出自と諫官・実務家としての活動
- 宋儀望は字を望之といい、吉安永豊の人。嘉靖二十六年(1547年)の進士。呉県知県に任じられた。民が白糧を京師に納めるたびに家を潰していたので、宋儀望は各区に公田を出させ、役の量を計って田を与えて賄わせた。火葬を禁じ、子游の祠を創建し、書院を建て、恵政の実績は著しかった。
- 召されて御史に任じられ、大将軍の仇鸞が寇を頼みにして自らを重んじていると弾劾したが、疏は留め置かれた。のちに時務十二策を陳べた。
- 河東で塩政を巡ったとき、桑乾河の水路を開いて宣府・大同への糧道とすることを請うた。その論は、河は金龍池に発し、甕城駅・古定橋を下って諸水を合わせ、東へ千余里流れて盧溝橋に入る、その間で難所は大同の卜村の叢石と宣府の黒龍湾の石崖くらいで、それも五十里を超えず、浅い所でもなお二、三尺あるから、掘削は容易である、というもの。かつて大同巡撫の侯鉞が小舟で懐来へ赴き、卜村・黒龍湾を経て無事に進み、また懐来から流れを遡って米三十石を積んで古定河に達した例を挙げ、漕運に足ることが実証できるとした。当時は穵運(陸路の人力運搬)で、三十石を運んでようやく一石が届く有様であった。
- 宋儀望の疏が廷議に下されると、兵部尚書の聶豹は「河が成れば漕運に便で、あわせて敵騎を制せる」と述べ、工部尚書の歐陽必進は「道は遠く役は重い」と述べ、結局取り止めとなった。
- まもなく母を見舞って帰郷し、朝に戻ると胡宗憲・阮鶚の奸貪の状を摘発し、阮鶚は逮えられた。二人はいずれも嚴嵩の私人であったので、嚴嵩は不快とした。三殿の門の工事の監督を命じられたとき、嚴嵩の子嚴世蕃が商人から金を受け取り、歐陽必進に頼んでその者を工事に加えさせようとしたが、宋儀望は認めなかった。
- 工事が完成し功を叙して大理右寺丞に抜擢されたが、嚴世蕃は自分の恩と考えていた。宋儀望は急ぎ帰郷を願い出て礼も言わなかったので、嚴世蕃はいよいよ怒った。災異にあたる京官の考察の際、歐陽必進が吏部に遷っていたので、浮躁を理由に夷陵判官に貶められた。
- 嚴嵩が失脚すると霸州兵備僉事に抜擢され、涿州に城を築くことと、馬戸の滞納税を免ずることを請うた。大名兵備副使に進み、福建に改められ、総兵官の戚繼光と兵を合わせて倭を破り、海防の善後策を列挙して裁可された。
巡撫應天と晩年
- 隆慶二年(1568年)、吏部尚書の楊博が宋儀望を退けようとしたが、考功郎の劉一儒が抑えたので、二階を降されて四川僉事に補された。四たび遷って大理少卿となった。
- 万暦二年(1574年)、国政を執る張居正はかねて宋儀望の才を知っており、右僉都御史に抜擢して応天諸府を巡撫させた。属郡の災害地の賦を減ずるよう上奏した。海の警戒がやや落ち着いて将吏が兵を語ることを憚っていたが、宋儀望は副使の王叔果とともに戦備を整えた。倭が実際に来たので黒水洋で防ぎ、多くを斬獲した。右副都御史に進んだ。
- 先に建文朝の諸臣を雪冤する詔があったので、宋儀望は表忠祠を創建してこれを祀った。南京の宋の忠臣楊邦乂は宋儀望と同郷で、江寧に葬られていたが年久しく埋もれていたので、その墓を封じ、祠祀の典に載せた。故太常卿の袁洪愈、祭酒の姜寶はいずれも張居正に好かれていなかったが、宋儀望は彼らを朝廷に薦めたため、次第に張居正の意に背いた。
- 四年(1576年)、南京大理卿にやや遷り、翌年北京に改められたが、弾劾されて罷免され帰郷した。
- 宋儀望は若くして聶豹に師事し、王守仁に私淑し、また鄒守益・歐陽徳・羅洪先に従って学んだ。王守仁が文廟に従祀されたのは宋儀望の力によるところが大きい。郷里に居ること数年で没した。