出自と職方郎中としての識見
- 李繼貞は字を徴尹といい、太倉州の人。萬厯四十一年(1613年)の進士。大名推官に任じられ、遷って兵部職方主事となった。
- 天啟四年(1624年)秋、山東の試験を主宰し、試録の文が魏忠賢を刺したとして降格され、まもなく官籍を削られた。
- 崇禎元年(1628年)、武選員外郎として起用され、職方郎中に進んだ。当時は軍事の文書が輻輳し、職方には特別に郎中を増設して司の事を協理させていた。繼貞は事務に精敏で、尚書の熊明遇は深く信頼し、「副将以下は、彼が選んでくれば私は署名するだけだ」と言った。
- 崇禎四年(1631年)、孔有徳が山東で反いたとき、明遇は撫(招撫)を主張したが、繼貞は疏を陳べて不可とし、関外の兵を調えて討伐に入れることを請うた。明遇は従わなかったが、後になってその言を用いてついに賊を滅ぼした。
飢民救済の建策
- はじめ延綏で盗が起こったとき、繼貞は帑金を出すことを請い、董搏霄の人運の法を用いて米を買って軍前へ送り、あわせて各地の贖罪金や捐納の事例に当たる者には辺境へ粟を納めさせて、飢民を安んずるよう求めた。
- また言う。「兵法に撫と剿を併用するというのは、賊を撫するのではなく、賊に従った飢民を撫するということだ。今、斗米は四銭で、すでに賊に従った者はまだ少ないが、まだ従っておらず勢いとして必ず従うであろう者は際限がない。神廟(萬暦帝)の時に御史を特に遣わして賑済させた前例のように、三十万石を持たせて赴かせ、飢民を安んじて賊とならぬようにし、賊の勢いを孤立させていただきたい」と。
- 帝はその言に感じ、御史の呉甡に十万金を持たせて遣わした。繼貞は少なすぎると言ったが帝は聞かず、後に賊は果たして日々熾んになった。
権勢に屈しない
- 繼貞は人となりが硬骨で、職務にあっては清廉かつ厳格で、請託を通さなかった。
- 大學士の周延儒は繼貞と同年の及第者であったが、總兵官の人事を繼貞に頼んだ。繼貞は目を怒らせて謝絶し、「私が命に従わなければ必ず罪を得ましょうが、刑部の獄は広いので、この繼貞くらいは容れられます」と言った。延儒はこれを恨んだ。
- すでに尚寶寺卿を加えられて遷るべき時期になっても、帝はそのつど長く留任させた。田貴妃の父の𢎞遇は門番の功で優遇の叙任を求めたが得られず、たびたび疏を上げて繼貞を誹謗したが、帝は聞かなかった。
- 中官の曹化淳が身内の者を把總にしようとしたが、繼貞は認めなかった。そこで戎政尚書の陸完學に頼み、尚書の張鳳翼に言わせて繼貞に命じさせたが、繼貞はやはり認めなかった。鳳翼は繼貞の議を退けてその者を用いた。
- 化淳は怒り、𢎞遇とともに日々隙をうかがって讒言した。繼貞は小さな過失を咎められて三秩を貶された。折しも甘肅の功を叙するにあたって、繼貞が前巡撫の梅之煥の再起用を請うたため、帝はついに怒って繼貞の官籍を削った。のちに四川の桃紅壩の功を論じて官を復し、致仕した。
屯田の治績と死
- 崇禎十一年(1638年)、推薦により起用されて両京の尚寶卿を歴任した。翌年春、召し出されて対え、水利と屯田について詳しく陳べ、順天府丞に遷り、まもなく兵部右侍郎兼右僉都御史に抜擢されて天津を巡撫し、薊遼の軍餉を督した。
- そこで大いに屯田を興し、土地を測ること、佃戸を招くこと、水を用いること、人に任せること、賦を薄くすることの五議を上申した。白塘から葛姑まで数十里の間の田は大豊作となった。
- 崇禎十四年(1641年)冬、水師を出して遼を援けよという詔が下ったが、戦艦が備わっていなかった罪で除名された。
- 翌年夏、召されて兵部添注右侍郎となったが、途中で病を得て没した。その夕、星が庭に隕ちた。右都御史を贈られ、子一人を官に取り立てられた。