れとなる
  • 崇禎五年1632年四月十六日、萊州の守城中に砲に当たって死ぬ
  • 崇禎五年1632年八月、朱大典が萊州の囲みを解き、孔有徳の乱は平定される
  • 崇禎五年1632年兵部尚書を贈られ、祭葬と錦衣百戸の廕を賜り、「忠烈」の祠が建つ

出自と徐鴻儒の乱

  • 徐從治は字を仲華といい、海鹽の人。母が神人が庭で戈を舞わす夢を見て、覚めて從治を生んだという。萬厯三十五年(1607年)の進士。桐城知縣に任じられ、官を重ねて濟南知府となり、卓越した評価で兖東副使に遷り、沂州に駐した。
  • 天啟元年(1621年)、妖賊の徐鴻儒が鄆城で反き、鄒・滕・嶧の諸県を続けて陥れた。從治はその一味で沂に潜んでいた者を捕らえて殺し、家に居た前總兵の楊肇基を起用して兵事を主宰させるよう請い、賊の中堅を衝く策を献じて、ついに鴻儒を滅ぼした。事は趙彦の伝に詳しい。
  • 從治は機敏で融通が利き、賊を防ぐにはおおむね剿を主として撫を主とせず、それゆえしばしば賊を滅ぼした。

地方官としての経歴

  • まもなく右參政として濟南の分守となり、功を録して從治が最上位となり、右布政使に進んで江南の漕運を督した。
  • 妖賊が再び起こると、巡撫の王惟儉が從治の留任を奏し、引き続き沂を守らせた。按臣は撫を主張したが從治の議と合わず、そこで辞して帰った。朝廷内外で処遇が議されるうち崇禎の初めとなった。
  • もとの秩で薊州の兵備を整えた。薊の軍は長く軍糧を欠いて巡撫の王應豸を遵化に包囲した。從治は単騎で駆け入り、ひそかに夷丁と標兵を配して四門に分営し、兵を動かさずに城に登って呼ばわった。「三か月分の糧を給する。急ぎ帰って持ち場を守れ。さもなくば汝らを撃つぞ」と。衆はその声に応じて散った。臨機の対応はおおむねこの類であった。
  • 秩を左布政使に進め、再び辞職を請うて帰った。

孔有徳の乱と萊州赴任

  • 崇禎四年(1631年)、起用されて武徳兵備を整えた。孔有徳が山東で反くと、巡撫の余大成が檄して從治に監軍させた。
  • 翌年正月、萊州へ馳せ赴いたが登州はすでに陥ちており、大成は官籍を削られた。そこで從治を右副都御史に抜擢してこれに代え、登萊巡撫の謝璉と並んで命じ、璉は萊州に駐し從治は青州に駐して兵と糧を調度せよという詔が出た。
  • 從治は「私が青州に駐しても萊州の人心を鎮めるには足りない。萊州に駐してこそ齊全体の命脈をつなげる」と言い、璉とともに萊州で事を受けた。

孔有徳の反乱の経緯

  • 有徳は遼の人で、耿仲明・李九成・毛承禄らとともに皆、毛文龍の帳下の卒であった。文龍が死ぬと登州へ走り入った。登萊巡撫の孫元化は遼に長く在って、かねて遼人は用いられると言っていたので、承禄を副將、有徳と仲明を逰擊、九成を偏裨とし、さらに多くの遼人を牙兵として召し抱えていた。
  • この年、大凌河の新城が包囲され、部の檄で元化は精鋭を出して海を渡り耀州の鹽場へ向かわせ、牽制を示すこととなった。有徳は風が逆だと偽り、陸路に改めて寧遠へ赴いた。
  • 十月晦日、有徳と九成の子で千總の應元が千余人を統べて出発し、ひと月かけて呉橋縣に着いた。県人は市を閉じ、兵は食を得られなかった。一人の卒が諸生といさかいを起こし、有徳がその卒を打つと、衆は大いに騒いだ。九成は先に元化の銀を持って塞上で馬を買ったが、使い尽くして償えずにいた。ちょうど呉橋に来て衆の怨みを聞き、應元と謀って有徳を脅し、ともに乱を起こした。
  • 陵縣・臨邑・商河を陥れ、齊東を荒らし、徳平を囲んだがまもなく去り、青城・新城を陥れ、衆を整えて東へ向かった。

