出自と言官としての争い
- 劉䇿は字を範董といい、武定の人。萬厯二十九年(1601年)の進士。保定新城の知縣から入って御史となった。
- 太僕少卿の徐兆魁を弾劾し、また熊廷弼の取り調べの件、および湯賔尹の科場(科挙不正)の件を力争した。賓尹は郷里に居ながら遠く朝廷の権柄を操り、その党をけしかけて攻撃者の孫振基・王時熙を追わせた。
- やがて給事中の劉文炳が両淮巡鹽御史の徐縉芳を弾劾し、「劉策は葉向髙の幕に入って票擬を左右し、䇿の同官の陳一元は向髙の姻戚として権と利を顧みている」と言った。
- 当時、䇿は宣府・大同を按察しており、疏を上げて「文炳は湯賓尹の死友であり、韓敬に代わって噛みついている。かつて奸を摘発した振基・時熙らは今どこにいるのか」と言った。向髙もまた、䇿には私的な交わりがないとして弁明した。
- 文炳は再三疏を上げて誹謗し、南京御史の呉良輔は「文炳は一疏で御史の縉芳・一元・䇿および李若星を弾じ、再疏で詞臣の蔡毅中・焦竑、および監司の李維楨を弾じた。ほかに波及した者もなお多い。人材が摧かれるのはかくも易い。䇿のような清らかな人品、竑のような高い声望さえ誹謗を免れぬのでは、天下に完全な人などいようか」と言った。
- 䇿はさらに「文炳は方從哲を冰山と頼み、一時の富貴のために清議を顧みない」と論難した。陳一元は銓政(人事)を論じてかつて向髙を風刺したことがあったが、このとき江西を按じており、文炳の疏を見て憤り、文炳の隠し事を暴き、「向髙は去るのだ。今政を執るのは從哲であり、文炳はその同郷、奴顔婢膝で好き放題にさせている」と言った。
- 御史の馬孟楨も「韓敬の請託は実であった。すでに両侍郎・両給諫を斥けて謝罪もした。それなのに剛直な劉䇿を攻撃してやまず、共に奸を摘発した張篤敬までも駆逐しようとするのは、あまりに甚だしい」と言った。
- 疏が入っても帝はどれも顧みなかった。䇿は憤って病と称して去った。
東林と目されての退斥と復帰
- 徐兆魁・熊廷弼・湯賓尹らを攻めた者たちを、党人は一様に東林と名指し、年例(人事の慣例)によって地方に出した。萬厯四十六年(1618年)秋には朝廷に追うべき者がもういなくなり、そこで郷里に居る䇿を河南副使に転じさせた。䇿は病と称して赴かなかった。
- 天啟元年(1621年)春、天津兵備として起用され、右僉都御史に抜擢されて山西を巡撫し、召されて兵部右侍郎・協理戎政に任じられた。天啟五年(1625年)冬、党人が「劉策は東林の遺した奸だ」と弾劾し、官籍を削られた。
- 崇禎二年(1629年)夏、もとの官に起用され、右僉都御史を兼ねて薊遼・保定の軍務を総理した。
大安口の敗と刑死
- 大清の兵が大安口から内地へ入ったが、䇿は防ぎきれず弾劾された。祖大壽が東へ潰走すると、劉策は孫承宗とともに招いて帰らせた。
- 翌年正月、總兵の張士顯とともに逮えられ、死罪と論じられて市に棄てられた。
附・徐縉芳
- 徐縉芳は晉江の人。御史となり、まっさきに顧憲成のために諡を請い、天津の税監馬堂の九つの大罪を弾劾して、直言の名を得た。
- 両淮を巡按したときは賓客との交わりが多く、賄賂を贈られたとして弾劾され、賍罪に問われて天啟年間に辺境へ流された。
附・陳一元
- 陳一元は侯官の人。江西で飢饉の救済を法にかなって行い、病を理由に去った。
- 天啟の初めに起用されて應天府丞を歴任した。御史の徐文縉が葉向髙および一元を弾劾し、職を落とされた。
- 崇禎の初めに官に復したが、温體仁が国政を握ると、一元が東林に付きながら自分の門生であることを嫌い、嫌疑を避けて召さなかった。家で没した。