明史卷二百二十九 列傳第一百十七 王用汲

出自と趙應元の弁護

  • 王用汲、字は明受、晉江の人。諸生であったとき郡が倭に襲われ、外来の兵が市中で横暴を働いた。折しも御史が巡察に来たので用汲が事情を訴えると、知府は「これが諸生の関わることか」と言った。用汲は「范希文は秀才のとき天下をもって己が任とした。まして郷里の禍が諸生に関わらぬはずがありましょうか」と答えた。
  • 隆慶二年(1568年)の進士。淮安推官を授かり、常徳同知に遷り、戸部員外郎として入った。
  • 萬厯六年(1578年)、首輔の張居正が親を湖廣に帰葬した。諸司はこぞって参集したが、巡按御史の趙應元だけは行かず、居正は含むところがあった。應元が任期を終えて後任を得るとすぐ病と称して辞した。僉都御史の王篆は居正の食客で、平素から應元を憾んでおり、居正の意に迎合して都御史の陳炌に應元が責を避けたと弾劾させ、除名させた。
  • 用汲は憤りに堪えず上言した。その趣旨は次のとおり。
  • 御史應元は会葬しなかったことで輔臣に罪を得、都御史炌に論ぜられ、病と偽って欺いたとして削籍された。臣はひそかにこれを恨む。病は誰にでもある。今、在廷の大小の諸臣で病を理由に願い出た者がどれほどいるか。御史の陸萬鍾・劉光國・陳用賓はみな巡方の任を終えて病と称しており、應元と変わらぬのに、炌はなぜ併せて弾劾しないのか。炌自身も世宗の朝には十余年も養病し、のち縁を求めてよじ登り、急に要職に列した。退くをもって進むとするのは炌ほどの者はない。自分が行っておきながら人を責めては、どうして天下を服させられよう。
  • 陛下はただ炌が應元を弾劾したのを見て、ほしいままに責を避けた罪で罷斥すべきとお思いになるが、その意図がどこから来たかを、陛下はどうして知りえよう。
  • 昨年、星変によって考察を行ったのは災いを弭めるためであった。ところが挫かれた者の半ばは宰官に附かぬ人であった。翰林の習孔教は鄒元標のゆえ、禮部の張程は劉臺のゆえ、刑部で「浮躁」が他部より多かったのは艾穆・沈思孝のゆえ、考察後に劣等として転じられた趙志臯は吳中行・趙用賢のゆえである。輔臣の心を得られれば、たびたび論列された潘晟でさえ順を越えて恩を蒙り、輔臣の心を失えば、素より才名のある張岳でさえ「不及」として調される。臣は、陛下が災いを省み咎を塞ぐための挙が、宰臣が恩に報い怨みに報いる私事にすぎぬとは思ってもみなかった。しかも宰臣に附く者もそれぞれこれに藉りて私を果たしている。歎息せずにおられようか。
  • 孟子は「君の悪に逢うはその罪大なり」と言った。ならば相の悪に逢う罪はさらに大きい。陛下は生まれつき聖明で諫を容れて拒まれぬので、諸臣もそれをよく知り、争って頭を砕き鱗を批いて己を示そうとする。陛下が錦綺を織らせようとすれば撫臣・按臣が言い、珍異を採らせようとすれば部臣・科臣が言い、太倉・光禄から取ろうとすれば台臣・科臣がまた言う。陛下はことごとく嘉納され、あるいは停止し、あるいは前例とせずとされる。ところが輔臣の意の向かうところは、是非を問わずあえて一言もその非を正す者がなく、それどころか先回りしてその歓心を結び、風を望んでその炎を張る者さえある。これが臣のいう「逢」である。今の大臣で相の悪に逢わぬ者はなく、炌はとりわけ目立つ一例にすぎぬ。
  • 臣の見るところ、天下に私ならぬ事はなく、私ならぬ人はなく、ただ陛下お一人が公である。その陛下が自ら聴断されず、衆が阿り奉る大臣に政を委ねられるので、大臣はいよいよ私を成して顧みるところがなく、小臣はいよいよ私を行うことに苦しんで訴える先がない。これでは天下を駆り立てて私門に奔らせるようなものである。
  • 陛下はどうして日々庶政を取って習わぬのか。内外の章奏を自ら省覧し、まずご自身の意で可否を示し、そののち輔臣に付して商議させられたい。閲し習うことが久しくなれば智慮はいよいよ広く、微かなもの隠れたものも天鑑を逃れなくなる。そもそも威福は陛下から出るべきもの、乾綱は陛下が独り攬るべきものである。人に寄せれば旁落と言われ、あるいは倒しに柄を持つと言われる。政柄はひとたび移れば積み重なって返しがたい。これこそ臣が日夜深く慮るところで、應元一事のためだけではない。
  • 疏が入ると居正は激怒し、下獄・廷杖しようとした。折しも次輔の呂調陽が休暇中で、張四維が削籍を擬したので帝はこれに従った。居正は罪が軽いとして四維に怒りを移し、幾日も厳しい顔で接した。

復職と大理少卿としての駁奏

  • 用汲は帰って郭外に隠れ住み、布衣で講義し、城市に足を踏み入れなかった。
  • 居正が死ぬと刑部に補されたが、着任前に廣東僉事に抜擢された。まもなく尚寳卿に召され、大理少卿に進んだ。
  • 折しも法司が胡檟・龍宗武が吳仕期を殺した獄を議し、謫戍と伝えられた。用汲は駁奏して言った。「律に照らせば、刑部および大小の官吏で法律によらず上司の主使に従って人の罪を出入りさせた者はその罪も同じとある。これは上文の、斬に処し妻子を奴とし財産を官に没入するという律のとおりという意味である。仕期の死において、檟は主使者ではないか、宗武は上司の主使に従った者ではないか。今わずかに謫戍とするのは、いかなる律に拠るのか分からぬ」。
  • 帝は用汲の言を用いようとしたが、閣臣の申時行らが仕期は自ら死んだのだから減等すべきだと言い、獄はそれで定まった。
  • まもなく順天府尹に遷り、南京刑部尚書を歴任して致仕した。用汲は人となりが剛正で事に敢えて当たった。京尹となって以後、累次の遷任がいずれも南京であったのは、その強直のゆえである。卒して太子太保を贈られ、諡は恭質。