明史卷二百四十四 列傳第一百三十二 左光斗
字は遺直、桐城の人(?–1625年)。萬厯三十五年の進士で、御史として畿輔の屯田・水利を興し、北方に稲作を広めた。光宗の死後は李選侍の乾清宮居座りを正面から論駁して移宮を実現させ、楊漣と並んで「楊左」と称された。天啟四年に左僉都御史となって魏忠賢弾劾の謀に加わったが、削籍のうえ汪文言の獄に連座し、楊漣と同日に詔獄で斃された。崇禎初に右都御史を贈られ、福王のとき忠毅と追諡された。
年表(6件)
- 萬厯三十五年1607年進士に及第し、中書舎人を経て御史を授かる
- 天啟三年1623年文震孟・滿朝薦らの召還を請い、大理丞に抜擢される
- 天啟四年1624年二月に左僉都御史を拝し、要路に立って人物の品定めを担う
- 天啟四年1624年魏忠賢と魏廣㣲を弾劾する奏を草すが、直前に楊漣とともに削籍される
- 天啟五年1625年汪文言の獄に名を入れられて詔獄に下り、贓二万を坐す
- 天啟五年七月二十六日1625年楊漣と同じ日に獄卒に斃される。年五十一
出自と屯田・水利の功
- 字は遺直、桐城の人。萬厯三十五年(1607年)進士。中書舎人に任ぜられ、選ばれて御史を授かった。中城を巡視し、吏部の豪悪な吏を捕えて治め、偽の印七十余、偽の官百余人を摘発し、都下は震え上がった。
- 屯田を管掌したとき、北方の人は水利を知らぬ、一年で土地が荒れ、二年で民が去り、三年で土地も民も尽きる、と言った。今、旱を災いとせず澇を害としないためには、ただ水利を興す一法があるのみだと述べ、三因十四議を条上した。すなわち因天之時・因地之利・因人之情の三因と、議濬川・議疏渠・議引流・議設壩・議建閘・議設陂・議相地・議築塘・議招徠・議擇人・議擇將・議兵屯・議力田設科・議富民拜爵の十四議である。その法は整然と備わり、詔してことごとく実行を許した。水利は大いに興り、北方の人が初めて稲を植えることを知った。鄒元標はかつて「三十年前は都の人が稲藁が何物か知らなかったが、今はどこにも稲がある。水田の利である」と言った。
- 閹人の劉朝が東宮の令旨と称して戚畹の廃莊を求めたとき、光斗は封を開かずに返して「尺土もみな殿下のものである。今日どうして私かに閹人に授けられようか」と言った。劉朝は憤って去った。
移宮の議
- 光宗が崩じ、李選侍が乾清宮に居座って皇帝の子(皇長子)に皇后の封を迫った。光斗は上言した。内廷に乾清宮があるのは外廷に皇極殿があるのと同じで、ただ天子が天に御して初めて居ることができ、皇后が天に配して初めて共に居ることができる。その他の妃嬪は順に進御しても常には居られぬ。嫌疑を避けるためだけでなく、尊卑を別つためでもある。選侍は嫡母でも生母でもないのに堂々と正宮に居り、殿下はかえって慈慶に退いて几筵を守り大礼を行うこともできぬ。名分をどうするのか。選侍は先皇に対して簪を脱ぎ夜明けを戒めるような徳がなく、殿下に対しては撫し養った恩もない。この人物に聖躬を託せようか。しかも殿下は春秋十六歳、内には忠直老成の臣、外には公孤や卿貳が輔ける。人が乏しい心配はない。まだ乳を飲み背に負われる必要があろうか。まして深い知恵が開けたばかりの今、欲すべきものを見せぬのがよい。今のうちに早く断決せねば、撫養の名を借りて専制の実を行い、武氏の禍が再び今に現れ、将来言うに忍びぬことが起こる。
- そのころ選侍は大権を専らにしようと、廷臣の箋奏をまず乾清に進めてから慈慶に進めさせていた。光斗の箋を得て大いに怒り、厳しく譴責しようとして幾度も使を遣って呼び出した。光斗は「我は天子の法官である。天子の召でなければ赴かぬ。汝らは何者か」と言った。選侍はいよいよ怒り、熹宗を乾清に迎えて議そうとしたが、熹宗は行かず、使を遣ってその箋を取り寄せて見、心中よしとして日を択んで移宮するよう促した。光斗はそれで難を免れた。
- このとき宮府は危疑に満ち人情は懼れていた。光斗は楊漣と心を協せて建議し、閹奴を排して幼主を扶け、帝位が正しく継がれたのは両人の力が多かった。これより朝野は「楊左」と並び称した。
- まもなく御史賈繼春が内閣に上書し、帝が庶母を薄く待遇すべきでないと言った。光斗はこれを聞いてただちに上言した。先帝が崩じ、大臣が乾清宮から皇上を奉じて慈慶宮に出居させたが、臣らは選侍を避けるべきでないと考え、臣は初二日に典礼を慎み守り宮禁を粛清せよという一疏を具えた。宮中は震怒して禍は測り難かったが、皇上の保全によって臣の疏は内閣に下された。初五日に閣臣が掲帖を具えて再び催し、移宮の旨を奉じ、初六日に皇上が登極して乾清宮に還駕された。宮禁は粛然として内外は寧謐である。皇上が還宮されるべき以上、選侍が移るべき理は明白で分かりやすい。ただ移宮の後は大体を存して小過を捨てるべきで、もし株連し蔓引して宮闈を不安にすれば国体を損なう。宝を盗んだ宮奴劉遜らをただちに誅し、その余はことごとく寛せられたい。
