明史卷二百四十四 列傳第一百三十二 楊漣
字は文孺、應山の人(?–1625年)。萬厯末に進士となり、給事中として神宗の重病に際して皇太子の入侍を実現させた。光宗の急死後は李選侍の乾清宮居座りを排して熹宗の即位を成し遂げ、いわゆる移宮の案の中心人物となった。天啟四年には魏忠賢の二十四大罪を列挙する弾劾疏を上げたが、逆に削籍され、汪文言の獄に連座して詔獄で拷問のすえ獄死した。左光斗と並んで「楊左」と称された東林の代表的言官で、崇禎初に太子太保・兵部尚書を贈られ、諡は忠烈。
年表(11件)
- 萬厯三十五年1607年進士に及第し常熟知縣となり、のち戸科給事中に抜擢される
- 萬厯四十八年1620年神宗の重病に際し方從哲に安否伺いを迫り、皇太子の入侍を促す
- 萬厯四十八年1620年光宗の即位後、崔文昇の投薬を弾劾し鄭貴妃の皇太后封を撤回させる
- 萬厯四十八年1620年光宗の崩御に際し皇長子を乾清宮から擁し出し慈慶宮に入れる
- 萬厯四十八年1620年李選侍の移宮を迫って実現させ、翌日に熹宗が即位する
- 天啟元年1621年賈繼春が罷免され、移宮をめぐる論争がようやく収まる
- 天啟二年1622年礼科都給事中に起用され、まもなく太常少卿に抜擢される
- 天啟四年1624年左副都御史に進み、六月に魏忠賢の二十四大罪を弾劾する
- 天啟四年1624年会推に加わらなかったことを口実に削籍される
- 天啟五年1625年徐大化の弾劾で汪文言の獄に引き込まれ、詔獄で贓二万を坐す
- 天啟五年1625年七月、獄中で拷問のすえ夜半に斃される。年五十四
篇首の立伝者一覧
- 楊漣
- 左光斗(弟の光先)
- 魏大中(子の學洢・學濂)
- 周朝瑞
- 袁化中
- 顧大章(弟の大韶)
- 王之宷
出自と初任
- 字は文孺、應山の人。人となりは磊落で、奇節を負う気概があった。
- 萬厯三十五年(1607年)に進士となり、常熟知縣に任ぜられた。廉吏の第一に挙げられ、戸科給事中に抜擢され、のち兵科右給事中に転じた。
神宗の病と皇太子の入侍
- 萬厯四十八年(1620年)、神宗が病んで食を受けつけぬまま半月に及んだが、皇太子は面会を許されなかった。漣は諸給事・御史とともに大學士方從哲を訪ね、御史左光斗が從哲に安否を問いに行くよう促した。從哲は「帝は病を口にされるのを嫌う。左右に問うても取り次いではくれぬ」と答えた。
- 漣は、文潞公(文彦博)が宋の仁宗の病を問うたとき内侍が言わなかったので「天子の起居を汝らが宰相に知らせぬのは他意があるからだ、ただちに中書に下して法を行う」と言った故事を引き、公が日に三度問えば、帝に会わずとも、また帝の耳に入らずとも、宮中に廷臣が事に当たっていると知らせるだけで十分だと説いた。さらに閣中に宿直すべきだと迫った。從哲が「そのような先例はない」と言うと、漣は「潞公は史志聰を叱った。今は何時だと思うか、なお先例を問うのか」と反論した。
- 二日後、從哲はようやく廷臣を率いて安否を問うた。帝の病は重く、皇太子は宮門の外でためらっていた。漣と光斗は人を遣って東宮伴讀の王安に、帝の病が重いのに太子を召さないのは帝の意ではない、力めて入侍し嘗藥視膳を請えと伝えさせた。太子は薄暮になって還り、深くこれを容れた。
光宗の即位と鄭貴妃・李選侍
- まもなく神宗が崩じ、八月丙午朔に光宗が位を嗣いだ。四日後に不豫となる。都では、鄭貴妃が美姫八人を進め、また中官の崔文昇に利濟(下し薬)を投じさせ、帝が一昼夜に三十回四十回も起きたと取り沙汰された。
- このとき貴妃は乾清宮に居座り、帝の寵愛する李選侍と結んだ。貴妃は選侍のために皇后の封を請い、選侍は貴妃を皇太后に封ずるよう請うた。帝の外戚である王・郭の二戚畹は朝士を遍く訪ねて泣きながら宮禁の危うい有様を訴え、帝の病は必ず癒えぬ、文昇の薬のせいで、誤りではなく故意である、鄭・李の結びつきは固く禍心を蔵している、と語った。廷臣はこれを聞いて深く憂えた。
