出自と三事の上疏
- 傅應禎、字は公善、安福の人。隆慶五年(1571年)の進士で、零陵知縣に任じられた。洞庭の凶悪な賊を殲滅し、祁陽の大悪人を論じて処刑したので、民は安んじた。漂水の知縣に転じた。
- 萬厯三年(1575年)、御史に徴された。張居正が国政を執り、應禎はその門生であった。感ずるところがあって、君徳を重んじ・民困を蘇らせ・言路を開くの三事を疏に陳べた。その趣旨は次のとおり。
- 近ごろ雷が端門の獣吻を震わし、京師および四方で地震が重ねて告げられた。それなのに修省の詔が発せられたとは聞かぬ。まことに天変は畏るるに足らずとするのか。
- 真定の抽分に中使を遣わすのはもとより旧典ではなく、正統門で暫く行ったことがあるだけである。先帝は李芳の言を納れてすでに詔して罷めた。それを陛下が踏襲しようとされるのは、まことに祖宗は法とするに足らずとするのか。
- 給事中の朱東光が保治を奏陳したのは、檻を折り衣を解いた諫めの類とは違うのに、留中されて返答がない。まことに人の言は恤むに足らずとするのか。
- この三つの「足らず」は王安石が宋を誤らせたものである。深く戒めねばならぬ。
- 陛下は即位の初め、隆慶改元以前の未納の租をことごとく免じ、四年以前は十分の七を免ぜられた。恩はまことに厚い。ところが上の憐れみは至っているのに下は引き延ばして平然としており、責任を負う者がいない。なぜか。小民の一年の収入はやっと一年をまかなうだけで、負債を償う余力がないのである。近ごろ、納入が定額に及ばぬ者は按撫が糾し郡県が調べるとの定めができ、諸臣は譴責を畏れて督促を倍も厳しくしたので、流離が続き怨嗟の歎きが天に届いている。これが太平の象で、陛下がお聞きになって喜ばれることであろうか。明詔を下し、官吏の着服によるものでない限りすべて免ぜられたい。民の困窮が癒えれば災いも自ずと弭む。
- 陛下は即位の初め、直臣の石星・李己を召し用いられ、臣工で慶び幸わぬ者はなかった。ところが近ごろは、趙參魯が宦官を糾して典史に謫され、余懋學が時政を陳べて終身の禁錮となった。ほかに胡執禮・裴應章・侯於趙・趙煥らの封事もたびたび上がっているが、一切そのまま置かれている。これでは初政に対してどうか。參魯を京職に抜擢し、懋學を旧官に還して、人臣の進言する者を励まされたい。
- 疏が奏せられると、居正は疏中の王安石の語が自分を侵すとして激怒し、切責の旨を調え、その言葉が懋學に及んでいることを口実に、應禎を詔獄に下して党与を徹底的に取り調べた。應禎は死に瀕しても何も認めなかったので、定海に謫戍された。
- 給事中の嚴用和、御史の劉天衢らが救う疏を上げたが聴かれなかった。應禎が下獄したとき、給事中の徐貞明が御史の李禎・喬巖とともに見舞ったところ、錦衣の長である余廕がこれを報告したので、三人もまた謫された。
- 十一月、御史孫繼先の言によって召され官に復した。帝が昌平に行幸して寿宮を検分しようとしたとき薊鎮から警報があり、應禎は行幸を止め、あわせて辺備を詳しく陳べたので、手厚い詔で答えられた。
- まもなく南京大理寺丞に抜擢され、赴任にあたり海内の知名の士三十七人を薦めた。まもなく病と称して帰り、三年で卒した。本寺右少卿を贈られた。
- 應禎は同郷の劉臺と同じ年に進士となり、ともに御史となり、ともに居正に忤って禍を得たので、郷里の人は二人を並べて祠った。