明史卷二百四十四 列傳第一百三十二 周朝瑞

出自と光宗朝の言事

  • 字は思永、臨清の人。萬厯三十五年(1607年)進士、中書舎人を授かった。光宗が位を嗣ぐと吏科給事中に抜擢された。先朝の遺直の士を採録するよう疏請した。ついで「慎初の三要」を陳べた。すなわち仁賢を信じ、徳沢を広め、邪佞を遠ざけることである。あわせて上供の金花銀を留めて軍興に充てるよう請うたが、言葉が中官を斥ることが多く、中官がみな悪んで帝の怒りを煽り、秩を貶されて外に転出させられた。諌垣に列してわずか四日であった。まだ都を出ぬうちに僖宗が立ち、詔して故官に復した。
  • 直言を容れるよう疏請し、また考選の諸弊、日講を行い君臣が交々戒め合う規を陳べ、帝はともに褒めて容れた。
  • 賈繼春が李選侍を安んずるよう請うたのを朝瑞は力めて駁し、繼春と数度にわたって応酬した。

天啟朝の言事

  • 天啟元年(1621年)、再び礼科左給事中に遷った。遼の事が切迫していたので、閣臣の中から兵事に通暁した二人を推して専らその事を司らせ、職方郎一人に機宜を専理させ、給事中二人に封駁を専ら主らせるよう請い、帝は許可した。
  • 雄縣知縣王納諫が閹人に誣われ中旨で秩を削られ、給事中毛士龍が閹人を糾駁したため府丞邵輔忠に陥れられ中旨で除名された。朝瑞はともに抗疏して論列した。
  • 十二月辛巳、日に一物が覆い圧し、にわかに大風が砂を揚げて天は真っ赤になった。都の人は驚いたが担当官は奏聞しなかった。朝瑞は帝に修省を請い、内外の臣工に闘争して国を誤るなと厳しく敕するよう求め、さらに担当官が奏報しなかった罪を詰責するよう請い、帝は容れた。
  • 帝が位に即いて一年余、いまだ親政せず権が多く傍らに落ちていた。朝瑞は帝が自ら万機を覧るよう請うた。帝は、政を閣臣に委ねるのは祖宗の旧制で乱してはならぬと旨を降したが、そのころ政権は実は閣にはなかった。
  • 翌年二月(1622年)広寧が失われ、経筵と日講を停める詔が出た。朝瑞らは上言した。これが果たして聖意から出たものなら輔臣が義を引いて争うべきである。輔臣が中涓の意に阿ったのならその過ちはいよいよ大きい。しかも主上は幼く志意も定まらず、ひとえに朝講が絶えぬことに頼って諸臣が天顔に見え、ともに指鹿の奸を明らかにできるのである。今、常朝はすでに次第に取りやめが伝えられており、もし講筵まで廃すれば九重の門が隔たり謁見の時がなくなる。司馬門の報は阻まれて入らず、呂大防の左遷も知り得ぬ。国家の大事は去るのである。礼部も同様に言ったので、日講は従来通りと命じられた。
  • ついで諸々の給事・御史である恵世揚・左光斗らとともに、大學士沈㴶が中官と結んで兵を練るのは肘腋の賊だと極論した。㴶が疏で弁ずると、朝瑞らはその賄が魏進忠・盧受・劉朝・客氏に交わったことをことごとく暴いたが、㴶の私人である邵輔忠・徐大化に及ぶ語が過激だとして、疏の筆頭である世揚の俸を奪われた。
  • 大化はかつて要人の指図を承けて熊廷弼を力めて攻め、朝瑞はこれを悪んでいた。まもなく王化貞が広寧を棄てて逃げ、大化はまた廷弼をただちに誅せと請うた。朝瑞は廷弼の才は用いるに足るとして、今は罪を帯びたまま山海を守らせよと請い、疏を四度上げたがともに抑えられて行われなかった。大化はそこで朝瑞を力めて詆り、朝瑞も憤ってこれを醜く詆った。尚書王紀が大化を弾劾して罷めさせ、朝端(朝瑞の誤りか)はまさに太僕少卿に抜擢されたが、大化はまもなく中旨で起用され、どうしても朝瑞を殺そうとしてその名を汪文言の獄の中に紛れ込ませた。
  • 楊漣ら五人とともに鎮撫の獄に下され、妄りに移宮を議したこと、および廷弼の賄一万金を受けたことを坐された。五日ごとに再訊し拷問を尽くされ、ついに獄に斃れた。崇禎の初め、大理卿を贈られ一子に官を与えられた。福王のとき諡は忠毅。