篇首の立伝者一覧
- 梅之煥
- 劉 策(附・徐縉芳、陳一元)
- 李若星
- 耿如杞(附・胡士容)
- 顔繼祖(附・王應豸ら)
- 李繼貞
- 方震儒
- 徐從治(附・謝 璉、余火成ら)
出自と若き日
- 梅之煥は字を彬父といい、麻城の人。侍郎の梅國楨の甥にあたる。
- 十四歳で諸生となった。御史が管内を巡って閲兵していたとき、之煥は馬を駆って教練場へ躍り込んだ。怒った御史が材官と射を競わせたところ、九発九中し、深く一礼して馬に乗り去った。
- 萬厯三十二年(1604年)に進士に及第し、庶吉士に改められ、七年を経て吏科給事中を授かった。
言路の官として
- 東廠の太監李浚が商人に無実の罪を着せて拷問した件で、之煥はその罪を弾劾した。
- ついで上言していう。今、民は窮し軍糧は乏しく、賊は横行し兵は疲れているのに、言官は国事を措いて時局の争いに走り、部曹は職掌を措いて空論を立てている。天下はすべて空文に縛られ、刷新の志ある者は「事を起こす」と言われ、でなければ「厳しすぎる」と言われる。事の成らぬうちに謗りが起こり、法の行われぬうちに怨みが集まる。豪傑は気力を失い、凡庸な者は無為をよしとし、国事は取り返しがつかなくなる。陛下には、実績の点検を厳しくして実事を責め、言路を通じて紀綱を重んじ、善悪を弁別して人材を惜しんでいただきたい、と。
- 当時の朝臣は党派に分かれて対立していたが、之煥は角の立つ潔癖さで自らを持した。かねて「小人に付く者は必ず小人だが、君子に付く者が必ず君子とは限らない。蠅が駿馬に付いて千里を行っても、蠅は蠅にすぎぬ」と言っていた。
- 故相の張居正を追って論難する者があったとき、之煥は「今日、江陵(張居正)のように名実を総べ紀綱を振るう者があったなら、□(底本欠字)訿するような輩がこれほど大きな顔をできようか」と言った。人に迎合しようとしない公平さはこの通りであった。
地方官としての治績
- 広東副使として出て、豪民を捕らえて誅し、烈女を殺めた者を沈めた。民はその明察に服した。
- 海賊の袁進が潮州を荒らすと、之煥は海路を扼してその一味を切り崩し、ついに袁進を降した。
- 山東の学政に転じた。天啟元年(1621年)、通政參議として召され、太常少卿に遷り、右僉都御史に抜擢されて南贛を巡撫した。父母の喪に遭って郷里に居た。
魏忠賢の党による誣告
- そのころ魏忠賢と客氏が政を乱し、応山の楊漣がまず忠賢の奸を摘発した。忠賢は激怒して楊漣を拷問して殺し、これ以後ますます居直って善人を除き、楚の人を□(底本欠字)んだ。
- 「楊漣が逮捕された折に麻城を通ったが、漣は罪人であるのに之煥は共に留まって涙を流した。官籍を削るべきだ」と言い立てられた。実際には楊漣は麻城を通ってなどいなかった。
- ほどなく逆党の梁克順が私腹を肥やしたと誣告し、賍物の追徴を命ずる詔が出た。莊烈帝(崇禎帝)が即位して追徴は免ぜられた。
甘肅巡撫としての戦功
- もとの官に復して甘肅を巡撫し、套寇(オルドスの寇)を大破して七百余級を斬り、部長三人を生け捕り、六百余人を降した。
- 翌年春、寇が再び大挙して入ったが、豌豆瘡(疱瘡)を病んで大黄山を巡り、病臥した。諸将が不意打ちを請うたが、之煥は「災いに乗ずるのは仁ではなく、危うきに乗ずるのは武ではない。放って恩を売る方がよい」として戦わなかった。ひと月あまりの後、寇の群れは辺城を望んで額を打ちつけ涙を流して去った。
- その冬、京師が戒厳となり、入衛を命ずる詔が下った。出発しようとしたところ、西部の勢力が隙に乗じて河西を犯したので、之煥は留まり、兵を賀蘭山の背後に伏せてその帰路を邀撃し、大兵を水泉峽口に出して二たび戦い二たび破り、八百四十余級を斬った。
- 軍を率いて東へ向かったところ、悍卒の王進才が參將の孫懐忠らを殺して叛き蘭州へ走った。之煥は西へ戻ってその変を鎮め、あらためて軍を整えて東へ向かい、翌年五月に京師へ着いたが、すでに時機を失していた。
- 之煥に入朝を命ずる詔が下り、その翌日には職を解いて処分を待たせる詔が下った。
失脚後と死
- 之煥は文士ながら材武を負い、射を善くしたが、廃されてからは用いるところがなかった。住む県は山に阻まれて盗が多く、之煥は事あるごとに壮健な者を率いて吏の捕縛を助け、逃がすことがなかった。
- 先に甘肅で兵変があったとき、その敗残兵は捕縛・誅殺を恐れて山谷に亡命し、群盗となって勢いを増していた。このとき数万の賊が麻城を攻めに来たが、之煥が部署するのを望み見ただけで引き揚げた。
- 帝は甘肅での前後の功を追って述べ、之煥の官を復し子に廕を与えたが、ついに召さなかった。翌年、病で没した。