明史卷二百十六 列傳第一百四 顧錫疇

出自と國子監の改革

  • 顧錫疇は字を九疇といい、崑山の人。十三歳で諸生として南京で試験を受けたとき、魏國公はその娘を嫁がせた。
  • 萬厯四十七年(1619年)に進士に及第、庶吉士に改められ、檢討に任じられた。天啓四年(1624年)、魏忠賢の勢いが盛んだったころ、錫疇は給事中の董承業とともに福建の試験を主宰したが、策問に大いに諷刺があったため、忠賢の一党は東林と指弾し、二人はともに降格転任させられ、のちさらに籍を削られた。
  • 崇禎の初め、召されて旧官に復し、たびたび遷って國子祭酒となった。積分法(監生の成績積算法)の復活を上疏して請うたが、礼官が阻んで行われず、錫疇はあらためて申し立て、さらに監生から州県の長官を選ぶことを請うた。ついで従祀の位次を正すこと、進士から國子博士となった者も考選に加われることを請い、帝はいずれも許した。
  • 親を見舞うため帰郷し、在籍のまま終養することを願い出た。母の喪が明けて少詹事に起用され、詹事に進み、禮部左侍郎を拝して部の事を署した。

用人の五失と楊嗣昌との対立

  • 帝がかつて召見して理財と用人を問うたとき、錫疇は退出後、用人の五つの失を列挙して陳べた。銓叙に法が無いこと、法網が厳しすぎること、議論が多すぎること、資格にこだわりすぎること、士気の鼓舞が足りないことである。
  • そのうえで、まず人を用いる場(吏部)にその源を清くさせ、心を凝らして鑑別し、才に随って器として用いるのが第一の善である。小過を赦して最後まで棄てないのが第二の善。議論を省いて成果の責任を専らにさせるのが第三の善。異才を抜いて常格にとらわれないのが第四の善。奨励を急にし督責を寛やかにするのが第五の善である、と請うた。末尾では財を損なう弊を極言し、やはり用人に帰着させた。帝はその奏をよしとした。
  • 楊嗣昌が流寇の招撫を上疏して請うたとき、「天を楽しむ者は天下を保つ」「善く戦う者は上刑に服す」の語があった。錫疇は、これは諸侯が隣国と交わる場合の事であって引用が不適切だと抗言し、嗣昌と大いに対立した。
  • 嗣昌が政を執ると、詞臣の多くが彼を攻撃したので、嗣昌は錫疇をかなり疑った。折しも駙馬都尉の王昺に罪があり、鍚疇が軽い処分を擬したのを嗣昌が構え立て、ついに籍を削られた。
  • 十五年(1642年)、廷臣がこぞって推薦して召還された。御史の曹溶・給事中の黄雲師が重ねて起用は不当だと言ったが、帝は聴かず、南京禮部左侍郎に起用した。

南京朝廷での礼制の議

  • 福王が立つと本部(禮部)の尚書に進んだ。当時、福恭王を恭皇帝と尊び廟祀を議そうとしていたが、錫疇は別に専廟を立てるよう請うた。ほどなく建文帝の廟諡、景皇帝の廟号、および建文朝の忠臣への贈官・贈諡を補うよう請い、いずれも従われた。
  • 東平伯の劉澤清が、宋の髙宗は南京で即位するや靖康二年五月を建炎元年としたのは民望に従ったものだ、として、今年の五月を𢎞光元年とするよう乞うた。錫疇は、明詔がすでに頒たれた以上さかのぼって改められないと言い、沙汰やみとなった。
  • そのとき大行皇帝の廟号を思宗と定めたが、忻城伯の趙之龍が「思」は美称ではないと言い、その論拠は的確であった。錫疇もそのとおりだと考え、上疏して改定を請うた。大學士髙𢎞圖は先の議が自分から出たものだとして強く固持し、そのままとなった。
  • 溫體仁の死に際して特に文忠と諡されたのに、文震孟・羅喻義・姚希孟・吕維祺はみな諡を得られなかった。錫疇は、體仁は君の信を得て政を行うことがもっとも専らかつ長く、先帝に負うた罪は大きく深い、文忠の諡は削るか改めるかして震孟ら諸臣に諡を補われれば天下に勧懲の道が立つ、と言った。裁可され、諸人に諡が贈られ、體仁の諡は削られた。
  • 吏部尚書の張慎言が職を去り、後任の徐石麒が着任しないうちに、錫疇に摂行を命じた。当時、馬士英が国政を握り、錫疇はもとより折り合わず、給事中の章正宸・熊汝霖に弾劾され、そこで南海の祭祀を願い出て去った。
  • 翌年春、御史の張孫振が體仁の功を力説して旧諡の回復を請い、ついに錫疇は致仕させられた。
  • 南都が守れなくなり、錫疇の郷里も破られた。そのとき父の喪に遭っていたが、辛苦を経て閩に赴いた。唐王が旧官をもって命じたが、力めて辞して拝命せず、溫州の江心寺に寓居した。
  • 總兵の賀君堯が諸生を打ちすえて辱めたので、錫疇が君堯を弾劾しようとしたところ、君堯は夜に人をやって錫疇を殺し、屍を江に投じた。溫州の人が三日探してようやく見つけ、棺に納めた。

史論

  • 贊に曰く。呉山らはゆったりと館閣に在り、台省を歴任し、まことに詞苑の大儒、廟堂の高い望みというべき人々である。
  • 明は嘉靖・隆慶ののち、権臣と宦官が相次いで国政を握った。しかし彼らはみな激することも流されることもなく、正を守って自ら立つことができた。もし太平の世に遭って羽儀・黼黻の任に当たっていたなら、その現したところがこれだけにとどまったはずがあろうか。