余大成と孫元化の招撫策

  • 余大成は江寧の人で、兵事を知らなかった。はじめ職方にあったとき、大學士の劉一燝の私信を暴いてこれを追い落とし、後にまた事で魏忠賢に逆らって官籍を削られて帰った。清廉厳格の名があった。
  • しかし山東を巡撫すると、白蓮の妖賊が熾んなうえに逃亡兵の変も起こり、いずれも討てなかった。有徳の叛を聞くと病と称して数日出て来ず、やむなく中軍の沈廷諭と參將の陶廷鑨を遣わして防がせたが、いずれも敗走した。大成は恐れ、ついに招撫の方針を定めた。
  • 元化の軍も到着した。元化はいわゆる西洋の大砲の法に通じた者であったが、このときやはり撫を主張し、賊の通る郡県に迎撃するなと檄した。賊は長駆し、一矢を報いる者もなかった。
  • 賊は偽って元化に降伏を許し、元化の師は黄山館まで進んで引き返した。賊はそのまま登州に迫った。元化は將の張燾に遼兵を率いて城外に駐させ、總兵の張可大に南兵を率いて賊を拒ませたが、元化はなお賊の招降を図り、賊は応じなかった。

登州の陥落

  • 崇禎五年(1632年)正月、城の東で戦い、遼兵がにわかに退いたため南兵も敗れ、張燾の兵は多くが賊に降った。賊はこれを帰らせ、士民は争って入城を拒むよう請うたが、元化は従わなかった。賊はついに入城した。
  • 日暮れに城中で火が起こり、中軍の耿仲明、都司の陳光福らが賊を東門から導き入れ、城はついに陥ちた。可大は戦死し、元化は自刎したが死にきれず、參議の宋光蘭、僉事の王徴および府県の官はことごとく捕らえられた。大成は萊州へ馳せ入った。
  • はじめ登州が囲まれたとき、朝廷は大成と元化を三級降し、賊を討たせた。登州が失われると元化の職を革め、謝璉を代わりとした。
  • 有徳は登州を破ると九成を主とし、自らはその次、仲明をさらにその次とした。巡撫の印を用いて州県に軍糧を檄し、元化に書を送って大成に招撫を求め、「登州一郡を与えれば解く」と言った。大成が朝廷に上申すると、帝は怒って大成の職を革め、從治を代わりとした。

萊州の籠城

  • 先に賊は黄縣を攻め破り、知縣の呉世揚が死んだ。ここに至って萊州を攻めたので、從治・璉は總兵の楊御蕃らと城壁を分けて守った。
  • 御蕃は肇基の子で、肇基は從治とともに鄒・滕の妖賊を討ち滅ぼした人である。御蕃は戦功を積んで通州副總兵に至り、登州陥落のとき、兵部尚書の熊明遇が奏して總兵官を署せしめ、山東の兵をことごとく率い、保定總兵の劉國柱、天津總兵の王洪とともに強行軍で進んだ。新城で賊に遭い、洪が先に逃げ、御蕃は二日拒んだが勝てず、包囲を破って出て萊城に入った。從治・璉はこれを頼りに賊を討った。
  • 賊は萊州を落とせず、兵を分けて平度を陥れ、知州の陳所問は自ら首を縊った。賊はますます萊州を攻め、元化が製した西洋の大砲を運んで日々城に穴を穿ち、城は多く崩れた。從治らは火を投げ水を注ぎ、穴を穿つ者は数知れず死んだ。決死の兵をときどき出して不意打ちさせ、その砲台を毀ち、斬獲も多かった。

