明史卷二百十六 列傳第一百四 許士柔

光宗實録の改竄を糺す

  • 許士柔は字を仲嘉といい、常熟の人。天啓二年(1622年)の進士、庶吉士に改められ、檢討に任じられた。崇禎のとき、たびたび遷って左庶子となり左春坊の事を掌った。
  • 先に魏忠賢が三朝要典を編纂したとき、光宗實録の記載が要典と食い違うことから、葉向髙らの修めたものは事実でないから修め直すべきだと言い、要典に牴牾する箇所をほしいままに改削した。崇禎の改元とともに要典は焼却されたが、改竄された光宗實録はそのままであった。
  • 六年(1633年)、少詹事の文震孟が、皇考の實録は魏黨の曲筆であるから元の記録に従って改正すべきだと言った。当時、溫體仁が国政を握り、王應熊らとひそかに阻んで、事は沙汰やみになった。
  • 士柔は憤然として「それでは要典を焼かなかったのと同じだ」と言い、上疏した。皇考の實録は総記において世系だけが省かれ、皇上が母胎で教えを受けられた年も御誕生の日も書かれていない。命名の典も潜邸の号も書かれていない。聖母がどの氏族の出でどのような封号を受けられたかも書かれていない。これらはみな元の記録に詳しく載っていたのを、改めた記録がわざと削ったものである。元の記録が成ったのは皇上が潜邸におられた日でありながらあれほど詳しく慎重であり、新しい記録が進められたのは皇上が御即位の初めでありながら、どうしてこれほど粗略なのか。聖朝の父子・母后・兄弟の大倫をみな暗くして明らかにせず、欠いて考えようもなくさせて、信ずべき史とどうして言えようか、と。疏は上ったが省みられなかった。
  • 體仁が中書官に穆宗の総記を検めさせて士柔に示すと、士柔は文書を具して争った。皇考の實録は列聖の条例とは異なる。列聖は在位が長く、即位後の事を編年で並べれば総記に書かなくてもよい。皇考は在位わずか一月で、三后が聖躬を生み育てられたのはみな未即位以前のことである。これを総記に書かなければ、どこに書くのか。穆廟の大婚の礼と皇子の誕生は嘉靖年間のことゆえ総記に載せていないが、冊立の大典については編年に必ず具さに載せている。皇考は一月で世を易えられた。熹廟の冊立を書くべきなら、皇上の冊封だけ書かなくてよいはずがあろうか、と。
  • 體仁は怒って弾劾しようとしたが、同列に押しとどめられた。士柔はさらに上疏した。累朝の實録に世系を書かない例は無い。臣が改めた記録をあばき出したのは、まさに累朝の成例と合わないからである。孝端皇后は皇考の嫡母であり、元の記録はその保護の功を具さに書いているのに、改めた記録がこれを削ったのはなぜか。当時、国本がほとんど坤寧宮の調護にかかり、まことに孝慈の極みであった。その厚い恩顧を、史官が寸ばかりの筆で難なく抹殺してしまう。これはとりわけ理解しがたい、と。疏は上って聞き置かれ、體仁はますます不快となった。
  • 折しも體仁が劉孔昭をけしかけて祭酒の倪元璐を弾劾させたとき、士柔の一族の子である重熙が私に五朝注略を撰したと言い、士柔に連座させようとした。士柔がただちに注略を差し出したので、ようやく解けた。ついで南京國子祭酒として出された。

誥文の件で降格

  • 體仁が去り張至登(張至發の誤りか)が国政を握ると、いよいよ士柔を追い出そうと謀った。
  • 先に高攀龍に官が贈られたとき、士柔が詔の文案を草して内閣に送ったが、攀龍の家に交付されないままであった。旧例では贈官の誥は誥敕中書の職掌であるが、崇禎の初めに諸忠臣を褒賞・弔慰する際、翰林の文章に堪能な者がこれを作ることがあり、中書は職分を侵すものと考えていた。崇禎三年(1630年)には誥文に駢儷体の語を用いることが禁じられた。
  • このとき攀龍の家が交付を請うたが、士柔が制を草してからすでに数年たっていたのに、主管者はなお士柔が以前に撰した文を進めた。中書の黄應恩が至發に告げ、誥の語が禁令に違うと言い、至發は喜んで士柔を弾劾し、二階級降して転任させた。
  • 司業の周鳳翔が抗議して弁じた。詞林の旧例では、閣臣が分担して撰文させ、あるいは自ら手を加えて詳定し、あるいは書き改めさせるもので、いきなり自ら糾弾した例は無い。誥敕の用印には年ごとに定まった時期があり、十年後に用印して進呈し、制を担当した者をあげつらった例は無い。贈官の誥は専ら中書の職掌だとして崇禎三年に申し渡されたのであって、元年の史官をさかのぼって咎め、職分を越えたとそしった例は無い、と。返答は無かった。
  • 士柔はまもなく尚寶司丞に補され、少卿に遷って没した。子の琪が闕下に赴いて誣告を弁じ、そこで元の官に復され、詹事兼侍讀學士を贈られた。