明史卷二百四十一 列傳第一百二十九 王紀

出自と地方の治績

  • 字は惟理、芮城の人。萬厯十七年(1589年)の進士。池州推官に授けられ、入って祠祭主事となり、儀制郎中を歴任した。礼を秉り政を持し、時の声望は高かった。
  • 二十九年(1601年)帝が東宮を冊立しようとしてしばしば遷延して決しなかったので、紀は疏を上げて極論した。その冬、礼が成って光禄少卿に擢せられたが、病と称して去った。
  • 四十一年(1613年)太常少卿から右僉都御史に擢せられ保定の諸府を巡撫した。連年の水旱に、紀は救荒の法を設けて甚だ備えがあった。税監張曄が、詔で已に免除された諸税の徴収を請うたので、紀は二度の疏で力争したが、曄はついに中旨を取ってこれを行った。紀は曄が詔書に背き成命を妨げたと弾劾したが、いずれも返答がなかった。在任四年で管内は大いに治まった。
  • 戸部右侍郎・総督漕運兼巡撫鳳陽に遷った。諸府が大凶作となると、畿輔のときと同じように振救した。
  • 光宗が立つと戸部尚書に召し拝せられ倉場を督した。

刑部尚書と紅丸の議、沈㴶との対決

  • 天啓二年(1622年)黄克纘に代わって刑部尚書となった。ちょうど紅丸の事を会議しているところで、紀は侍郎楊東明とともに議に署名して言った。方從哲は貴妃のあるを知って君父のあるを知らない。李可灼は薬を進めて駕が崩じたのに、かえって恩諭で慰められ銀幣を賜わった。国の典はどこにあるのか。可灼を逮えねば天下を服させられず、崔文昇を逮えねば可灼を服させられず、從哲の官階・禄廕を削奪せねば天地神人の憤りを晴らせない、と。議が出ると人々は甚だ震え上がった。
  • 主事の徐大化は素より無頼で、日々魏忠賢の門に出入りして善良な者を陥れ、また給事中周朝瑞・恵世揚をあらわに弾劾した。紀は憤って大化の職務怠慢の状を弾劾し、あわせて言った。大化がまことに朝廷のために賊を撃つというなら、大臣の中に権勢ある宦官と結び正しい事を根絶やしにする宋の蔡京のような者がいる。なぜ弾劾文に載せず、正しい人と日々水火の争いを求めるのか、と。大臣とは大學士沈㴶を指す。大化はこれによって罷免されたが、㴶と忠賢は深く憾んだ。
  • 御史楊維垣は大化と縁があり、素より㴶に附いていたので、㴶を助けて紀を詆り、紀の弾劾した大臣には主体が示されていない、実名を指させるべきだと言った。紀はそこで直ちに㴶を攻めて言った。㴶は蔡京と生を同じくしないが、事実は相類する。魏忠賢に取り入るのは京が童貫と結んだのと同じ。董羽宸に哀れみを乞うのは京が陳瓘に懇ろにしたのと同じ。死友の卲輔・應孫杰と盟を要するのは京が吳居厚と固く結んだのと同じ。顧命の元臣である劉一燝・周嘉謨を逐うのは吕大防・蘇軾を安置したのと同じ。言官の江秉謙・熊徳陽・侯震暘を斥け逐うのは安常民(常安民の誤か)・任伯雨を貶謫したのと同じ。さらに婦人・宦官に賄賂を通じて威権をもてあそび、中旨がしきりに伝えられても上は悟らず、朝廷の権柄をひそかに握っても下は知らない。これもまた、京が国を惑わし上を欺いたのと百世を隔てて符を合わせるものだ、と。
  • 客氏・魏忠賢はこれを聞いて怒り、㴶のために帝の前で泣いて訴えた。帝は紀を煩わしい言と言って譴責を加えた。

佟卜年の獄と失脚

  • 初め李維翰・熊廷弼・王化貞が吏に下されたとき、紀はいずれも重刑に処したが、都御史・大理卿とともに廷弼・化貞の判決文を上げたときには、二人に酌量すべき点があるとかすかに示し、しかし予期せぬ特別の恩は法官が軽々しく議すべきものではないとした。
  • 千総の杜茂という者が、登萊巡撫陶朗先の千金を携えて募兵に赴いたが、金が尽きて兵が募れず、帰るに帰れず薊州の僧舎に戻ったところを巡邏に捕らえられ、供述が佟卜年に及んだ。卜年は遼陽の人で、進士に挙げられ南皮・河間の知県を歴任し、䕫州同知に遷ったがまだ赴任せず、経略の廷弼が薦めて登萊監軍僉事となっていた。巡邏の者が茂を打ち据えると、かつて卜年の河間の役所に三か月客となり、謀叛を語り合い、その二人の僕を連れて李永芳のもとへ通じに行ったと言った。行辺尚書張鶴鳴がこれを上聞した。鶴鳴はもと廷弼と隙があり、卜年に藉りてその罪を重くしようとしたのである。朝士はみな卜年の冤罪を知っていたが敢えて言わなかった。
  • 鎮撫司が獄を成して刑部に移すと、紀は疑って諸曹の郎に問うた。員外郎顧大章が言った。茂は二人の僕と三千里を往来したというのに、拷問されて死にかけても終に二人の僕の姓名を知らない。虚偽の自白であるのは疑いない。卜年は間諜ではないが、実に佟養真の一族の子であるから、流三千里でよかろう、と。紀はその議に従った。
  • 巡邏がまた間者の劉一巘を捕らえた。忠賢は劉一燝の兄弟かと疑い、一巘と卜年をすぐに誅し、一巘によって一燝に連座させようとした。紀はいずれも拒んで不可とした。
  • 㴶はそこで、紀が廷弼を庇い卜年らの獄を緩めたことを二つの大罪として弾劾した。帝は紀に事情を陳べるよう責め、遂に平民に落とした。侍郎楊東明が部の事を署理し、卜年を流二千里に処した。獄は三度上って三度却けられた。給事中成名樞・張鵬雲・沈惟炳は卜年と同年の進士で、発憤して他の事を拾い上げて東明を連続して弾劾した。卜年は長く繋がれたまま獄中で病死し、東明は病と称して去った。
  • 紀が斥けられたとき、大學士葉向髙・何宗彦・史繼偕が救いを論じたが聴かれなかった。後に閹党が善良な者を一網打尽にしたときには、紀は先に卒していたので免れた。崇禎元年(1628年)復官し、少保を贈られ一子を廕され、莊毅と諡された。

楊東明――言官から刑部右侍郎まで

  • 字は啟修、虞城の人。給事中として、国本を定めること、出閣豫教すること、早朝勤政すること、宋應昌・李如松の功罪の公平を酌むことを請うた。河南の饑民の図を上り、寺丞鍾化民を薦めて救済に赴かせた。吏科を掌り、孫丕揚を助けて大計を主宰した。後に沈思孝を弾劾し、思孝と互いに詆り合って三官を貶され陝西布政司照磨となった。郷里に居ること二十六年。光宗が立つと太常少卿に起用され、天啓中に累進して刑部右侍郎となった。帰郷して卒した。崇禎初、刑部尚書を贈られた。