明史卷二百二十九 列傳第一百十七 吳中行

出自と居正奪情への抗疏

  • 吳中行、字は子道、武進の人。父の性、兄の可行はいずれも進士で、性は尚寳丞、可行は檢討であった。中行は元服してすぐ郷試に合格したが、性が焦って進むなと戒めたので会試には赴かなかった。
  • 隆慶五年(1571年)に進士となり、庶吉士に選ばれて編修を授かった。大學士の張居正は中行の座主であった。
  • 萬厯五年(1577年)、居正が父の喪に遭いながら奪情して視事した。御史の曽士楚、吏部都給事中の陳三謨が留任を奏する疏を唱え、朝廷じゅうがこれに和した。中行ひとりが憤った。折しも彗星が西南に現れて天を横切るほど長く、百官に修省を命ずる詔が下ったので、中行はまっ先に上疏した。その趣旨は次のとおり。
  • 居正父子は地を隔てて音容を接せぬこと十九年である。それが一朝、数千里の外で永く世を去った。陛下が星のように馳せ帰って棺に憑って一慟することを許さず、心に背き情を抑え、哀しみを含み痛みを呑んだまま廟堂の上で遠大な計画と国政の調和を責められるのは、人の情であろうか。
  • 居正は常々、聖賢の義理と祖宗の法度を謹んで守ると言う。宰我が喪を短くしようとしたとき、孔子は「その父母に三年の愛あるか」と言った。王子が数月の喪を請うたとき、孟子は「一日を加えるといえどもやめるに勝る」と言った。聖賢の訓えはどうであったか。
  • 律では庶民や小吏でも喪を匿すことに禁がある。ただ武人だけが墨衰で事に従えるのであって、輔弼の臣を処する道ではない。起復に先例があるといっても、一日も国門を出ずにたちまち視事した者はいまだない。祖宗の制はどうであったか。
  • 事は万古の綱常に関わり、四方が見聞きしている。今日に行き過ぎの挙がなければ、後世に残る議論もない。変を消す道はこれに勝るものはない。
  • 疏を上げてから副本を居正に示した。居正は驚いて「疏はもう進めたのか」と言った。中行は「進めていなければ、あえてお知らせはしません」と答えた。
  • 翌日、趙用賢の疏が入り、その翌日、艾穆・沈思孝の疏が入った。居正は怒って馮保と謀り廷杖しようとした。翰林院侍講の趙志臯・張位・于慎行・張一桂・田一儁・李長春、修撰の習孔教・沈懋學がみな救う疏を具えたが、はねられて入らなかった。學士の王錫爵は詞臣数十人を集めて居正に解を求めたが容れられず、ついに中行ら四人が杖たれた。まもなく進士の鄒元標も争って廷杖され、五人の直言の声は天下に響いた。中行と用賢は並べて「吳趙」と称された。南京御史の朱鴻謨が五人を救う疏を上げたが、やはり斥けられた。
  • 中行らは杖を受け終わると、校尉が布に乗せて長安門の外へ引き出し、板の扉に載せてその日のうちに都城から追い出した。中行はすでに息が絶えていたが、中書舍人の秦柱が医者を連れてきて薬を一匙投じたところ蘇った。病身を輿で南へ運び、腐った肉を数十切れ削り取った。大きいものは掌に余り、深さは一寸に達し、片方の肢は空洞になった。

復官とその後

  • 九年(1581年)の京官の大計で、五人は考察の名簿に載せられて禁錮され、二度と叙用されなかった。居正が死ぬと、士楚は蘇州・松江を按ずるにあたり「わしはどの面下げて吳・趙の二公に会えようか」と憮然として、病と称して去った。三謨はすでに太常少卿に擢されていたが、まもなく士楚とともに弾劾されて削籍された。
  • 廷臣が交々薦めたので、中行は召されて旧官に復し、右中允に進んで経筵に侍した。大學士の許國が政を執ると、李植・江東之は中行・用賢をその一党だと誹謗した。中行は奏辨し、あわせて罷免を乞うたが許されず、再び右諭徳に遷った。御史の蔡系周が植を弾劾したついでにまた中行を侵したので、中行は去ることを求めて四たび章を上げ、白金と文綺を賜って駅伝で帰った。言事する者がたびたび薦めたが、執政が抑えて召さなかった。
  • 久しくして侍講學士として起用され、南京翰林院を掌った。同郷の僉事である徐常吉がかつて中行のことで訴訟を起こしたことがあり、すでに解決していたが、給事中の王嘉謨が旧事を拾い出して弾劾したので、家に居って召しを待てと命ぜられ、まもなく卒した。のち禮部右侍郎を贈られた。
  • 子の亮・元、甥の宗逹。亮は御史となり累に坐して官を貶され、終わりは大理少卿。元は江西布政使。宗達は少傅・建極殿大學士。亮は志節を尚び顧憲成らと親しかったが、元は東林を深く憎み、その輯した『吾徴録』で力を尽くして詆り毀った。兄弟の趣を異にすることこのとおりであった。