明史卷二百三十三 列傳第一百二十一 樊玉衡

貴妃を諫めて雷州に流される

  • 樊玉衡、字は以齊、黄岡の人。萬厯十一年(1583年)の進士。廣信推官から召されて御史となった。京察で無為判官に左遷され、少し遷って全椒知縣となった。
  • 萬厯二十六年(1598年)四月、玉衡は冊立が久しく滞っているとして上言した。「陛下が貴妃を愛されるなら、貴妃をうまく処遇する道を図られるべきである。いま天下に冊立の遅滞の過ちを貴妃に帰さぬ者はないのに、陛下はまたことさら曖昧にしてその過ちを大きくしておられる。陛下は貴妃を天下にどう託されるおつもりか。元子から見れば慈しみを欠き、貴妃から見れば智を欠く。一つとして良いことはない。願わくは早く大計を定め、冊立・加冠・婚礼の諸典を順次挙行し、天下に元子の安泰を貴妃の功と思わせられたい。そうすればともに福を受け、無窮の名声を享けられるではないか」と。
  • 疏が奏されると、帝も貴妃もはなはだ怒り、詔は一日に三、四度も擬され、禍は測り知れないほどであった。大學士趙志臯らが力めて救い、「帝の即位以来、諫臣を殺したことはない」と言ったので、帝はその疏を焼き、堪えて発しなかった。
  • 二か月を越えて、「憂危竑議」の一件に連座し、ついに永く雷州に流された。長子の鼎遇が闕下に伏して身代わりを請うこと二度に及んだが許されなかった。
  • 光宗が立つと南京刑部主事に起用されたが、老齢を理由に辞し、親賢遠奸の十事を疏陳した。手厚い詔で答えられ、まもなく太常少卿の官で致仕を命ぜられ、自宅で没した。

樊維城(子・附伝)――魏忠賢一党の断罪を請う

  • 子の維城は萬厯四十七年(1619年)の進士。海鹽知縣に任じられ、礼部主事に遷った。天啟七年(1627年)、事に連座して上林苑典簿に左遷された。
  • 莊烈帝が即位し、魏忠賢がまだ誅されていないとき、抗疏して言った。「高皇帝の定めた律では、人臣が大功もないのに事を暈かして封爵を奏請した場合、担当官庁も封を受けた者もともに斬とある。いま魏良卿・良棟・鵬翼は白丁の乳臭い小僧でありながら封爵をむさぼっている。みな律により誅すべきである。忠賢の蓄えた財の半分は内帑から盗んだもので、没収して太府に返せば九辺の数年分の兵糧を賄える」と。
  • そのついでに楊漣・萬□(底本欠字)ら十四人の褒賞・恤典を請い、賀逢聖・文震孟・孫必顯ら三十二人を召し還し、張體乾・許顯純・楊寰らの罪を速やかに正すよう請うた。
  • その月、また言った。「崔呈秀は死んだとはいえ、官を剥ぎ屍を戮すべきである。五虎・五彪の徒はある者は駅伝の使用を賜り、ある者はただ帰郷させられただけである。これでどうして人心を服させ国典を明らかにできようか」と。末尾に吏科の陳爾翼が「東林の遺孽を摘発したい」と請うたことの非を斥け、御史方震孺の罪を釈くよう乞うた。帝はいずれも採納した。
  • 崇禎元年(1628年)に戸部主事に遷り、員外郎に進み、泉州知府・福建副使を歴任した。八年(1635年)、大計によって罷免されて帰った。

樊維城――黄岡の陥落と殉死

  • 十六年(1643年)、黄州の城の南門が五日五夜にわたって哭したので、人々は禍が必ず来ると知り、城を挙げて逃げたが、婦女は多く逃げ遅れた。
  • 三月二十四日、張獻忠が黄岡を破り、知縣の孫自一、縣丞の吳文爕が殉死した。賊は維城を屈服させようとしたが、声を励まして大いに罵ったので、刃が胸を貫いて死んだ。
  • 賊はそこで婦女を駆り立てて城から突き落とし、少しでも遅れれば手首を斬った。血が土石の間に滴り、三日で城壁は平らになり、さらに彼女らを殺して塹壕を埋めた。
  • 自一は光山の人である。