麒麟の献上を諫める
- 王學曾、字は唯吾、南海の人。萬厯五年(1577年)の進士。醴陵知縣に任じられ、崇陽に転じ、南京御史に抜擢された。
- 当時、吏民に罪があると、すぐ官校を遣わして逮捕していた。學曾は疏してその停止を請うたが、容れられなかった。
- 十三年(1585年)、慈寧宮が落成し、工事を監督した内侍がみな錦衣の蔭官を与えられた。學曾はその濫に過ぎることを論じ、そのうえ工部尚書楊兆が宦官に諂ったと弾劾した。兆は恐懼して罪を認めた。
- ついで「龍江関は蕪湖にごく近く、蕪湖ですでに税を徴しているのだから、龍江で重ねて徴すべきではない」と言ったが、通らなかった。
- 光山で牛が麒麟に似た仔を産み、役所が報告しようとしたが、巡撫の臧惟一が許さなかった。帝は礼部に命じてこれを徴させ、尚書沈鯉が諫め、惟一も疏して論じたが聴かれなかった。學曾は抗言した。
- 麒麟は牛の腹から生まれ、翌日には死んだ。ならば瑞祥はすでに不祥である。その不祥の物を担当の役所は報告していないのに、陛下はどこからお聞きになったのか。左右の小人が奇怪なもので聖心を惑わせているのではないか。
- いま四方は旱魃の災いで老人も子供も流離し、飢えを啼き寒さを号ぶ声を陛下はお聞きにならない。北の敵が猛り、士卒が困苦して呻き怨む有様を陛下はお聞きにならない。宗室が貧窮して朝夕の食にも事欠き、愁え困じて涙する様を陛下はお聞きにならない。ただ、すでに死んだ麒麟のことだけをお聞きになる。あの左右の者たちが、まことに陛下に忠であろうか。
- 願わくは成命を撤回され、内臣で言葉が邪妄にわたる者はただちに厳しく斥けられたい。
- 帝はその名声を求め直言を売る態度を責め、興國判官に降した。
- 当時、御史蔡時鼎もまた言によって罪を得ていた。南京御史王藩臣・給事中王嗣羙らが章を交わして両人を救うと、帝は怒って一級分の俸を奪った。
- 學曾は累進して南京刑部主事に遷り、召されて光禄丞となり、少卿の涂杰とともに合疏して三王並封を争い、上意に逆らってともに削籍された。
- 数年後、吏部尚書蔡國珍が疏して起用を請うたが容れられず、自宅で没した。
涂杰(附伝)
- 杰は新建の人。隆慶五年(1571年)の進士。龍游知縣から入って御史となり、光禄の官に抜擢された。
- 熹宗の時、學曾に光禄少卿、杰に太僕少卿が贈られた。