明史卷二百二十七 列傳第一百十五 龎尚鵬

篇首の立伝者一覧

  • 龎尚鵬
  • 宋儀望
  • 張岳
  • 李材
  • 陸樹徳
  • 蕭廪
  • 賈三近
  • 李頤
  • 朱鴻謨
  • 蕭彦(弟の雍、査鐸)
  • 孫維城
  • 謝杰
  • 郭惟賢
  • 萬象春
  • 鍾化民
  • 吳達可

出自と御史時代

  • 龎尚鵬は字を少南といい、南海の人。嘉靖三十二年(1553年)の進士。江西楽平の知県に任じられ、御史に抜擢された。
  • 給事中の羅嘉賓とともに南京・浙江の軍餉を調査に出て、参将の戚繼光・張四維を罪に問うよう請い、胡宗憲の失律と貪淫、軍事を興すにあたって督撫が軍需を横領した実情をことごとく暴いた。
  • 朝に帰り、河南の巡按に出た。巡撫の蔡汝楠が連名の上奏で白鹿を献じようとしたが、龎尚鵬は認めなかった。
  • 浙江の巡按に移る。民が徭役に苦しんでいたので一条鞭法を実施した。郷官の吕希周・嚴杰・茅坤・潘仲驂の子弟や下僕を取り調べ、吕希周らの冠帯(身分)を剥奪するよう請うたところ、詔ですべて庶人に落とされた。龎尚鵬は剛直で頼るところがなく、赴任先で豪強を打ち、吏民は震え上がった。
  • のち畿輔の学政を監督した。隆慶元年(1567年)、帝が時に便殿に出て大臣に会うこと、諫言によって罪を得た馬從謙らを憐れむことを請うた。また給事中の胡應嘉を弁護し、大学士の郭朴には宰相の体がないと論じた。大理右寺丞に抜擢された。

屯田・塩政の経営

  • 翌年春、朝議で九辺の屯田と塩政を興すことになり、龎尚鵬は右僉都御史に抜擢され、副都御史の鄒應龍・唐繼祿とともに分担して管理した。龎尚鵬は両淮・長蘆・山東の三運司を管轄し、あわせて畿輔・河南・山東・江北・遼東の屯務を管理した。
  • 昌平に着くと内侍の張恩がほしいままに人を殺したことを弾劾し、両淮巡塩の孫以仁の贓罪もあわせて摘発して、いずれも処罰させた。
  • その秋、鄒應龍らが召還され、龎尚鵬に九辺の屯務を兼領させた。塩政二十事を列挙して上奏し、塩の利は大いに興った。そこで江北から自ら九辺を巡り、前後して屯政の便宜を上申した。江北について四か条、薊鎮について九か条、遼東と宣府・大同についてそれぞれ十一か条、寧夏について四か条、甘粛について七か条で、奏するたびに裁可された。
  • 龎尚鵬は任が重くなるにつれ、経世の才を自負して慷慨と事に当たった。塩政を監督する諸御史は事権を奪われたので、これを攻めて追い落とそうとした。河東巡塩の郜永春が、龎尚鵬の行いは道理に背くと弾劾したが、吏部尚書の楊博は留任を主張した。ところが宦官が楊博を憎んで帝の怒りを煽り、譴責のうえ楊博を罷免し、龎尚鵬の職も落とし、屯塩を管する都御史の官そのものを廃した。隆慶三年(1569年)十二月のことである。
  • 翌年、さらに浙江巡按時代に進上の宮幣を検査して規格に合わなかった件に坐して庶人に落とされた。

福建巡撫と晩年

  • 神宗が立つと、御史の計坤亨らが相次いで推薦し、保定巡撫の宋纁もその無罪を明らかにした。万暦四年(1576年)冬、ようやくもとの官で福建を巡撫した。滞納の餉銀の免除を上奏し、一条鞭法を施行し、総兵官の胡守仁を弾劾して罷免させ、属吏はみな職務に励んだ。
  • 張居正が奪情(喪に服さず留任)して諫言者が重く罰せられたとき、龎尚鵬は書を送って諫言者を救おうとしたので、張居正は深く恨んだ。左副都御史に任じられた折、張居正は吏科の陳三謨に命じ、給由(勤務評定書)の年月に誤りがあるとして弾劾させ、ついに罷免された。
  • 郷里に居ること四年で没した。浙江・福建および郷里の広東では、いずれも徭役が軽くなったことを龎尚鵬の徳とし、祠を建てて祀った。天啓年間に恵政と諡された。