- 果たして帝は礼部に貴妃を皇太后に封ずるよう促した。漣と光斗は朝廷で声を挙げ、ともに鄭養性を詰責して貴妃を移宮させ、貴妃はただちに慈寧宮へ移った。
- 漣はそこで崔文昇の投薬の不当を弾劾し、推問を請うた。あわせて言う。外庭の流言は陛下の起居に節がなく侍御に惑わされたためだとするが、それは文昇が口実として投薬の奸を覆い隠したもので、文昇の党がこれを煽り広めて外廷の口を予め塞いだのである。聖躬を損ない聖徳を虧いた罪は死をもっても足りぬ。貴妃の封号に至ってはとりわけ典常に背く。嫡母として尊べば大行皇后をどうするのか、生母として尊べば本生太后をどうするのか。前命をただちに取り消されたい。
- 疏を上って四日後の戊辰、帝が大臣を召見し、漣もそこに加えられ、あわせて錦衣の官校が呼ばれた。人々は漣の疏が旨に忤ったので必ず廷杖されると考え、從哲に取りなしを頼んだ。從哲が漣に罪を認めよと勧めると、漣は声を張って「死ぬなら死ぬまでのこと、漣に何の罪がある」と言った。入ってみると帝は温かい言葉をかけ、何度も漣に目をやって、外廷に流言を信じるなと伝えさせた。そして文昇を追い、太后の封を取りやめた。帝は再び大臣を召し、そこにも漣を加えた。漣は小臣の身で顧命に与ったことに感激し、死をもって報いようと誓った。
光宗の崩御と熹宗の擁立
- 九月乙亥朔の未明、帝が崩じた。廷臣が駆けつけると、周嘉謨・張問達・李汝華らの諸大臣は、皇長子に嫡母も生母もなく孤立無援なのを憂え、李選侍に託そうとした。漣は「天子を婦人に託せようか。しかも選侍は昨日、先帝が群臣を召対されたとき、無理に主上を押し入れ、また押し出した。幼主を託せる者ではない。急ぎ儲皇に拝謁し、万歳を呼んで乾清宮から擁し出し、慈慶宮に暫く居らせよ」と言った。
- 言い終わらぬうちに大學士方從哲・劉一燝・韓爌が到着した。漣は諸大臣を促して乾清宮へ向かったが、門番が棒を持って入れない。漣は「奴才め、皇帝が我らを召されたのに、今すでに崩御された。汝らが入れずして何をしようというのか」と大声で罵り、門番が退いてようやく入り、哭して臨んだ。群臣は万歳を呼び、初十日の登極を請い、駕を奉じて文華殿に至り群臣の嵩呼を受けた。
- 駕が至ったばかりのとき、中宮の内竪が寝閣から出てきて「少主を引っぱってどこへ行く」と大呼した。主は年少で人を畏れ、衣を掴んで奪い返そうとする者もあった。漣はこれを遮って叱り、「殿下は群臣の主であり、四海九州すべて臣子でないものはない。誰を畏れることがあろう」と言い、文華殿まで擁して行った。礼が終わると駕を奉じて慈慶宮に入った。
- このとき李選侍は乾清宮に居た。一燝が「殿下は暫くここにお住まいになり、選侍が出宮し終えてから乾清宮にお帰りください」と奏した。群臣は退いて登極の日取りを議したが、意見が紛々として定まらず、初三日に改めよという者、当日の午の刻にせよという者があった。漣は「今、海内は静穏で、内には嫡庶の争いもない。父が死んだというのに、含斂も終わらぬうちに衮冕を着けて朝に臨むのは礼ではない」と言った。「登極すれば人心が安らぐ」と言う者には、「安んずるか否かは登極の早い遅いではなく、処置の適否による。朝廷に委裘(幼君の代理)を置いても何の害があろう」と答えた。
- 議が定まって文華殿を出たところで、太僕少卿徐養量と御史左光斗がやって来て、漣が大事を誤ったと責め、その顔に唾して「事がもし成らなければ、汝の死肉など食うに足るか」と言った。漣は身が引き締まる思いがし、光斗とともに朝房で周嘉謨に会い、選侍には恩徳がなく決して同居させてはならぬと言った。翌日、嘉謨と光斗はそれぞれ選侍の移宮を請う疏を上り、初四日に許可の旨が下った。
