明史卷二百四十二 列傳第一百三十 白瑜

言官としての諫争

  • 字は紹明、永平の人。萬厯二十三年(1595年)の進士。庶吉士に選ばれ、兵科給事中に授けられた。
  • 帝が東宮を冊立し太后に徽号を上ったのち、瑜は、孝慈を推し広げること、倹に篤く廉を持すること、人材を惜しむこと、冤獄を省くこと、この四事を請い、いずれも祖訓および先朝の事を引いて時政を諫めたが、その辞はきわめて切であった。
  • 三十年(1602年)京師が旱に見舞われ、陝西・河南では黄河が涸れた。礼官が修省を請うと、瑜は言った。修省は実政を行ってこそである。今、逐われた臣は久しく錮せられ、繋がれた臣は久しく拘われている。ひとたび憐れんで釈せば天心を感格できる、と。末に礦税の害を言ったが、いずれも返答はなかった。
  • 累遷して工科都給事中となった。帝が射場に乾徳臺を営むと、瑜は疏を上げて力諫し、また再び疏を上げて中官の王朝・陳永夀を斥けるよう請うたので、帝は恨みを抱かずにいられなかった。ちょうど瑜が治河は専任すべきだと論じたので、帝はその言を寄せ集めた陳言であると責め、廣西布政使照磨に謫した。病で帰った。

鄭養性の獄を平らかに裁く

  • 光宗が立つと光禄少卿に起用され、三たび遷って太常卿となった。給事中の倪思輝・朱欽相、御史の王心一が直言によって謫されたとき、瑜は疏を上げて救いを論じた。
  • 天啓二年(1622年)通政使から刑部右侍郎に拝せられ部の事を署理した。鄭貴妃の兄の子の養性が詔を奉じて本籍に還ることになりながら逗留して去らなかった。その家の奴の張應登が、養性が塞外と通じていると訴えた。永寧伯の王天瑞は孝靖太后の父で、太后のゆえに鄭氏を恨んでおり、弟の錦衣の天麟とともに次々に上書して養性の不軌を弾劾した。瑜は、鄭氏は先朝に罪を得ているが塞外との交通の事は誣告であるとして、都御史趙南星・大理卿陳于廷らと会同して獄を裁いて上り、奴の誣告の罪に当てて養性を遠方に居らせるよう請い、許可された。
  • 明年、左侍郎に進み、任地で卒した。尚書を贈られた。