明史卷二百二十九 列傳第一百十七 劉臺

安福の人、字は子畏。刑部主事から御史に改まって遼東を巡按し、勝報の誤奏で叱責を受けた。張居正の門生でありながら、宰相を自任する専権ぶり、朱希忠への王爵贈与、張四維・張瀚の私的な引き立て、考成法による科臣の抑圧、江陵の大邸宅と辺境での蓄財などを列挙して弾劾し、二百年来なかった「門生が師長を弾劾した」例となった。居正は辞職を口にして帝に慰留され、劉臺は詔獄に下されて廷杖百・除名の処分を受けた。なお恨まれ、張學顔の誣告と于應昌・王宗載の調べによって廣西に流され、父と弟も連座し、潯州で急死した。奇しくもその日は居正の没した日であった。のち江東之の訴えで冤が晴れて官を復され、光禄少卿を贈られ、天啓の初めに毅思と追諡された。

年表(5件)

篇首の立伝者一覧

  • 劉臺(割注に附伝として馮景隆・孫繼先)
  • 傅應禎
  • 王用汲
  • 吳中行(割注に附伝として子の亮・元、從子の宗達)
  • 趙用賢(割注に附伝として孫の士春)
  • 艾穆(割注に附伝として喬璧星・葉春及)
  • 沈思孝(割注に附伝として丁此吕)