- ところが選侍は李進忠(後の魏忠賢)の計を聴き、どうしても皇長子と同居しようとし、光斗の疏中の武氏(則天武后)の語を悪んで、皇長子を召して光斗に重い譴責を加えるよう議した。漣は麟趾門で内竪に出会い、内竪から事情を詳しく聞くと、正色して「殿下は東宮においては太子であったが、今は皇帝である。選侍がどうして召せようか。しかも上はすでに十六歳、後日、選侍をどうにもできなくなったとき、汝らは身の置きどころがあるか」と言い、怒りの目で睨みつけた。その者は退いた。
- 給事中惠丗揚と御史張潑が東宮の門に入ってきて、驚いて「選侍が入って垂簾しようとしている。光斗を処罰しようとしているのに、汝らはどうして平然としていられる」と告げた。漣は「そのようなことはない」と答えた。皇極門を出て九卿・科道が連名の疏を議したが決しなかった。
- 初五日、移宮の期日を緩めるとの噂が伝わった。漣と諸大臣は慈慶宮の門外に集まった。漣が從哲に促すと、從哲は「遅れても害はない」と言う。漣は「昨日は皇長子だから太子の宮に就かれてもまだよかったが、明日は天子となられる方が、逆に太子の宮に居て宮人を避けるのか。両宮の聖母がおられたとしても、夫が死ねば子に従うべきである。選侍は何者で、かくも欺き侮ることができるのか」と言った。
- そのとき中官がしきりに往来し、ある者が「選侍も顧命に与った者だ」と言った。漣は斥けて「諸臣は先帝から顧命を受けた。先帝はまずご自分の子を顧みようとされたのだ。いつ寵姫を先に顧みられたか。選侍には九廟の前で質させよ。汝らはまさか李家の禄を食む者ではあるまい。我を殺せるなら殺せ、さもなくば今日移らぬ限り、死んでもここを去らぬ」と言った。一燝・嘉謨も助け、言葉も顔色も激しく、声は御前まで届いた。皇長子が使を遣って宣諭してようやく退いた。
- さらに抗疏して、選侍は表向き保護の名に託して裏では専擅を図っている、宮は必ず移さねばならぬ、臣が言うのも今日、殿下が行われるのも今日、諸大臣が賛同して決するのも今日だけである、と述べた。その日、選侍はついに移宮して仁夀殿に居った。翌日の庚辰、熹宗が即位した。光宗の崩御からここまで六日である。
- 漣は一燝・嘉謨とともに宮府の危疑を鎮めた。言官では光斗だけが助け、他は皆漣の指図に従った。この間に漣の鬚髪はすっかり白くなり、帝もしばしば忠臣と称えた。
移宮の後の論争
- まもなく兵科都給事中に遷った。御史馮三元らが熊廷弼をひどく詆ったが、漣は疏で論じてひとり公平を持した。ついで兵部尚書黄嘉善の八大罪を弾劾し、嘉善は罷免された。
- 選侍の移宮のとき、漣は諸大臣に「選侍が移宮せねば天子を尊ぶことにならぬ。移宮した以上は選侍を安んずべきである。それは諸公が調護して、中官に私讐を晴らさせぬことにかかっている」と言った。ところが諸宦官は果たして流言を作った。御史賈繼春は内閣に上書し、新君が位に即いたばかりの初めに、主上に先帝に違い庶母を逼い出させるのは不当だ、表裏から構え合って羅織してやまず、先帝のご遺体がまだ冷めぬうちに一人の姫女すら保てなくさせた、と述べた。
- このとき選侍の宮奴である劉遜・劉朝・田詔らが宝物を盗んだ罪で獄に繋がれ、供述が選侍の父に及んでいた。諸宦官は言い分が立たなくなると、選侍が首を吊り皇八妹が井に身を投げたと妄りに言いふらして朝士を惑わした。繼春はその言に藉りて先んじて難を発したのである。
- そこで光斗が移宮の事を述べる疏を上ると、帝は諭を降し、選侍が聖母を打ち据えたこと、皇后の伝封を要求したこと、当日から垂簾聴政を望んだことを述べ、また今は李氏を噦鸞宮に奉養して尊敬を怠っていないと言った。大學士從哲が上諭を封じて返すと、帝は再び諭を降して選侍の過悪と、贍養が優厚であることを自ら明かし、廷臣に知らせた。
