明史卷二百二十四 列傳第一百十二 孫鑨
字は文中、都御史孫燧の孫で禮部侍郎孫陞の子である孫鑨。嘉靖三十五年の進士で、武選郎中のとき斎居して政を執らぬ世宗に朝を請い、寵臣・方士を趙髙・林靈素になぞらえて非難した。吏部尚書となって宋纁・陸光祖以来の吏部の権限を守り、閣臣に道を譲らなかった。萬厯二十一年の京察では趙南星とともに請託を退け、自身の甥や趙志臯の弟までも黜けたため、首輔王錫爵ら執政の恨みを買い、拾遺の留任をめぐって「専権結党」の厳旨を受けた。陳泰來・李世達らが弁護したがいずれも左遷・除名され、鑨も十度の上奏の末に帰郷を許された。三年後に没し、太子太保を贈られた。
年表(7件)
- 嘉靖十四年1535年父の陞が進士に及第し、編修に任じられる
- 嘉靖三十五年1556年進士に及第し、武庫主事に任じられる
- 隆慶元年1567年南京文選郎中として起用される
- 萬厯二十一年1593年京察を掌って請託を退け、専権結党の厳旨を受けて辞職に追い込まれる
- 萬厯五年1577年丁丑の京察が張居正の奪情のため星変にかこつけて行われる
- 萬厯九年1581年辛巳の京察で吳中行ら建言の諸臣が禁錮される
- 萬厯十五年1587年丁亥の京察が排斥の邢議となり、当時の議論にそしられる
父の孫陞
- 孫鑨は字を文中という。父の陞は字を志髙といい、都御史孫燧の末子である。嘉靖十四年(1535年)の進士及第で編修に任じられ、累進して禮部侍郎となった。
- 嚴嵩が政権を握ったとき、陞はその門生でありながら一人だけ阿らなかった。南京禮部尚書が欠員となり誰も赴任したがらなかったとき、陞だけが赴任を願い出た。没して太子少保を贈られ、諡は文恪。
- 陞は父が宸濠の乱で死んだことを思い、生涯「寧」の字を書かず、人のために寿文を作ることもしなかった。官にあって人の過失を口にせず、当時、篤行の君子と称された。
- 四人の子は鑨・鋌・錝・鑛。鋌は南京禮部右侍郎、錝は太僕卿、鑛には別に伝がある。
出仕から吏部尚書まで
- 鑨は嘉靖三十五年(1556年)の進士で、武庫主事に任じられ、武選郎中を歴任した。尚書の楊博が深く器量を認めた。
- 世宗が二十年にわたり斎居して政に出ず、諫める者は罰せられていたが、鑨は群臣に朝すべきだと請い、寵臣や方士を厳しく非難して趙髙・林靈素になぞらえた。宦官が握りつぶして奏聞しなかったので、鑨は病と称して帰郷した。
- 隆慶元年(1567年)に南京文選郎中として起用され、萬厯の初めに光禄卿まで累進したが、病と称して帰った。郷里にあること十年、小さな楼に起き臥しし、賓客がその顔を見ることはまれであった。
- もとの官で起用され大理卿に進んだ。都御史吳時來の議した律例に誤りが多かったので、鑨は力争し、帝はことごとくその反論に従った。南京吏部尚書を歴任し、まもなく兵部に改まり機務に参贊することとなったが、その命が下ったところで陸光祖が去り、後任の廷推が二度行われた末、召されて吏部尚書となった。
- 吏部は宋纁と光祖が政を執って以来ようやく権限を取り戻していたが、鑨に至ってその守りはいっそう固くなった。従来、冢宰(吏部尚書)は閣臣と行き合っても道を避けなかったが、後には避けるのが常となり、光祖が争ってもとに復した。それでも閣臣は密かに馬丁に別の道を通るよう命じていたが、鑨に至ってはいよいよ真っ直ぐ進んだ。
- 張位らは不満で吏部の権を削ごうとし、大官に欠員が出たら九卿が各一人を挙げてまとめて奏上し裁可を仰ぐことにして専断を防ぐべきだと建議した。鑨は、廷推は大臣が共に可否を計るもので、爵位を朝廷で衆と共にする趣旨にかなうが、まとめて奏上するのは幸進の道を開き制度に反すると述べ、給事中の史孟麟も同じ意見だった。詔はついに位の議のとおりとなり、これ以後、吏部の権はまた次第に九卿へ分散した。
萬厯二十一年の京察と専権結党の詔
- 萬厯二十一年(1593年)の京朝官の大計では、請託を厳しく退けた。文選員外郎の吕允昌は鑨の甥であったが真っ先に罷免し、考功郎中の趙南星も自分の姻戚を罷免した。世論が認めない者はほぼ全員が貶黜され、大學士趙志臯の弟もその中にあった。これによって執政はみな不快であった。
- 王錫爵が首輔として朝廷に戻り庇おうとしたが、着いたときには既に考察の上奏が出ており、庇いたい者も罷黜の中にあって、恨みを抱かずにはいられなかった。
- 言官が拾遺(考察後の追加弾劾)で稽勲員外郎の虞淳熙・職方郎中の楊于廷・主事の袁黄を論劾すると、鑨は黄を左遷し淳熙と于廷は留任とする議を立てた。詔は、黄も軍務の贊畫に当たっているとしてこれも留めた。給事中の劉道隆が淳熙・于廷の留任は不当だと言うと、厳旨が下って部の臣が専権し党を結んでいると責めた。