招撫の妨害を訴える

  • しかし明遇はついに大成の撫議に惑わされ、主事の張國臣を贊畫として招撫に向かわせ、「山東にいる遼人を安んずるのだ。國臣もまた遼人だから」と言った。
  • 國臣はまず廃將の金一鯨を賊の陣営に遣わし、やがて自らも入って賊のために書を作り、一鯨を帰して報じさせ、「兵を出して撫の局面を壊すな」と言わせた。從治らはその欺きを見抜き、一鯨を叱って退け、間使を遣わして三たび疏を上げ、賊は撫すべきでないと言った。
  • 最後の疏にいう。「萊城は囲まれて五十日、累卵のごとく危うく、日夜援兵を望んだがついに来ない。必ずや撫議に誤らされたものと分かった。國臣が臣に寄こした書には詔旨と兵部の諭帖が抄されており、部の臣がすでに國臣の報告に拠って聖聴に達していると知れた。國臣は同郷の情を重んじ、聖明を欺いて封疆を陥れている。はじめ一鯨を賊営へ入れたとき、兵を止めて攻めぬという事など一度もなかった。もし本当に攻撃が止み、あるいは少しでも退いたなら、臣らがなぜ撫を喜ばぬはずがあろうか。ただ國臣は撫を賊の弁解に使い、賊は実のところ撫を緩兵の計に使っているのだ。一鯨は賊の賄を受け、援軍に対しては『賊は数万、軽々しく進めぬ』と偽り、諸将に対しては『賊は西洋砲で城を攻め、陥ちかけていたが、我が招撫のおかげで賊は攻撃をやめた』と偽る。一鯨が三たび賊営に入るたび、入るごとに賊の攻撃は激しくなった。それを國臣は『賊は、我らが城から縄で降りて撃つのを怒って攻めるのだ』と言う。これでは賊に思うまま攻撃させ、こちらは一矢も報いず、元化のように城を送り届けてはじめて國臣の撫が成る、というのか。賊が青州を通ったとき、大成は三千の兵を擁して賊を討つのはきわめて容易であったのに、元化が『賊はすでに撫に就いた、東へ兵を出すな』と書を寄こしたので、大成は追撃をやめ、賊をはびこらせた。今、賊は臣らを元化のように見なし、賊のために弁じて『呉橋の激変には理由がある』『道中いっさい刀を封じて殺していない』『天子の詔を聞いてすぐ攻掠をやめた』などと言う。誰を欺こうというのか。朝廷に満ちる國臣の妄報のせいで、『一紙の書は十万の兵に勝る』などと言われ、援軍が来ないのはまさにこのためである。臣は死んで厲鬼となって賊を殺そうとも、断じて撫をもって至尊を欺き、国是を乱し、封疆を誤り、人命を損なうことはしない」と。
  • 疏が入っても返答はなかった。

劉宇烈の援軍とその敗北

  • そのころ外囲はいよいよ厳しく、國柱・洪および山東の援軍はみな昌邑に停まって進まず、二人の撫臣は囲まれた城中で困窮した。
  • そこで朝議で総督を新たに一人置くことになり、兵部右侍郎の劉宇烈をこれに任じ、薊門と四川の兵を調えて總兵の鄧玘に統べさせ、密雲の兵を調えて副將の牟文綬に統べさせ、右布政使の楊作楫に監させて萊州の援けに向かわせた。
  • 三月、宇烈・作楫・國柱・洪・玘および監視中官の吕直、巡按御史の王道純、義勇副將の劉澤清、新兵參將の劉永昌・朱廷禄、監紀推官の汪惟效らが昌邑に集まった。玘・國柱・洪・澤清らが萊州に至ったとき馬歩軍は二万五千、気勢は盛んであったが、宇烈には策略がなく、諸軍は臆病であった。
  • 沙河に至ると日に十度も使いを出して撫を議し、捕らえていた賊の陳文才を放って帰した。これによって賊はこちらの内情をすべて知り、いっそう撫でこちらを欺きつつ、ひそかに兵を後ろに回して輜重をことごとく焼いた。
  • 宇烈は恐れて青州へ走り、三将の兵を引き揚げて糧のある所へ移した。玘らが夜半に陣を払うと軍は散り、賊が乗じて大敗した。洪・國柱は青州・濰州へ走り、玘は昌邑へ走り、澤清は萊城下で戦って指二本を傷つけ、やはり敗れて平度へ走った。ただ作楫だけが軍を保った。
  • 三将が敗れて朝廷はこぞって騒然となったが、明遇は官軍が使い物にならぬと見て、撫議をますます固くした。