- まもなく噦鸞宮が火災に遭った。帝は内閣に諭して選侍と皇八妹は無事だと告げた。このとき給事中周朝瑞が繼春を事を生ずる者だと言い、繼春は互いに詆り合い、また内閣に上書して「伶仃たる皇八妹が井に入って誰が憐れむのか、孀寡の未亡人が首をくくって訴えるすべもない」と述べた。朝瑞とは二度にわたって弁駁を交わした。
- 漣は繼春の説がはびこるのを恐れ、移宮の始末を敬んで述べる疏を上り、「選侍が自裁し皇八妹が井に入ったという蜚語はどこから出たのか。臣がどうして黙っていられよう。臣はむしろ今日選侍に忤らうとも、移宮が遅れる方を選びはしない。不幸にして女后が独り文書を覧て称制垂簾する事態になってはならぬ」と言った。帝は優詔して漣が社稷を安んじた志を褒め、また諭を降して宮掖の事情を詳しく述べた。
- 繼春とその一党はいよいよ漣を忌み、漣が王安と結んで国の封拝を得たと詆った。漣は憤りに堪えず、冬十二月に抗章して辞去を乞い、城を出て命を待った。帝は改めてその忠直を褒め、帰郷を許した。
- 天啟元年(1621年)春、繼春は江西の巡按から還って家に着き、帝の諸々の諭を見て、上書の実情を陳べる疏を具えた。帝は切責して官を罷めた。漣と繼春が前後して去り、移宮の論はようやく息んだ。
魏忠賢弾劾の二十四大罪
- 天啟二年(1622年)、漣は礼科都給事中に起用され、まもなく太常少卿に抜擢された。翌年冬に左僉都御史、その翌年(天啟四年・1624年)春に左副都御史に進んだ。
- このとき魏忠賢がすでに権を握り、群小が附いていたが、忠正の士が朝に満ちているのを憚ってまだ大いに振る舞えなかった。漣はいよいよ趙南星・左光斗・魏大中らとともに激揚して諷議し、善類を植え憸邪を抑えることに努めた。忠賢とその党は骨髄まで恨み、汪文言の獄を興して諸人を羅織しようとした。事はひとまず解けたが、正人の勢いは日に日に危うくなった。
- その年六月、漣はついに抗疏して忠賢を弾劾し、その二十四の大罪を列挙した。冒頭に言う。髙皇帝の定めた令では、内官は外事に干預することを許さず、ただ掖廷の洒掃に供するのみで、違反者は法として赦さぬ。聖明の御代にありながら、肆に憚るところなく朝常を濁乱する者がいる。東厰太監魏忠賢がそれである。あえてその罪状を列挙する。忠賢はもと市井の無頼で、中年に浄身して内地に潜り入り、初めは偽って小忠小信を装って恩を倖い、続いて大奸大悪をあえて行って政を乱している。
- 大罪一――祖制では擬旨は閣臣の専責である。忠賢が権を擅にしてから多くは伝奉から出、あるいは直接に内批で下され、祖宗二百余年の政体を壊した。
- 大罪二――劉一燝・周嘉謨は顧命の大臣である。忠賢は孫杰に論じさせて去らせた。己を忌む者を急いで翦り、陛下に父の臣を改めさせずにはおかなかった。
- 大罪三――先帝の崩御には実に隠れた恨みがある。孫慎行・鄒元標が公義から発憤したのを忠賢はことごとく排斥したが、選侍を党護した沈㴶には曲意して手を尽くし、ついに蟒玉を加えた。乱賊に親しみ忠義を讐とするものである。
- 大罪四――王紀・鍾羽正は先年、国本に功があった。紀は司寇として執法は山の如く、羽正は司空として清修は鶴の如くであった。忠賢は党を構えて斥け逐い、盛時に正色して朝に立つ直臣を置くまいとした。
- 大罪五――国家の最も重んずるものに枚卜(閣臣の選任)に及ぶものはない。忠賢は一手に握って、首推の孫慎行・盛以𢎞を力めて阻み、他の口実を設けてその出仕を錮した。まことに門生宰相を欲しているのか。
- 大罪六――朝廷で爵を人に与えるに廷推より重いものはない。昨年、南の太宰も北の少宰もみな陪推の者を用い、一時の名賢がその位に安んじられなくなった。銓政を顛倒し機権を弄んだ。
- 大罪七――聖政が始まったばかりで、まさに忠直の士を用いるべきときに、文震孟・熊徳陽・江秉謙・徐大相・毛士龍・侯震𤾉らが抗論して少しでも忤らうと、ただちに貶黜された。恩典が何度あってもついに賜環(召還)を阻んだ。長安では「天子の怒りは解けやすいが忠賢の怒りは調え難い」と言われている。