- 鑨は、淳熙は自分と同郷で貧に安んじ学を好む者、于廷は西方の軍事に尽力し尚書石星もその才を極言した者で、いま寧夏が平定されたばかりなのに功をもって罪とすることはできない、また覆議と名づける以上は異同を憚らぬもので、無罪と知りながら諫官の一言で去らせるのは自らを欺き君を欺くことで臣の義として忍びない、と述べた。
- 帝は鑨が罪を引かないとして俸を奪い、南星を三階級降し、淳熙らはみな罷免した。鑨は辞職を願い、あわせて南星の無罪を訴えた。左都御史の李世達も、自分が共に考察を掌ったのに南星だけが処分されたとして、南星・淳熙らのために訴えた。帝はいずれも聴かなかった。
- そこで僉都御史の王汝訓、右通政の魏允貞、大理少卿の曽乾亨、郎中の于孔兼、員外郎の陳泰來、主事の顧允成・張納陞・賈巖、助教の薛敷教が相次いで上奏して南星の冤を訴えた。中でも泰來の言辞が最も切実であった。
陳泰來の上奏
- 泰來の上奏の要旨は次のとおり。自分は四度の京察を経てきた。丁丑の年(萬厯五年・1577年)は張居正の奪情のため、御史朱璉の謀で星変にかこつけて吏を考察し衆口を封じたもので、部の事務を代行した方逢時と考功郎中の劉世亨はその間で去就を曖昧にし、蔡文範・習孔教らが揃って考察の名簿に載ったのは衆の納得を得なかった。
- 辛巳の年(萬厯九年・1581年)は居正の威福が既に成り、王國光は唯々諾々と従うばかりで、考功郎中の孫惟清が吏科の秦燿と謀って建言した諸臣の吳中行らをことごとく禁錮した。いまの輔臣趙志臯・張位、撫臣趙世卿も南北の京察に名を載せられ、世論はその冤を認めている。
- 丁亥の年(萬厯十五年・1587年)は御史の王國が給事中の楊廷相・同官の馬允登を排斥した邢議で、尚書の楊巍はもともと曖昧な性質、考功郎の徐一檟は調停の策を立てて是非の弁別を失い、これも当時の議論にそしられた。
- ただ今春の考察だけは広く諮り実情を調べ、邪佞をことごとく退け貪汚を必ず淘汰した。鑨は甥(渭陽の情)を切り捨て、南星は姻戚(秦晉の好)を忍んで退けたのであって、公正この上ない。
- 元輔の錫爵は日程を早めて召しに応じたので、考察の典に干渉したいのではないかと疑う者もあった。いまその親故がみな庇われなかったので、南星を害したい気持ちを久しく抱いていたのだ。だから道隆の上奏が出るとすぐに専権結党の旨が下ったのである。
- そもそも吏部が一、二の下僚の留任を議したのを結党というなら、両京で拾遺に論劾された大官二十二人のうち閣臣が留任を議したのは六人、詹事の劉虞夔は錫爵の門生でありながら留任した。これだけは党でないと言えるのか。
- しかも部の権が内閣に帰したのは髙拱が兼摂して以来一日のことではない。尚書では張瀚・嚴清のほか、選郎では孫鑛・陳有年のほかは、誰もが命に従って奔走し、その流れは楊巍に及び、劉希孟・謝廷宷に至って地を払った。尚書宋纁がやや振るい起こそうとしたが、ついに前の輔臣申時行に追い詰められて死んだ。尚書陸光祖・文選郎の王敎・考功郎の鄒觀光が澄清を志し、輔臣王家屏が虚心に聴いたので、銓叙は次第に清まった。ところが時行は郷里に帰った身でありながら朝廷に伏線を張り、内官の張誠・田義および言路の息のかかった者に授意して、教と觀光はほどなく斥けられた。いまその手口を踏襲し、拾遺にかこつけて聖怒を煽っている。これは内官と閣臣が表裏をなして部の臣を締め付けているのに、陛下がそれを察しておられないのである。
- 上奏が入ると帝は怒り、孔兼・泰來らを左遷した。世達がさらに上奏して救おうとしたので、帝は怒って南星・淳熙・于廷・黄をことごとく庶人とした。
- 鑨はそこで上奏し、吏部は人の登用を職務とするが進退去留は必ず上意を待つのだから権はもとより上にあり臣の部が専らにできるものではない、いま二人の庶僚を留めたことを専権とするなら何をしても専権であり、二人の司属を留めたことを結党とするなら何をしても結党である、専権結党の嫌疑を避けて畏縮し銓職を軽くするなら臣が最初の例となる、それこそ臣の大罪である、自分が任にたえず身を潔くして去るだけで専権結党の説を当時に明らかにしないままにし、後任者が臣を戒めとするようになるのもまた大罪である、と述べ、辞職を固く請うた。それでも許されなかった。
- 鑨は門を閉じて病と称し、上奏を重ねた。帝はなお温旨で慰留し、羊・豚・酒・醬・米などを賜り、侍郎の蔡國珍に選事を暫定的に代行させて鑨の起用を待った。鑨は三か月堅く臥し、上奏が十度に及んで、ようやく駅伝で帰郷することを許された。三年後に没し、太子太保を贈られ、諡は請簡。
- 鑨はかつて「大臣は意見が合わなければただ身を引くべきで、そうでなければ職務があるのだから慎んで自らを守れば足りる」と言った。その志節はこのようであった。
- 子の如法は刑部主事の官にあり、鄭貴妃の進封を諫止したため潮陽典史に貶された。久しく経って病と称して帰り、廷臣が何度も推薦したがいずれも握りつぶされた。没して光禄少卿を贈られた。