呉安邦と孫應龍の失敗

  • 先に登州總兵の可大が死んだので、副將の呉安邦を代わりとした。安邦はとりわけ臆病で鈍く、令を奉じて寧海に屯し、登州奪回を図った。仲明が城を挙げて降ると触れ回り、安邦はこれを信じて城から二十五里の所に陣したが、中軍の徐樹聲が城に迫って捕らえられ、安邦は寧海へ逃げ帰った。
  • 登州も落とせず、賊は久しく萊州を囲み、璉・從治・御蕃は日々堅く守って救援を待った。
  • 崇禎五年(1632年)四月十六日、從治は砲に当たって死んだ。萊州の人は大いに哭し、城壁を守る者は皆泣いた。南京にいる山東出身の士官は連名で疏を上げて宇烈を攻め、兵の増派を請うた。そこで昌平の兵三千を調えて總兵の陳洪範に統べさせた。洪範もまた遼人であり、明遇は日々つま先立って望み、「行け、撫せられるはずだ」と言った。
  • 天津の旧将の孫應龍という者が衆に向かって大言し、「仲明兄弟は私と親しい。私なら有徳・九成を縛らせられる」と言った。巡撫の鄭宗周は兵二千を与えて海路から向かわせた。仲明はこれを聞いて他人の死首を函に入れて偽り、「これが有徳だ」と言った。應龍は舟師を率いて水城に至り、招き入れられたところで不意に縛られて斬られ、一人も逃れなかった。
  • 賊は巨艦を得て勢いをいっそう強めた。島帥の黄龍が攻めたが克てずに還った。賊はそのまま招遠を破り、萊陽を囲んだが、知縣の梁衡が固守して賊は敗れ去った。