- 大罪八――それでもなお外廷の臣子のことだと言えよう。昨年の南郊の日、宮中の一人の貴人が徳性貞静で上の寵愛を受けたと伝え聞くが、忠賢は己の驕横が露顕するのを恐れ、急病と称して死地に置いた。陛下はその貴幸を保てぬのである。
- 大罪九――なお名分のない封のことだと言えよう。裕妃は懐妊して封を伝えられ内外が慶んだが、忠賢は己に附かぬのを悪み、旨を矯めて自尽を命じた。陛下はその妃嬪を保てぬのである。
- 大罪十――なお妃嬪のことだと言えよう。中宮に慶事があってすでに男子であったのに、にわかに殞じたと告げられた。忠賢と奉聖夫人に実に謀があったと伝え聞く。陛下はその子すら保てぬのである。
- 大罪十一――先帝が青宮にあった四十年、孤危を護持したのはただ王安一人である。陛下が倉卒に命を受けられたときも、擁衛して東宮を守った安の労は無いとは言えぬ。忠賢は私憤から旨を矯めて南苑で殺した。これは王安を仇としただけでなく、実は先帝の老奴を仇としたのである。まして他の内臣で無罪のまま擅に殺され逐われた者は幾千百か分からぬ。
- 大罪十二――今日は奨賞、明日は祠額と、要求は際限なく、王言をしばしば汚した。近ごろはまた河間で人の住居を毀って牌坊を建て、鳳を鏤め龍を彫り、雲を干し漢(天の川)に插すほどである。墓所が陵寝に僭擬するどころではない。
- 大罪十三――今日は中書に廕し、明日は錦衣に廕す。金吾の堂は口みな乳臭く、誥敕の館は目に一丁字も識らぬ。魏良弼・魏良材・魏良卿・魏希孔および甥の傅應星らが濫りに恩廕を襲い、朝廷の常を汚し越えている。
- 大罪十四――立枷の法を用い、戚畹の家人が首を並べて命を落とした。国戚を誣い陥れ中宮を動揺させようとしたもので、閣臣の力持と言官の糾正がなければ、椒房の外戚にもまた大獄が起こっていた。
- 大罪十五――良鄉の生員章士魁が煤窯を争ったのを、開礦に託して死なせた。もし長陵の一抔の土を盗んだ者があったらどう処するのか。趙高は鹿を馬とし得た。忠賢は煤を礦とし得るのである。
- 大罪十六――王思敬らの牧地の細事は有司の責にある。忠賢は落とし穴に幽閉して思うままに拷問し、人命を草菅の如く視た。
- 大罪十七――給事中周士樸が織監を糾したので、忠賢はその昇進を停めた。吏部に銓除を専らにさせず、言官に封駁を司らせぬのである。
- 大罪十八――北鎮撫の劉僑が人を殺して人に媚びるのを肯んじなかったので、忠賢は取り調べが手ぬるいとして削籍させた。大明の律令は守らずともよいが忠賢の律令は遵わぬわけにいかぬと示したのである。
- 大罪十九――給事中魏大忠が旨を受けて任に赴いたのに、にわかに詰責の旨が伝えられた。大中が回奏し台省が交々章を上げ、また王言を汚した。言官を掌の上で弄ぶのは言うまでもなく、煌々たる天語が朝夕に変わるのである。
- 大罪二十――東厰の設置はもと奸を捕えるためである。忠賢が事を受けてからは日々私讐を晴らし人を陥れることを事としている。野子の傅應祥・陳居恭・傅繼教らを放って投書箱を設け罠を仕掛け、一言でも違えばただちに駕帖が下る。この勢いでは同文館の獄を興さずにはおかぬ。
- 大罪二十一――辺境の警報が息まず内外は戒厳している。東厰は何を捜査しているのか。先に奸細の韓宗功が密かに長安に入ったが、実は忠賢の司房の邸を拠点としていた。事が露顕して初めて去った。もし天が禍を悔いず宗功の事が成っていたら、九廟と生霊はどこに身を落ち着けたであろうか。
- 大罪二十二――祖制で内兵を蓄えないのには深い意味がある。忠賢は奸相沈㴶とともに内操を創設し、奸宄を巣くわせている。大盗・刺客や敵国の窺伺者が潜り込んでいないと、どうして分かるのか。ひとたび肘腋に変が生ずれば深く憂うべきである。
