明史卷二百三十四 列傳第一百二十二 雒于仁

父の雒遵と馮保

  • 雒于仁、字は少涇、涇陽の人。父の遵は吏科都給事中であった。
  • 神宗が即位したばかりのころ馮保が権を窃み、帝が殿に出ると保はいつも傍らに侍した。遵は「保は一介の侍従の僕にすぎぬのに天子の宝座に立つとは。文武の群臣は天子を拝むのか、それとも中官を拝むのか。陛下が幼少なのを侮り、無礼はここに至った」と言った。遵は大學士高拱の門生であったので、保は遵が拱の指図を受けたと疑い、ついに拱を逐う謀りごとを立てた。遵の疏は留中された。
  • まもなく遵は兵部尚書の譚綸を弾劾し、ついで海瑞を薦めた。吏部尚書の楊博は綸の才を称え瑞を迂遠と詆ったので、疏は沙汰やみとなった。
  • ほどなく綸が日壇の陪祀で咳が止まらず、御史の景嵩・韓必顯が綸の衰病を弾劾した。居正はもともと綸と善く、馮保はこれに乗じて遵を罪に落とそうとし、旨を伝えて嵩・必顯に「誰を綸の代わりにするつもりか」と詰問し、遵と会して推挙させようとした。遵らは恐れて承知しなかったため、そろって三秩を貶され外に調えられ、遵は淅江(浙江)布政司照磨を得た。保が失脚するとたびたび遷って光禄卿となり、右僉都御史に改まって四川を巡撫し、罷免されて帰り没した。

四箴を献じて帝を諫める

  • 于仁は萬厯十一年(1583年)の進士。肥鄉・清豐の二縣を知り、恵政があった。十七年(1589年)に朝に入り大理寺評事となった。
  • 疏を上げて四箴を献じ諫めた。その大略はこうである。臣が官に備わって一年餘、陛下に朝見できたのはわずかに三度。ほかは聖体不調を聞くばかりで、郊祀・廟享はすべて免じ代理の官を遣わされ、政事を親らせず、講筵も久しく絶えている。臣は陛下の疾に至った理由を知っている。酒を嗜めば腸を腐らせ、色に溺れれば性を伐り、財を貪れば志を喪い、気に尚べば生を戕う。
  • 具体的にはこう述べた。陛下は八珍を御前に並べ、觴酌に耽り、昼だけでは足らず長夜に及ぶ。これが嗜酒の病である。十俊を寵して倖門を開き、鄭妃に溺れてその言を聴かぬことなく、忠謀を斥け、儲位は久しく空いている。これが戀色の病である。帑金を伝索し幣帛を括り取り、はなはだしくは宦官を掠問し、献上があればよいが無ければ譴怒される。李沂の瘡痍がまだ癒えぬのに張鯨の賄賂がまた入っている。これが貪財の病である。今日は宮女を打ち、明日は中官を打ち、罪状も明らかでないのに杖の下で命を落とさせる。また直臣に宿怨を蔵し、范㒞・姜應麟・孫如法のような者はみな一度退けられたきり伸びる日がなく、赦されて還る日もない。これが尚氣の病である。
  • さらに言う。この四つの病が身心に絡みつき、薬石で治せるものではない。いま陛下は御年盛んでありながら年を越えて朝せられぬ。これから先はどうなるのか。孟子は「法家拂士」を重んじたが、いま鄒元標がその人である。陛下がこれを棄て置かれる理由は分かる。元標が入朝すれば必ずまず聖躬を言い、次に左右に及ぶ。だからその賢を知りながら忌んで用いられぬのだ。しかし直臣は陛下に不利、左右に不便でも、宗社には深く利があることをお考えにならぬのか。陛下がこの四つに溺れておられるのは、生殺の権を握っておられるので人が畏れて言えない、あるいは深密の地におられるので人が知りようもなく言えない、と思われているからだろう。だが宮中に鐘を鼓てば声は外に聞こえ、幽独の中も指視の集まるところ。禄を保ち身を全うする士なら威権で懼れさせられようが、忠を懐き義を守る者は鼎鋸すら避けぬ。いま敢えて四箴を献ずる。もし臣の言を用いてくださるなら、その場で臣を誅されても臣は死して生けるがごとしである、と。
  • 四箴の趣旨は次のとおり。酒箴――麴蘖に耽って朝夕やまねば、心志は内に暗くなり威儀は外に欠ける。神禹は狄(旨酒)を疎んじて夏の治は興隆した。陛下に「濃い酒を尊ぶなかれ」との薬を進める。色箴――妖姫が艶やかに寝起きに侍り、寵を開けば侮りを納れ、妍を争えば国を誤る。成湯は近づけず遐寿を享けた。陛下に「内嬖を厚くするなかれ」との薬を進める。財箴――鏐鐐(金銀)を競い錙銖まで取り尽くせば、公帑は盈ちても私家は空になる。武王は鹿臺を散じて八百が心を帰し、隋煬は利を剥いで天命は保ち難かった。陛下に「貨賄を侵すなかれ」との薬を進める。氣箴――忿怒を逞しくし情のままに恣にすれば、法は操切に傾き政は公平を失う。虞舜は温恭で和して祥を致し、秦皇は暴戻で群怨が明らかとなった。陛下に「旧怨を蔵するなかれ」との薬を進める。
  • 疏が入ると帝は激怒したが、歳暮に当たっていたためその疏を十日留め置いた。「十俊」とは十人の小閹のことである。
  • 翌年の元旦、帝は毓徳宫に閣臣の申時行らを召し、于仁の疏を手ずから渡して自ら詳しく弁明し、重典に処そうとした。時行らは婉曲に慰め解き、帝の意が変わらぬと見て「この疏は外に出せません。外の者が真と信じるのを恐れます。どうか寛大なご処置を。臣らからただちに寺卿に伝諭して于仁を退位させます」と言った。帝はうなずいた。
  • 数日して于仁は病と称して辞し、庶民に落とされた。久しくして没した。天啟初、光禄少卿を贈られた。