出自と張居正弾劾の上疏

  • 劉臺、字は子畏、安福の人。隆慶五年(1571年)の進士で、刑部主事を授かった。萬厯の初め、御史に改まって遼東を巡按したが、勝報の誤奏の咎で叱責を受けた。
  • 四年(1576年)正月、臺は輔臣の張居正を弾劾する疏を上げた。その趣旨は次のとおり。
  • 進言する者はみな陛下に堯舜たれと望むが、輔臣に皐陶・夔たれと責めるのは聞かぬ。陛下には諫を納れる明があるが、輔臣に言を容れる度量がないからである。
  • 高皇帝は前代の失を鑑みて丞相を置かず、事は部院に帰して勢いが相摂せず職も称いやすかった。文皇帝が初めて内閣を置いて機務に参預させたが、当時は官階が高くなく専横の芽もなかった。二百年来、威福をほしいままにする者があっても、なお宰相の名を避けて敢えて居らなかったのは祖宗の法があったからである。ところが大學士張居正はふんぞり返って自ら宰相をもって処している。高拱が追われて以来、威福をほしいままにすること三、四年になる。諫官が事に触れて論ずると必ず「わしは祖宗の法を守る」と言う。ならばその祖宗の法で正させていただきたい。
  • 祖宗は大臣を進退するに礼をもってした。先帝の臨崩に居正は病と称して拱を逐い、さらに王大臣の獄で罪をこじつけ、正論がかまびすしくなると拱に書を送って「驚いて死ぬな」と言った。追い出して威を示し、書を送って徳を示し、いたずらに朝廷が旧臣に無礼をはたらいた形にした。祖宗の法はこのようなものか。
  • 祖宗の朝では、開国の元勲でなければ生きて公とせず死んで王としなかった。成國公朱希忠は生前に奇功があったわけではないのに、居正は祖訓に違えて王爵を贈った。給事中の陳吾徳が一言して外に遷され、郎中の陳有年が一たび争って斥けられた。臣は公侯の家が賄を撒いて先例をたてに乞い求め、際限がなくなることを懼れる。祖宗の法はこのようなものか。
  • 祖宗の朝では内閣と冢宰は必ず廷推によった。今、居正はひそかに張四維・張瀚を薦めて用いた。四維は翰林にあって幾度も論ぜられ、初めて去ったのも庶吉士の教習に堪えなかったからである。四維の人となりを居正はよく知っている。知りながら用いたのは、四維が機を弄して拠り所が多く、居正が自分の親は老いていつ何があるか分からぬので、二、三年のうちに復任を謀るのに四維を身後の託としたからであろう。瀚は生涯これという善行もなく、陝西を巡撫しては汚職が甚だしく、急に銓衡の任に躍り出ても下役のように唯々諾々とし、官に欠員が出れば必ず居正に指示を仰いだ。指し示される者は楚の人か親戚知人でなければ、その親戚が引いた者であり、楚で恩を受けた縁故でなければ、その縁故の一党である。瀚はただ日々四方の小吏を取ってその賄賂を秤にかけるばかりで、他はただ虚名を擁するにすぎぬ。居正が南京都御史の趙錦に書を送って台諫に冢宰を議論させぬようにしたと聞くから、朝廷の言官への居正の脅制ぶりも推して知れる。祖宗の法はこのようなものか。
  • 祖宗の朝では詔令が不都合なら部の臣が閣の草案の不審を咎めさえした。今は厳しい旨が下れば居正は「わしが力を尽くして調整したからこの程度で済んだ」と言い、温かい旨が下れば「わしが力を尽くして請うたから得られた」と言う。そのため居正を畏れることは陛下を畏れるより甚だしく、居正に感じることは陛下に感じるより甚だしい。威福を己から出し朝廷を眼中に置かぬ。祖宗の法はこのようなものか。
  • 祖宗の朝では、一切の政事は台省が奏陳し、部院が題覆し、撫按が奉行するので、閣臣が挙劾したことなど聞かぬ。居正は撫按の考成を定め、章奏はそれぞれ二冊を作り、一冊を内閣に、一冊を六科に送らせた。撫按が遅延すれば部の臣が糾し、六部が隠蔽すれば科の臣が糾し、六科が隠蔽すれば内閣が糾すという。そもそも部院は国事を分掌し、科の臣は奏章を封駁して挙劾するのがその職である。閣臣は翰林に名を列ね、顧問に備えてゆったりと論思するだけのはずなのに、居正がこの説を創ったのは科の臣を脅して手をつかねて命に従わせるためである。祖宗の法はこのようなものか。
  • 按臣が任を終えての考察は、よほど類を敗る者でなければ普通は行わない。厳しく挫くのを避けるためである。近ごろ御史の俞一貫が指図に従わぬとして南京に移された。これで巡方の者は気を落とし、誰も手腕を伸べられない。憚られるのは科の臣だけだが、居正は科の臣に昇進の速さを餌にし、考成の遅れを脅しに使う。誰がその便宜を捨てて噛みつかれるのを甘受し、命を賭して言事しようか。
  • 先年、趙參魯が諫めて遷されたのはまだ外任だと言えた。余懋學が諫めて罷められたのもまだ禁錮だと言えた。今、傅應禎は謫戍である。しかも應禎のゆえに徐貞明・喬巖・李禎にまで及んだ。言官を挫き正しい士を仇敵視する。祖宗の法はこのようなものか。
  • 寵を固める計としては白蓮・白燕を献じ、責めの旨を受けて四方の笑いものになった。田宅の利を図っては、遼王を重罪に陥れてその府の地を奪い、今また武岡王が罪を得た。子弟の郷試を謀っては、御史の舒鼇に京堂を、施堯臣に巡撫を許した。江陵に大邸宅を起こして費用は十万に至り、造りは宮禁になぞらえ、錦衣の官校を遣わして工事を監させたので、郷里の脂膏は尽きた。黄州の生員が子弟のまぐれ当たりを議したのを憎み、県令に別件で徹底的に処断させた。編修の李維楨がたまたまその豪富を口にすると、たちまち外に斥けられた。
  • そもそも居正の貪りは文吏にではなく武臣に、内地にではなく辺境にある。そうでなければ、政を輔けていくらも経たぬのに楚一国で第一の富を得られるはずがない。宮室・輿馬・姫妾・奉御が王者と同じというのも、どうして得られようか。在朝の臣工で憤り歎かぬ者はないが、あえて陛下に明言する者がないのは、積もった威に劫かされているからである。
  • 臣が進士となったとき居正は総裁であり、臣が部曹に任じたとき居正が薦めて御史に改めた。臣が居正から受けた恩も厚い。それでも今あえて公然と攻めるのは、君臣の誼が重ければ私恩を顧みられぬからである。願わくは臣の愚心を察し、相権を抑え損じて事を敗り国を誤らせぬようにしていただきたい。臣は死しても朽ちぬ。

