出自と万言の封事
- 丁元薦は字を長孺といい、長興の人。父の應詔は江西僉事。元薦は萬厯十四年(1586年)の進士に及第したが、休暇を請うて帰り、家に居ること八年でようやく選に謁して中書舍人となった。
- 就任してわずか一か月で万言の封事を上げ、時弊を極言した。いわく、今日の事勢で寒心すべきものが三つある――飢民が乱を思っていること、武備が久しく弛んでいること、日本への封貢のこと。浩歎すべきものが七つある――徴斂が苛急なこと、賞罰が明らかでないこと、忠賢の士が廃錮されていること、輔臣が妬み嫉むこと、議論がいたずらに多いこと、士習が敗壊していること、功に報い忠を恤む措置が備わらぬこと。座視して救薬しがたいものが二つある――紀綱と人心である。
- そのうち輔臣を言う箇所はもっぱら首輔の王錫爵を斥けたものであったが、錫爵は元薦の座主であった。
- 萬厯二十七年(1599年)の京察のとき、元薦は家居していたが浮躁に坐して論調された。
京察をめぐる争いと削籍
- 十二年を経て、廣東按察司經歷に起用され、禮部主事に移った。着任したばかりのとき、ちょうど京察が終わったところで、尚書の孫丕揚が力を尽くして邪党を清めたが、逆にその党から攻められていた。副都御史の許𢎞綱はもともと共に京察を掌っていたが、群小の横暴が甚だしいのを見て畏れ、たびたび疏を上げて察典の終結を請い、言葉にはかなり異論の色を示した。群小はこれに藉りて丕揚を攻めた。
- 察の疏がまだ下されず人心が不安定で、事が途中で変わることが懸念されたが、敢えて言う者はなかった。元薦はそこで上言し、𢎞綱の議の持ち方は進んだり退いたりすべきではないと述べ、あわせて諸人の隠れた行状をことごとく暴いた。党人はこれを憎み、代わる代わる論劾して日を空けなかった。元薦はさらに二度の疏で弁明したが、結局身を安んじられずに去った。
- その後、邪党はますます熾んになり、正人はほとんど残らず斥けられ、ついには「六経は天下を乱す」という語を郷試の策問に入れる者まで出た。元薦は家居していたが憤りに堪えず、また馳せて宮門に疏を送り、乱政が高皇(太祖)に叛き邪説が孔子に叛くものであると痛烈に詆った。疏は返答されなかったが、党人はますます彼を憎んだ。
- 萬厯四十五年(1617年)の京察で、ついに「不謹」によって削籍された。
- 天啟の初め、遺佚が大いに起用されたが、元薦は前例に阻まれて一人だけ召されなかった。四年(1624年)になって廷臣が代わる代わるその冤を訴え、刑部檢校に起用され、尚寶少卿を歴任した。翌年、朝事が大きく変わって再びその籍を削られた。
- 元薦ははじめ許孚遠に学び、のち顧憲成に従って交わった。慷慨で気を負い、事に臨んでは奮って前に出て、たびたび躓いても少しも挫けなかった。仕籍にあること四十年、前後の在職はあわせて一年に満たなかった。同郡の沈㴶が内閣に召し入れられ一度会おうと誘ったが、謝して行かなかった。かつて高攀龍を訪ねたとき、交わりを結ぼうと請われたが、「私はもう老いた、要路に近づく嫌疑を冒せない」と辞して、そのまま別れ去った。
- 東林と浙党が分かれたとき、浙党が東林に向けて放った矢は、李三才に次いでは元薦と于玉立であった。
于玉立(附伝)――時政の闕失を論ずる
- 玉立は字を中甫といい、金壇の人。萬厯十一年(1583年)の進士。刑部主事に任じられ、員外郎に進んだ。
- 萬厯二十年(1592年)七月、時政の闕失を疏で陳べた。いわく、陛下は貴妃を寵幸して宴逸に度がなく、恣に威怒を行って群下を鞭打ち、宮人・宦官で無辜のまま死ぬ者は千人に及ぶ。人が必死の心を懐きながら肘腋・房闥の間に置かれているのだから、便に乗じて一挙に事を起こせば、寒心せずにおられようか。
- 田義はもと一介の奸豎にすぎぬのに、陛下は寵信して疑われない。近ごろ奏牘が下されたり留められたり、推挙が用いられたり否とされたりするのは、みな義がその間を弄しているのだと道路に取り沙汰されている。義は陛下を城社(後ろ盾)とし、外廷の佞邪はまた義を城社としており、党を合わせ謀を連ねれば、その禍は量りがたい。
- そのうえ陛下はひとたび嬖倖に惑われて以来、数年来、問安・視膳も郊廟・朝講も一切行われない。辺境の烽火が四方に上がり禍乱が形を成しても、なお憂危の情を動かし晏安の習を奪うに足らぬ。君身が修まらぬこと今日より甚だしいことはない。
- 宮廷が震驚しているのに陛下が聞かぬがごとくであるのは、どうして両宮の憂いを解けようか。深く禁中に拱していては夤縁の隙を開き、邪孽が権を侵しても陛下がその奸を察せぬのでは、どうして権が旁らに落ちるのを杜げようか。萬國欽らは主に逆らったわけでもないのに終に禁錮されているのでは、どうして骨鯁の臣を励ませようか。上下は隔絶し、国議も軍機も参酌して断ずるすべがなく、陛下の㫖を称し令を下しても閨闥の間から出ないのでは、どうして大臣の謀を尽くさせられようか。忠良の多くが退けられ邪佞が名を得ているのでは、どうして群臣の気を作せようか。遠近の民はみな、至尊が日々遊楽を求めて百姓の塗炭を顧みぬと疑っているのでは、どうして天下の心を繋げようか。
- そして力説して、李如松・麻貴は大将たりえない、鄭洛は再び起用すべきでない、石星は本兵(兵部尚書)に堪えない、と述べた。疏は入ったが返答はなかった。
- まもなく郎中に進み、病と称して帰った。
于玉立(附伝)――妖書事件と東林
- 久しくして旧官に起用された。康丕揚らが妖書の一件で郭正域を陥れようとしたとき、玉立ひとりが正域に味方した。ちょうど医者の沈令譽が妖書の実行者だと言う者があり、その箱を捜すと玉立が吏部郎中の王士騏に宛てた書簡が出て、その中に自分の起官の事が触れられていた。帝が吏部に下して調べさせようとしたところ、玉立が急いで弁明の疏を上げたため、帝は怒ってその官を褫った。
- 玉立は倜儻で世話好きであった。国内で建言して廃錮された諸臣はみな東林に帰したので、玉立は彼らと気脈を通じ、東林の名はいよいよ盛んになった。東林を攻める者はおおむね、玉立が遠隔から朝権を操っていると言い、これをもって東林を非難した。
- 玉立は郷里に居ること久しく、たびたび推薦された。三十七年(1609年)にわずかに光祿丞に起用されたが、辞して赴かなかった。言者はなお中傷をやめず、御史の馬孟禎が抗章してこれを是正したが、帝はいずれも顧みなかった。さらに三年たって光祿少卿として召されたが、ついに出仕しなかった。
- 天啟の初め、先朝で罪に問われた諸臣を録したとき、玉立はすでに没しており、尚寶卿を贈られた。