辺務と河工
- 張貞觀、字は惟誠、沛の人。萬厯十一年(1583年)の進士。益都知縣に任じられ、兵科給事中に抜擢された。
- 山西の辺務の閲視に出た。五臺の奸人の張守清が亡命の徒三千余人を集めてほしいままに銀鉱を開き、そのうえ潞城・新寧の二王と姻戚を結んでいた。帝は巡按御史の言を納れて、守清に徒党を解散させ、二王に縁組を絶つよう諭した。守清は課税を官に納めることを乞うて、鉱山開発は元のとおり続けたが、貞觀が力めて争ってやめさせた。
- 前任の巡撫沈子木・李采菲はいずれも貪汙であった。子木は縁故を頼って兵部侍郎になっていたが、貞觀は二人ともに追って弾劾し、子木は貶され、采菲は職を奪われた。
- 還って工科右給事中に進んだ。泗洲で淮水が大いに溢れ、あわや祖陵を齧るところであった。貞觀は視察に赴き、黄河と淮河を分流させる策を定めた。
三王並封と出閣講読の礼
- 再び遷って礼科都給事中となった。三王並封の制が下ると、貞觀は同僚を率いて力めて争った。
- 瀋王の珵堯は郡王から進封されたので、その弟たちは将軍にとどまるべきであった。ところが珵堯が奔走して郡王の位を得させたので、貞觀および礼部尚書羅萬化は故事を守って極諫したが、容れられなかった。
- 当時、郊祭・廟祭はおおむね官を遣わして代行させていた。貞觀は帝みずからの親祀を力めて請うた。ほどなく秋の祭祀もまた官を遣わそうとしたので、貞觀は再び諫めたが返答はなかった。
- 翌年正月、皇長子が出閣して講読するとの詔が出た。兵部が護衛を請い、工部が儀仗を奏し、礼部が儀注を進めたが、いずれも宮中に留め置かれた。そのうえ奉先殿にあらかじめ告げ、両宮に朝謁するだけとされ、他の礼はみな廃された。
- そこで貞觀らが上言した。「礼官の議では、御門で賀を受け、皇長子が群臣に会う礼は旧儀に載っている。諸王の加冠でさえ礼を成して賀するのであり、賀が終われば謁見する。元子が初めて出るのに、諸王の一度の加冠にも及ばぬというのか。そのうえ謁して謝するのが両宮だけで、陛下および中宮・母妃の前を欠くのは、孝を教える道ではない。賀を二皇子に限って兄弟長幼の間に漠然としているのは、序を弁ずる道ではない」と。
- 疏が入って上意に逆らい、一年分の俸を奪われた。
- 工科給事中黎道照が上言した。「元子が初めて師に就かれるにあたり、陛下は自ら手本を示されるべきである。ところが珠玉珍宝を買い集めて費用は三十六万余に及び、さらに太僕の銀十万両を取って賞に充てられた。初めに法を作る本意ではない。そのうえ貞觀らが礼を守って直諫したのは職分であり、罰すべきではない」と。給事中趙完璧らもこれを言った。
- 帝は怒って諸臣の俸を奪い、貞觀を雑職に左遷した。大學士王錫爵らが切に救ったので三階級を貶すにとどめた。ほどなく都給事中許𢎞綱・御史陳惟芝らが章を連ねて重ねて論じたので、帝はついに貞觀を除名し、言官も俸を止められた。
- 内外から交々推薦されたが、ついに起用されなかった。天啟中に没し、太常少卿を贈られた。