廷杖・流謫と死

  • 疏が上がると居正は激怒し、廷弁して言った。「法令では巡按は軍功を報じてはならぬ。昨年の遼東の大捷は、臺が制に違えて妄りに奏したので法では降謫に当たるが、臣はただ旨を請うて戒諭しただけである。それでも臺は憤りに堪えなかった。のち傅應禎が下獄して党与を糺したとき、臣は初め臺と應禎が同郷で親しいことを知らなかったが、実は思うところがあって、臺は妄りに自ら驚き疑い、もはや遠慮なく臣に憤りをぶつけたのである。かつ臺は臣が取った士である。二百年来、門生が師長を弾劾した例はない。ひとまず去って謝するほかない」。そう言って政を辞し、伏して泣いて起とうとしなかった。帝は御座を降りて手ずから助け起こし、再三慰留した。居正は強いて諾したがなお出て視事せず、帝が司禮太監の孫隆に手敕を持たせて宣諭してようやく起った。
  • そこで臺を京師に捕らえ、詔獄に下し、廷杖百・遠戍を命じた。居正はうわべは疏を具して救ったので、除名して庶民とするにとどまった。
  • しかし居正の恨みはやまなかった。臺が遼東を按じていたとき巡撫の張學顔と折り合いが悪かった。ここに至って學顔は戸部にあり、臺が贖鍰を私したと誣告した。居正は御史の于應昌に遼東を巡按させてこれを調べさせ、王宗載に江西を巡撫させて臺の郷里での事を調べさせた。應昌・宗載らは居正の意を迎えて事実として報告し、臺は廣西に流された。臺の父の震龍、弟の國もともに罪に坐した。
  • 臺は潯州に至って間もなく、戍主の所で酒を飲んで帰り、急死した。その日、居正もまた卒した。
  • 翌年、御史の江東之が臺の冤を訴えて宗載・應昌を弾劾した。詔して臺の官を復し、宗載・應昌を罷めて所司に廉問させた。
  • 南京給事中の馮景隆はこれを承けて、遼東巡撫の周詠が應昌とともに臺を陥れたのであり、應昌はすでに罷められたが詠はなお薊遼総督であるから同じく罷めるべきだと言った。南京御史の孫繼先もまた學顔が臺を陥れた罪を暴いた。しかし帝はちょうど學顔に心を寄せており、景隆の疏が李成梁も併せて弾劾していたことから、學顔は成梁のために訴え、繼先がさらに學顔と成梁を併せて弾劾したため、景隆を薊州判官、繼先を臨清州判官に謫し、學顔は不問に付した。
  • その後、江西巡撫の曹大埜、遼東巡撫の李松が調査を報告し、宗載・應昌らが徒党を組んで陥れた事実があるとした。刑部が故意の罪科として奏し、宗載らは遣戍・除名・降黜と差をつけて処された。臺には光禄少卿を贈り、一子を廕せた。天啓の初め、毅思と追諡された。

馮景隆――経歴

  • 馮景隆は浙江山陰の人。萬厯五年(1577年)の進士。かつて趙世卿の冤を訴え、また張位・習孔教を召すことを請い、御史の魏允貞を救おうとした。ここに至って官を謫され、のち南陽推官に量移された。

孫繼先――経歴

  • 孫繼先、字は䕃甫、盂の人。隆慶五年(1571年)の進士。
  • 居正が敗れると、繼先は吳中行・趙用賢・艾穆・沈思孝・鄒元標を召すことを請い、あわせて余懋學・趙應元・傅應禎・朱鴻謨・孟一脉・王用汲にも及び、さらに魏學曽・宋纁・張岳・毛綱・胡執禮・王錫爵・賈三近・温純・曹科・陳有年・朱光宇・趙參魯らを薦めた。諸人は在職のまま謫され、繼先は南京吏部主事で終わった。