- 帝はそこで百官に宣諭して選侍が聖母を凌虐した諸々の状を詳しく述べ、召見の際にも「朕は選侍と仇がある」と言った。繼春はこれによって罪を得て去った。
- そのとき廷臣が改元を議し、泰昌を削って紀さぬという説、萬厯四十八年を去って今年を泰昌とするという説、明年を泰昌とし後年を天啟とするという説があった。光斗はこれらの説を力めて排し、今年八月以前を萬厯、以後を泰昌とするよう請い、議はこれで定まった。
- 孫如游が中旨によって入閣したときは、抗疏してこれを斥けるよう請うた。畿輔の学政を督したときは請寄(口利き)を力めて杜ぎ、人物の識鑑は神の如くであった。
要路に立つ
- 天啟の初め、廷議で熊廷弼を起用し言官の魏應嘉らを罪しようとしたとき、光斗はひとり抗疏して争い、廷弼は才は優れているが度量は広くない、昔は辺を守るに有余であったが今は遼を復するには不足だと言った。果たして廷弼は敗れた。
- 天啟三年(1623年)秋、文震孟・滿朝薦・毛士龍・徐大相らの召還を請い、あわせて繼春と范濟世の召還も乞うた。濟世も移宮の事を論じて光斗と意見を異にした者である。疏は納れられなかった。
- その年、大理丞に抜擢され少卿に進み、翌年(天啟四年・1624年)二月に左僉都御史を拝した。このとき韓爌・趙南星・髙攀龍・楊漣・鄭三俊・李邦華・魏大中らが要路にあり、光斗は彼らと相得て危言覈論を務め、人物の品を分けた。正人はみなこれに頼ったが、忌む者は次第に容れられなくなった。
- 光斗は給事中阮大鋮と同郷で、彼を招いて入京させた。ちょうど吏科都給事中に欠員が生じ、遷るべき順は周士樸が首、次が大鋮、次が大中であった。大鋮は中旨を求めて士樸を遷らせず、己の席にしようとした。趙南星がこれを悪んで大鋮を例により転出させようとしたので、大鋮は光斗がその謀を暴いたと疑って甚だ恨んだ。熊明遇と徐良弼はともに僉都御史を得たかったが、南星は光斗を引いたので、両人もまた光斗を恨んだ。江西の人はまた別の理由で大中を恨んでいた。そこで共に給事中傅櫆を嗾して、光斗と大中が汪文言と結んで奸を為していると弾劾させた。光斗は疏で弁明し、あわせて櫆が東厰理刑の傅繼教と兄弟の契りを結んでいると詆った。櫆は憤って再び疏を上げて光斗を訐いた。光斗が罷免を乞い、事は解けた。
- 楊漣が魏忠賢を弾劾したとき光斗はその謀に与り、また髙攀龍とともに崔呈秀の贓私を暴いた。忠賢とその党はみな怒った。忠賢が南星・攀龍・大中を逐い、次に漣と光斗に及ぼうとしたとき、光斗は甚だ憤って忠賢および魏廣㣲の三十二の斬罪を弾劾する奏を草し、十一月二日に上ろうとして、先に妻子を南に帰した。忠賢はこれを探り知り、二日前に会推の事にかこつけて漣とともに削籍にした。
獄死
- 群小は恨みやまず、また文言の獄を構えて光斗の名を入れた。使を遣ると、往来の道で父老子弟が馬の首に縋って号哭し、声は原野を震わせ、緹騎も涙を拭った。至ると詔獄に下して酷しく訊問した。許顯純は楊鎬・熊廷弼の賄を受けたと誣った。漣らは初め承服しなかったが、承服せねば酷刑で斃されると恐れ、法司に下されれば少しは死を緩め後図を得られると望んで、諸人はみな自ら誣服した。光斗は贓二万を坐した。忠賢は旨を矯めて、なお顯純に五日に一度追徴させ、法司には下さなかった。諸人は初めて計を誤ったことを悔いた。
- 容城の孫竒逢は節義ある俠士で、定興の鹿正とともに、光斗が畿輔に徳があるとして金を醵出する議を唱えた。諸生が争って応じ数千金を得、代わりに納めて獄を緩めようと謀ったが、光斗は漣とすでに同じ日に獄卒に斃されていた。時に天啟五年七月二十六日(1625年)、年五十一。
- 光斗が死んでも贓の追及は終わらず、忠賢は撫按に厳しく追わせ、その一族十四人を繋いだ。長兄の光霽は連座して死に、母は子を哭して死んだ。都御史周應秋はなお担当官の追徴が手ぬるいとして疏で促した。これによって諸人の家族はことごとく破れた。
- 忠賢が三朝要典を定めるに至り、移宮の一案は漣と光斗を罪魁とし、棺を開いて屍を僇そうと議したが、取りなす者があって免れた。
- 忠賢が誅されると光斗に右都御史を贈り一子を録した。のちに再び太子少保を贈った。福王のとき忠毅と追諡された。
- 弟の光先は郷試の挙人から御史となり、浙江を巡按した。任期が満ちて境を出たあと、許都が東陽で反した。光先は変を聞いて急ぎ引き返し討ち平げた。福王が立ち馬士英が阮大鋮を薦めたとき、光先は争って不可とした。のち大鋮が志を得て光先を逮えようとしたが、乱が急で道が阻まれ、光先は間道を行って徽嶺に走り、緹騎は捜しても得られず止んだ。