謝璉らの捕縛と乱の平定

  • 宇烈は再び昌邑に至り、洪範・文綬らも来た。萊州推官の屈宜陽が賊営に入って撫を談じることを請い、賊は偽ってこれを礼遇した。宜陽は「賊はすでに命を受けた」と言い、宇烈は奏して許しを得、自ら書を賊に諭して包囲を解かせようとした。
  • 賊は宇烈を招いたが、宇烈は恐れて行かず、營將の嚴正中が龍亭を舁いで河まで行くと、賊はこれを擁して去り、宜陽を萊州へ返して、文武の官が城を出て詔を読み上げれば囲みを解くと言わせた。御蕃は反対したが、璉は「囲まれて半年、もはやどうしようもない。従うべきだ」と言い、監視中官の徐得時・翟昇、知府の朱萬年とともに出た。有徳らは叩頭して這いつくばり涙を流し、璉は久しく慰め諭して帰った。
  • 翌日、また宜陽を入れて璉と御蕃がともに出るよう請わせた。御蕃は「私は武家の子だ。賊を殺すことは知っていても撫の事など知らぬ」と言った。璉らが出ると有徳はこれを捕らえ、突如城を攻め、萬年に降伏を呼ばわらせた。萬年は「私は死ぬ。おまえたちは固く守れ」と叫び、罵り続けて死んだ。賊は璉と二人の中官を登州へ送って囚え、正中と宜陽はいずれも死んだ。
  • はじめ撫議が起こったとき、ひとり從治だけが不可としたが、宇烈と諸将はこれを信じ、尚書の明遇がその議を主導した。從治が死に、璉はついに捕らえられた。ここに至って朝廷はこぞって憤り、宇烈を逮えて獄に下し、関外の精鋭を調えて討たせ、総督を罷め、登萊巡撫は置かずに從治の代わりを朱大典ひとりに任せることとした。明遇は撫を主導して国を誤った罪で罷めて帰り、撫議はついに絶えた。
  • 八月、大典が兵を合わせて萊州を救うと、兵を交えるや賊はたちまち大敗し、囲みは解けた。有徳は登州へ走り、九成は璉と二人の中官を殺した。大典が登州を囲むと九成は戦死し、城は破れた。有徳・仲明を追い討ちしたが海に入って逃れ、承禄らを生け捕り、應元を斬って、賊はことごとく平らげられた。事は朱大典の伝に詳しい。
  • 詔して從治に兵部尚書を贈り、祭葬を賜い、錦衣百戸の廕を与え、祠を建てて「忠烈」と名づけた。璉には兵部右侍郎を贈り、やはり祭葬を賜って祠を建て、子に廕を与えた。御蕃は功が多いとして署都督同知を加え、總兵として登萊に鎮した。宇烈は翌年に流された。
  • 璉は字を君實といい、監利の人。宇烈は綿竹の人で、大學士の劉宇亮の兄である。その流刑は、世人に刑が軽すぎると思われた。大成は逮えられて獄に下され、流されたが、赦されて帰り、家で没した。

附・孫元化

  • 元化は字を初陽といい、嘉定の人。天啟年間に郷試に及第した。得意とした西洋砲の法は徐光啟から得たものだという。
  • 廣寧が覆没すると、京を備え辺を防ぐ二策を条陳した。孫承宗が朝廷に請うて贊畫として経略の軍前に置き、砲台を築き教練する法を主張した。そこで寧遠・前屯に拠ることを策として王在晉に説いたが、在晉は用いることができなかった。
  • 承宗が辺境巡視から還って奏し、兵部司務を授けられた。承宗が在晉に代わると、重関を設ける非を破り、台を築き砲を製することは一に元化の言のとおりとした。還って元化に職方主事を授けた。
  • のち元化は袁崇煥の贊畫となり、寧遠から朝廷へ還り、まもなく罷めた。
  • 崇禎の初め、武選員外郎として起用され、職方郎中に進んだ。崇煥はすでに経略となっており、元化を自らの補佐にと乞うたので、元化を山東右參議に改めて寧前の兵備を整えさせた。
  • 崇禎三年(1630年)、皮島副將の劉興治が乱を起こし、朝議で登萊巡撫を復置することとなり、元化を右僉都御史に抜擢してこれに任じ、登州に駐させた。翌年、島の衆が興治を殺し、元化は副將の黄龍を代わりに奏し、その兵六千人を汰した。
  • 有徳が反くに及び、朝野はこのため元化が討てなかったことを怨んだ。賊が元化を放って帰らせると、詔してこれを逮えた。首輔の周延儒はその死を免れさせようと図ったができず、そこで元化の師の徐光啟を入閣させて図ったが、ついにかなわなかった。張燾は市に棄てられ、光蘭は徴されて充軍となった。

史論

  • 贊にいう。辺境に事変が多ければ、事に当たる臣が思い起こされる。梅之煥ら諸人の風采と機略は、しりごみして怯える輩とは大いに異なっていた。それでも文法(規則・手続き)に縛られて、ある者は廃され、ある者は死んだ。悲しいことだ。
  • 叛将が横行しても、縛って斬るには一人の副将の力で足りる。それを中途で撫議に妨げられ、堅城を賊に委ね、援軍は様子見して進まず、いたずらに騒ぎ立てるばかりであった。官を設け将を命じたところで何の益があろう。撫議が国を誤ったことは、言い尽くせるものではない。