明史卷二百四十三 列傳第一百三十一 馮從吾

御史としての諫争と削籍

  • 字は仲好、長安の人。萬厯十七年(1589年)の進士。庶吉士に改められ御史を授けられた。中城を巡視した際、宦官が名刺を出して謁を求めたが拒み却けた。礼科都給事中の胡汝寧は邪佞狡猾で、しばしば弾劾されても去らなかったが、從吾がその奸を暴いてついに外に調された。大計に当たっては從吾が厳しく巡邏偵察したので、贈賄は跡を絶った。
  • 二十年(1592年)正月、章を上げて言った。陛下は郊廟に親しまれず、朝講に御されず、章奏は宮中に留めて発せられない。試みに観るに、戊子より前は四方の異民族が順に効い海に波が揚がらなかったが、己丑より後は南の倭が警を告げ北の寇が盟を渝え、天変人妖が重ねて出ている。励精の効はかのごとく、怠斁の患いはこのようである。近ごろ敕諭を頌するに、聖体が違和であるからこれに藉りて自ら掩われようとしているが、宮中で鐘を鼓てば声は外に聞こえるものである。陛下は毎夕必ず飲み、飲めば必ず酔い、酔えば必ず怒り、左右の者が一言少しでも違えばたちまち杖下に斃す。外庭で知らぬ者はない。天下後世を欺けようか。願わくは陛下、天変を畏るるに足らずとされず、人言を恤むに足らずとされず、目前の晏安を恃むべしとされず、将来の危乱を忽せにすべしとされぬように。宗社の幸いである、と。
  • 帝は大いに怒って廷杖しようとしたが、ちょうど仁聖太后の寿辰であり、閣臣が力めて解いたので免れた。まもなく休暇を得て帰り、起用されて長蘆の塩政を巡り、己を潔くし商を恵んだので奸宄は跡を斂めた。朝に還ると、ちょうど帝が軍政で両京の言官を大いに黜したところで、從吾も削籍された。これもなお前の疏によるものである。
  • 從吾は生まれつき純朴誠実で、長じては濂洛の学に志し、許孚遠に受業した。官を罷めて帰ると門を閉ざして客を謝し、先正の格言を取って身心に体験し、造詣はついに深遠となった。家に居ること二十五年。

三案の議と首善書院

  • 光宗が即位すると尚宝卿に起用され、太僕少卿に進んだが、いずれも兄の喪により赴かなかった。ほどなく大理に改められた。
  • 天啓二年(1622年)左僉都御史に擢せられ、わずか二か月で左副都御史に進んだ。三案の廷議で從吾は言った。李可灼は至尊をもって試みたのに病と称して退くことを許したのは、国に当たる者は何の心か。梃撃の獄で奸を暴いた諸臣を難詰した者こそ奸人である、と。これによって群小に憎まれた。
  • まもなく鄒元標とともに首善書院を建て、同志を集めてその中で講学した。給事中朱童蒙がそこで疏で詆ると、從吾は言った。宋が振るわなかったのは講学を禁じたためであって、講学したためではない。我が二祖は六経を表章され、天子の経筵も皇太子の出閣もみな講学である。臣子がこれを君に望みながら己は為さぬというのが許されようか。先臣守仁は兵事の倥偬のときも講学をやめず、ついに大功を成した。これが臣らが毀誉を恤みずこれを為す理由である、と。あわせて再び病と称して罷めるよう求めた。帝は温詔で慰め留めたが、給事中郭允厚・郭興治が相継いで元標を甚だ力めて詆った。從吾はまた上言した。臣は壮年で朝に登り、楊起元・孟化鯉・陶望齢の輩と講学の会を立てた。臣が告げて帰ってから京師の講学は廃れた。昔から已にあったことが、なぜ今日に至って詬厲となるのか、と。あわせて再び疏を上げて自ら引いて帰った。
  • 四年(1624年)春、南京右都御史に起用され、しばしば辞して着任せず、工部尚書に召し拝せられた。ちょうど趙南星・高攀龍が相継いで国を去ったので、続けざまに疏を上げて力めて辞し、致仕を与えられた。
  • 明年秋、魏忠賢の党の張訥が疏で從吾を詆り、削籍された。同郷の王紹徽は素より從吾を恨んでおり、吏部となるに及んで喬應甲に陝西を撫させ百方に穿鑿させたが得るところがなく、そこで書院を毀って先聖の像を曳き城の隅に擲った。從吾は憤りと悶えに堪えず病を得て卒した。崇禎初、復官して太子太保を贈られ恭定と諡された。

史論

  • 贊に曰く。趙南星ら諸人は名検を持し風節を励まし、厳しい気と正しい性で侃々として朝に立ち、天下はこれを泰山喬嶽のように仰いだ。詩に「邦の司直」というのは、この人たちを謂うのであろうか。権を枉げる者が廷に満ち、譴責と謫遷が相継ぎ、「人の云に亡ぶれば邦国は殄瘁す」。悲しいことである。