出自と諫官時代
- 張岳は字を汝宗といい、余姚の人。嘉靖三十八年(1559年)の進士。行人を授けられ、礼科給事中に抜擢された。内府の庫蔵を巡視し、弊害を除く八事の施行を上奏した。
- のち時政について極言し、講学する者が富貴功名で士大夫を煽り立て、空虚寂滅を談じて風潮となっていると述べた。また、今は吏治がようやく清まったのに兵部だけが刷新されず、推挙・任用された総兵の黄印・韓承慶らは凡庸か狡猾であり、部内の条例は混乱して秩序なく、胥吏は結託して将校を食い物にしている、その責任の帰するところが必ずあるはずだと述べた。当時、徐階が国政を執って講学の会を開き、楊博が兵部にあったので、意図はこの二人を指していた。楊博は弁明の上奏をして辞職を願い、帝は慰留した。楊博はこれ以来張岳を憎んだ。
- 楊博が吏部を掌ったとき、張岳はすでに工科左給事中に遷っていたが、雲南参議に出され、再び遷って河南参政となった。
張居正との対立と晩年
- 万暦の初め、張居正はかねて張岳を知っていて太僕少卿に用い、再び遷って南京右僉都御史となり操江を督した。着任早々、張居正の父の喪にあたり奪情が画策された。南京の尚書潘晟と諸給事中・御史はみな上疏して張居正の留任を請うたが、張岳ひとりは疏を馳せて駅伝で喪に赴かせるよう請うた。張居正は大いに怒り、京官の大計(人事考課)にあたって給事中の傅作舟らが意を迎えて張岳を弾劾し、一階を降されて外に出された。張岳はそのまま帰郷した。
- 久しくして、操江僉都御史の吕藿、給事中の吴綰が、張居正の恨みがまだ解けていないと知り、あら探しをして弾劾し、張岳は職を落とされて閑住となった。わずか二か月後に張居正が死に、南京御史の方萬山が張岳を推薦し傅作舟を弾劾したので、傅作舟は斥けられた。
- 張岳は四川参議に起用され、まもなく右僉都御史に抜擢されて南贛を巡撫し、入って左僉都御史となった。時政について四つの議を献じた。その一つは、宗藩は世代が下るごとに待遇を減らし、親等が尽きれば停止して四民の生業を習わせるべきだというもの。その一つは、治河の策として夏鎮は当然開くべきだが沽頭もまた廃すべきでないというもの。いずれも取り上げられなかった。
- 左副都御史に進み、上疏して廷臣の賢否を論評したところ、給事中の袁國臣らに論難された。このときすでに刑部右侍郎に遷っていたが、これに坐して罷免され帰郷した。