明史卷二百十五 列傳第一百三 詹仰庇

宝珠購入を諫める

  • 詹仰庇は字を汝欽といい、安溪の人。嘉靖四十四年(1565年)の進士。南海知縣から召されて御史となった。
  • 隆慶の初め、穆宗が戸部に宝珠を購わせる詔を出し、尚書の馬森が執って上奏し、給事中の魏時亮、御史の賀一桂らが続いて争ったが、いずれも聞き入れられなかった。
  • 仰庇は疏を上げて言った。このたび言官が宝珠の購入を諫めてかえって叱責を受けた。むかし仲虺は湯王を戒めて声色に近づかず貨利を殖やすなと言い、召公は武王を戒めて人をもてあそべば徳を失い物をもてあそべば志を失うと言った。湯王と武王がこの二臣の戒めを受け入れて愛玩の品を絶ったからこそ、聖徳は千載に輝いている。ひとたび奢侈の心が生じれば二度と抑えられず、情を恣にし欲を縦にすれば財は尽き民は窮する。陛下が愛玩の端を開かれれば、過ちを正す諫言を聞くのを嫌われるようになり、小人どもが隙に乗じてあらゆる手で誘惑し、その害は言い尽くせない。まして宝石や珠玉は多く中官の家に蔵されており、求めが急なほど値を吊り上げる。なぜ用のある財を用のない物のために費やすのか。いま両廣が兵糧を必要としてたびたび請うているのに、なお出し惜しんで与えられない。軽重が逆さまではないか、と。返答はなかった。
  • 三年(1569年)正月、中官が花火を作って禁中の建物に延焼させたので、仰庇は取り調べを請い、左右の近習には歯ぎしりする者が多かった。

陳皇后のための直諫

  • 帝はかなり声色にふけっており、陳皇后がそれとなく諫めたところ、帝は怒って別宮に出した。外廷はみな憂えたが誰も口に出せなかった。
  • 仰庇は参内の折に禁中から出てくる医者に会い、尋ねて皇后が重い病に臥していると知り、すぐに疏を上げて言った。先帝は賢淑な方を慎んで選んで陛下に配し、宗廟社稷の内主とされた。陛下は先帝の命に従って宮闈の睦みを篤くされるべきである。近ごろ聞けば皇后が別宮に移られてすでに一年近く、鬱屈して病となられたのに、陛下は少しも見舞われない。万一のことがあれば聖徳はどうなるのか。臣下はみな憂え惶れているが、事が宮禁に関わるので公然と言えないだけである。臣は思う、人臣の義として、知って言わなければ死に当たり、言って忌諱に触れてもまた死に当たる。臣は今日、死を惜しまない。願わくは臣の言を採り、ただちに皇后を中宮に復し、折々に慰問されたい。臣は死んでも生きるにまさる、と。
  • 帝は手ずから批答して言った。后は子がなく病が多いので別宮に移し、しばらく気ままにさせて病を退けようとしているのだ。お前が内庭の事の何を知って妄りに言うのか、と。
  • 仰庇は重い処罰を覚悟し、同僚も危ぶんだが、旨が下ると内外は驚き喜んで望外の思いをした。

十庫巡視の上奏と廷杖・除名

  • 仰庇はいよいよ感奮した。まもなく十庫を巡視して疏を上げて言った。内官監は歳入の租税がきわめて多いのに、歳出は帳簿に記していない。京城の内外の園・店舗・場地でこの監に属するものは数十を数え、その歳課はみな官の銭であるのに、内臣は上供の名を借りて思うままに漁り取り、利は私家を満たし、咎は朝廷に帰している。詳しく調べ、留めるべきもの・革むべきもの、および出入の多寡の数を明らかにして、不正と欺瞞を防がれたい。
  • また、人主の奢と倹は四方の安危に関わる。陛下は先に戸部の銀を取って急に備えられたが、いま本監の言うところによれば、それをことごとく鰲山の造営、宮苑の修築、鞦韆の製作、龍鳳の艦の建造、金櫃・玉盆の細工に用いている。小人どもがそれに乗じて着服し、聖徳を累わせ国計を欠かせている。陛下は深く省みられ、愛玩の品で迎合する者はすべて退けて罪せられたい、と。
  • 宦官はますます恨んだ。旧例では、諸官庁の文書のやりとりや民を治める官が布告を出すときに「照」の字を用い、言官の上書にはこの体裁がない。宦官はそこで「再照」の語をとらえて大不敬だと言い立てた。帝は怒って詔を下し、「仰庇は小臣の身で天子に照するとは。しかも狂放でたびたび改めない」と言い、廷杖百のうえ除名し、あわせて科道官による庫蔵の巡視も廃した。
  • 南京給事中の駱問禮、御史の余嘉詔らが救いを求める疏を上げ、あわせて巡視の官を廃すべきでないと述べたが、容れられなかった。
  • 仰庇は御史であることわずか八か月で、たびたび正論を述べ、ついに罪を得た。

再起後の晩節

  • 神宗が位を継ぐと先朝の直臣を記録したが、仰庇は在京のとき商人のために仲介をしたことがあったため、中央への召還はかなわず、廣東參議に任じられた。まもなく帰郷を願い出、十余年家居した。
  • のち江西で官に起用され、ふたたび南京太僕少卿に移り、中央に入って左僉都御史となり、左副都御史に進んだ。
  • 仰庇ははじめ直節で盛名を得たが、このころには地位を保つ計らいから、権勢への追従を免れないところがあった。饒伸が科場の事で大學士の王錫爵と左都御史の吳時来を弾劾すると、仰庇はただちに伸を弾劾した。進士の薛敷教が時来および南京右都御史の耿定向を弾劾すると、仰庇はその疏を読みもしないうちに敷教が大臣を陥れたと論じ、敷教は廃された。
  • 吏部侍郎の趙煥、兵部侍郎の沈子木が相次いで去ったとき、仰庇がその後釜を狙う動きがかなり目についた。給事中の王繼光、主事の姜士昌、員外郎の趙南星、南京御史の王麟趾らが相次いで論じ立て、仰庇は居心地悪く、たびたび辞職を求めた。帝は慰留したが世論の取り沙汰はやまず、やや移って刑部右侍郎となり、病と称して帰郷し、久しくして卒した。