- 大罪二十三――忠賢が涿州に進香したとき、警蹕を終えて呼ばわり、塵を清め道を敷いたので、人は大駕の出御かと思った。帰りには四馬に改駕し、羽幢と青蓋が左右を護り取り囲み、まるで乗輿である。その間、暮れに謀を献じ馬を叩いて策を献ずる者が実に多かった。忠賢はこのとき自分を何者と見ていたのか。
- 大罪二十四――寵が極まれば驕り、恩が多ければ怨みとなる。今春、忠賢が御前で馬を走らせ、陛下がその馬を射殺して死を許されたと聞く。忠賢は罪に伏せず、進んでは傲慢な色を見せ、退いては怨言を吐き、朝夕に防ぎを固めて心が晴れぬ。古来、乱臣賊子はただ一念の放肆を争ううちに収拾のつかぬところまで至る。どうして虎兕を肘腋の間に養うのか。これはまた忠賢を寸刻みにしてもその罪を尽くせぬものである。
- 結びに言う。これらの逆跡は明白に人の耳目にあるのに、内廷は禍を畏れて言えず、外廷は舌を結んで奏せぬ。時に奸状が露顕すれば奉聖夫人が取り繕う。ひどい場合は無恥の徒が枝葉に攀じ附き門墻に託し、互いに表裏となって呼応する。積もった威に劫かされて、掖廷の中はただ忠賢あるを知って陛下あるを知らず、都城の内もまた同様である。先日、忠賢が涿州へ出向いたときは、一切の政務を夜を徹して馳せ請い、彼が戻ってから初めて詔旨が下った。天顔は咫尺にありながら、かくも忽せにされる。陛下の威霊はなお忠賢より尊いと言えるのか。陛下は春秋鼎盛、生殺予奪をどうして自ら主れぬことがあろう。なぜ么麼の小醜に制せられ、中外の大小に戦々恐々として命を全うできぬ思いをさせるのか。伏して乞う、大いに雷霆を奮い、文武の勲戚を集め、刑部に敕して厳しく訊問して国法を正し、あわせて奉聖夫人を外に出して隠れた憂いを消されたい。臣は死しても朽ちぬ。
削籍と獄死
- 忠賢は初めこの疏を聞いて甚だ懼れたが、その党の王體乾と客氏が力めて庇い、魏廣㣲に旨を調えさせて漣を切責させた。
- 先に漣は疏が出来上がると早朝に面奏しようとしたが、翌日が免朝に当たり、もう一晩置けば機密が洩れるのを恐れて會極門で上った。それで忠賢に手を打つ余地を与えてしまった。漣はいよいよ憤り、対仗のうえで重ねて弾劾しようとしたが、忠賢はそれを探り知って帝が朝に出るのを三日間阻んだ。帝が出たときには群閹数百人が鎧を着込んで階を挟んで立ち、左班の官には奏事を許さぬと敕したので、漣は止めた。
- これより忠賢は日々漣を殺すことを謀った。十月、吏部尚書趙南星が逐われ、その代わりを廷推したとき、漣は病を届けて加わらなかった。忠賢は旨を矯めて漣を大不敬・人臣の礼なしと責め、吏部侍郎陳于廷・僉都御史左光斗とともに削籍にした。
- 忠賢は恨みやまず、再び汪文言の獄を興して漣を羅織し殺そうとした。天啟五年(1625年)、その党の大理丞徐大化が漣と光斗を党同伐異・招権納賄と弾劾し、文言を逮えて下獄させ取り調べるよう命が下った。許顯純は文言を厳しく鞫して、漣が熊廷弼の賄を納れたと引かせようとしたが、文言は天を仰いで「世に貪贓の楊大洪などあろうか」と大呼し、死ぬまで承服しなかった。大洪は漣の別の字である。
- 顯純はそこで自ら獄詞を作り、漣に贓二万を坐した。漣を逮えると、士民数万人が道を塞いで泣き叫び、通る村や市はことごとく焼香し醮を建てて漣の生還を祈った。詔獄に下ると顯純は酷法で拷訊し、体に完膚なきに至った。その年七月、ついに夜中に斃した。年五十四(1625年)。
- 漣はもとより貧しく、財産を官に没しても千金に及ばなかった。母と妻は物見櫓に寝泊まりし、二人の子は物乞いをして養った。徴贓の令が厳しく、郷人が競って資を出して助け、下は野菜売りの雇人に至るまで拠出した。その節義が人を感動させることはかくの如くであった。
- 崇禎初、太子太保・兵部尚書を贈られ、諡は忠烈。一子を官に任じた。