出自と梃撃の議論
- 字は當時、江隂の人。諸生のときから盛名があった。萬厯四十一年(1613年)の進士に挙げられ庶吉士に改まったが、年はすでに五十二であった。同年の合格者に彼を忌む者があり、于玉立に薦められた者だと言いふらし、これより東林の目で見られた。
- 張差の梃撃の事で劉廷元が瘋癲を唱え、劉光復がこれに和して、疏で告発した者を詆り、これを奇貨として喜び元功として居るべきではないと言った。昌期は憤って朝士に「奸徒が青宮を狙撃した。これは何等の事か。瘋癲の二字で天下の乱臣賊子を庇い、奇貨・元功の四字で天下の忠臣義士を没しようというのか」と語った。廷元らはこれを聞いて深く憎んだ。
- 給事中の劉文炳が大學士呉道南を弾劾したとき、陰かに昌期を詆った。昌期は檢討を授かったばかりであったが、文炳が再び疏を上げてあらわに攻めたので、疾と称して去った。ついで京察のとき廷元らがまた陥れようとしたが、学士の劉一燝が力めて持したので免れた。
劉一燝の弁護と葉向髙
- 天啟元年(1621年)還朝した。一燝が次輔として国政に当たり、その冬に首輔の葉向髙が着いた。小人が向髙に一燝を讒し、向髙の来任を阻もうとしていると言ったので、向髙は悦ばなかった。給事中の孫杰が魏忠賢の指を承けて一燝と周嘉謨を弾劾すると、忠賢は急いで旨を伝えて放免を許した。昌期は急ぎ向髙のもとへ行き、二人は顧命の重臣で軽々しく逐うべきでなく、内伝は奉ずべきでないと力言した。向髙は不快げに「上の伝えられたものをどうして奉ぜぬわけにいくか」と言った。昌期は「公は三朝の老臣です。着任した日に去就をもって力争されれば必ず通ります。もし一たび伝えただけで二大臣を放免すれば、他日、天子の手が滑って止められなくなります」と言った。向髙は黙った。昌期はさらに一燝が質直で他意のないことを詳しく述べ、向髙の意は少し解けた。顧大章も向髙に言い添え、一燝はようやく善く去ることができた。両人はもと向髙の門下の士である。
- 昌期はまもなく左贊善に遷り、諭徳に進んだ。楊漣が忠賢を弾劾する疏を上げたとき、昌期はたまたま向髙を訪ねた。向髙は「楊君のこの疏はあまりに軽率だ。あの人物は上の御前でしばしば匡正するところがある。鳥が宮に飛び入り、上が梯に乗って手で捕えようとされたとき、あの人が衣を挽いて捕らせなかった。上が緋を賜わった小璫がいたとき、『これは汝の分ではない、賜わっても着てはならぬ』と叱った。その強直はこの通りだ。この疏が行われたら、こんな小心謹慎の人が上の左右に居られようか」と言った。昌期は愕然として「誰がこの言を作って公を誤らせたのか。斬るべきです」と言った。向髙は色を変え、昌期は静かに立って去った。この話が漣の耳に入り、漣は怒った。向髙も内心恥じ、密かに掲帖を具えて帝に忠賢の辞職を許すよう請うた。忠賢は大いに愠った。
削職と獄死
- ちょうど漣の疏は昌期が代作したものだと言う者があり、忠賢はついに深く怒って解けなくなった。向髙が去り韓爌が政を秉ると、忠賢は趙南星・髙攀龍・魏大中および漣・光斗を逐い、爌はみな掲帖を具えて懇ろに留任を請うた。忠賢とその党は、実は昌期がそれを左右したのだと言った。昌期は諸人が国を去るとき、いつも郊外まで送り、手を執って嘆息した。これによって忠賢はいよいよ恨んだ。昌期は勢いが留まれぬと知り、疏を具えて休暇を乞い、ついに職を落として閑居した。
- 天啟五年(1625年)春、汪文言の獄の供述に連なって職を削られ取り調べを受けた。忠賢は恨みやまず、翌年二月、また別の疏で「昌期は既に削籍されながらなお冠蓋を連ねて賓客を招いている」と責め、緹騎に逮え問わせた。ひと月余りでさらに李實の疏の中に入れられ、詔獄に下された。昌期は慷慨として対簿し、言葉も気概も撓まなかったが、ついに贓三千を坐し、五毒の責めを備さに受け、四月晦日に獄で斃れた。
- 莊烈帝が即位すると詹事兼侍讀學士を贈り、一子を録し、あわせて諡を与えるよう詔した。しかしこのとき姚希孟が詞臣として物論を持ち、平素、左光斗・周宗建を善しとせず力めてこれを阻んだので、昌期および周起元・李應昇・黄尊素・周朝瑞・袁化中・顧大章はみな諡を得られなかった。福王のとき初めて文貞と諡された。